第2部 花嫁は叶わぬ恋をする

第1話 花嫁の憂鬱

 リンデガルム王国は、大陸の北北東に位置するリンデガルム峡谷に王城を構える大国である。

 国土のおおよそ半分は年中霧に覆われ、陽の光が行き届かない不毛の地となっているため、国民の多くは常に飢えに瀕しているという。

 だが、その飢渇ゆえに国民の上昇志向は強固なものであり、戦争ともなれば、そこらの裕福な国では相手にならない。事実、リンデガルムは数多の国から領土を奪い成長を続ける、戦に支えられた国でもあった。


 不屈の精神をもつ騎士達と共に戦で恐れられるのは、リンデガルム峡谷に生息するヴァンクーゲルと呼ばれる翼竜だった。

 気性の荒い翼竜を乗りこなし空を駆けるリンデガルムの竜騎士は、一騎で通常の馬に騎乗する騎士のおよそ十騎分の戦力に値するとされており、群れを成して戦場の空を覆うその姿は、さながら死神の影のようでもあった。



***



「素敵ね……」


 窓辺に頬杖をつき、マナは小さくため息を吐いた。その瞳には、朝焼けの空を舞う数頭の飛竜が映っている。


「恐ろしい使い魔のようじゃありませんか。ひとを食べる飛竜だと専らの噂ですよ。特に神竜ディートリンデは気性の荒さも桁違いで、王位継承権を得るために彼女を手懐けようとして命を落とした王族は数知れないとか」


 手入れを終えた花瓶をミニテーブルの上に飾り付けたエステルが、諫めるようにマナに言った。


「詳しいのね」

「当然、調べさせていただきました。このリンデガルム王国は、大切な王女様の嫁ぎ先ですもの」


 きょとんとするマナに向かってそう言うと、エステルはふふんと鼻を鳴らし、胸を張った。

 ラプラシアにいた頃と変わらないエステルの親しげな振る舞いに、浮かない様子だったマナの顔にも自然と笑みが浮かぶ。


「正直に言うとね、知らない土地にひとりで嫁ぐのは少し不安だったの。エステル、あなたが一緒に来てくれて、本当に嬉しいわ」

「まぁ、マナ様、勿体無いお言葉です。私で宜しければ、どうぞ花嫁道具代わりにお使いください」

「エステル、ありがとう……!」


 マナが勢いよくエステルの胸に飛び込むと、わずかに動きを止めたあと、エステルは和やかに微笑んだ。



 十七回目の誕生祭でリンデガルムの王子セイラムと婚約したマナは、先日、母国ラプラシアを離れ、このリンデガルム王城にやってきたばかりだ。

 近日中に婚姻の儀を控えているとはいえ、城の者には余所者同然に扱われており、禁じられているわけではないにしろ、自由に城内を散策することさえ躊躇われる状況だった。

 窮屈な生活を強いられている今のマナにとって、子供の頃から身の回りの世話を任せてきたエステルは唯一わがままを言える相手であり、無邪気に甘えるマナを優しく包み込んでくれる、まるで姉のような存在でもある。


「マナ様、婚姻の儀まで特に予定が無いとはいえ、淑女レディがいつまでも寝間着のままでいけませんよ」


 エステルに指摘され、「はぁい」と気の抜けた返事をすると、マナは促されるままに姿見の前に立った。

 エステルは手早くマナの寝間着を脱がし、レースのあしらわれた白い肌着に着替えさせて、マナの身体をコルセットできつく締め上げた。ラプラシアから持参したお気に入りのドレスに身を包み、鏡台の椅子に腰を掛けたマナの長い髪に、慣れた手付きで白い花を編み込んでいく。

 あっという間に、マナは王女の肩書きにふさわしいドレス姿に変身した。


「せっかく着替えても、エステルの他に誰にも見てもらえないのね」


 大きなため息と共にベッドの上に腰を下ろし、マナは浮かない表情で嘆いた。


 そもそも、この城に来てからというもの、マナは婚約者であるセイラム王子にすら会っていない。

 遠方からはるばる婚約者がやってきたのだから、顔くらい覗きにきてくれても良いのではないかと思うのに。


 婚約祝いの宴の朝に不思議な記憶が蘇ったせいで、ただでさえセイラム王子との政略結婚に気後れしてしまっているのに。それに加えてこの放置状態では、新しい恋もへったくれも無い。

 知らない土地で、知らない人々に囲まれて、エステルが居なければ、マナは早々に孤独死してしまうところだった。

 せめて、一緒に居て楽しい相手がいれば。



「居たわ!」


 ぽんと手のひらを打ち、マナは唐突に立ち上がった。

 こんなとき、本来なら一番に婚約者のことを考えるべきなのだろう。けれど、マナの頭に思い浮かんだ顔はセイラム王子のものではない。濃い色の髪から碧眼が覗く、黒鉄の鎧の彼のものだ。

 セイラム王子は、自身の護衛を務める彼に、婚約者であるマナの護衛も任せると言っていた。彼が一緒なら、城内を散策しようと城下町へ出歩こうと、誰にも文句は言われないはずだ。


「良い機会だわ! 婚姻の儀の前に、彼に城下町を案内してもらいましょう!」

「城下町……って、マナ様? マナ様、お待ちください!」


 狼狽えるエステルの声にも応えずにドレスの裾を翻し、マナはつかつかと歩き出した。


 こうして、王太子妃のために用意された華やかな王城の一室の扉は、数日ぶりに開け放たれたのだった。



***



 どうしてこうなってしまったのか。

 自身の軽率な行動を振り返り、マナは居た堪れない思いでドレスの端を握り締めた。


 静まり返った執務室に、羽根ペンが紙の上をはしる澄んだ音が響く。

 整然と片付いた部屋の中央に置かれた書斎机に向かい、書類に目を通していた蜂蜜色の髪の青年は、しばらくすると小さく息を吐いて顔を上げた。少し長めの前髪の隙間から、空の色に似た碧眼が覗く。


「久しぶりに顔が見れて嬉しいよ、マナ。相手をしてあげられなくて、すまなかったね」


 うつむいたマナに優しく声をかけると、セイラムは澄んだ瞳をすっと細めた。

 マナは慌てて顔を上げ、しゅんとして謝罪の言葉を口にする。


「……いいえ。あの、こんなことになってしまって、本当にごめんなさい」

「本来であれば、きみが城で暮らすことになったその日に僕が伝えておくべきだったことだ。ここ数日、病で臥せっていたとはいえ、他の者に代わりを頼んでおくべきだった。反省しているよ」


 リンデガルム王城に身を寄せて以来、婚約者であるにも関わらず全く姿を見せなかったのは、そういう事情だったのか。


 マナはちらりと顔をあげ、目の前で机に向かうセイラムに目を向けた。言われてみれば、未だ手を止めずに書類に印を押し続けるセイラムの顔色は、あまり良いようには見えない。

 マナがこの国へ来る以前から、リンデガルム国王グレゴリウスは戦に赴いたまま王城に戻っておらず、この国の政務は王位継承権第一位である第二王子セイラムに任されていた。

 生まれつき身体が弱く、病床に臥せがちなセイラムは、これまでセイジや執政官の助けを借りながら国の政務を行なってきたという。

 婚約者の身でありながら相手の事情を知ろうともせず、あまつさえ不満まで抱いていたマナは、これまでの自分の行動を省みて後悔した。


 セイラムはしばらくのあいだ、うつむいて黙り込んだマナをじっとみつめていた。それから、マナの隣に控える黒鉄の鎧の男——セイジに目を向けた。


「それで、セイジの要求は何だったかな」


 セイラムに促されると、セイジは小さく一礼し、淡々とした口調で告げた。


「本日、騎士団宿舎に女性が侵入したことで、ひと騒ぎになりました。他の団員の手前、該当者に規則に従った罰を与えるべきであると考えますが、その女性の立場が立場なだけに、王太子である貴方の判断を仰ぎたい所存です」

「回りくどい言い方は無しで、きみの要求を聞きたいのだけど」

「未来の王太子妃が女人禁制の宿舎に堂々と侵入するなど前代未聞のことです。今後もこのようなことがあっては、団員の手前、示しがつきません。王城で生活する以上、軽率な行動は控えるよう、次期国王であり婚約者でもある貴方から、彼女に話をつけていただきたい」


 セイジの声は、その淡々とした口振りに似つかわしくない、どこか不機嫌さを感じさせるものだった。けれど、セイラムは特に気にする様子もなく、余裕の笑顔で応えた。


「わかった。けれど、今回の件に関しては僕のほうに非がある。マナの過失については不問、ということにしておいて貰えないかな」

「……仕方ありません。今後はこのようなことがないようにお願いします」

「うん。では、この件はこれでおしまい。それとは別に、僕からセイジに頼みたいことがあるんだけど」

「……頼みたいこと、と言いますと?」


 訝しげな様子で問う弟王子のことなど気にも止めず、セイラムは続けた。


「マナに城下町を案内してあげて欲しいんだ」


 ふたりの話に耳を傾けたままうつむいていたマナは、突然のセイラムの言葉に絶句した。

 マナのしでかした軽率な行動が原因で、明らかにセイジは不機嫌なのだ。それなのに、そのセイジにマナの世話を押し付けるとは。

 この兄王子は見かけに寄らず随分と神経が図太いのかもしれない。


「正気ですか、兄上。マナ様は貴方の婚約者ですよ」


 マナの予想通り、セイジはセイラムに反論した。

 意外だったのは、額面通りにその言葉を受け取れば、マナに城下町を案内すること自体には否定的ではなかったことだ。

 てっきりセイジは、軽率な行動で周囲に迷惑をかけたマナを毛嫌いしているものだと思っていたのに、どちらかと言えば、彼は自身の——いや、セイラムの婚約者であるマナの体裁を気に掛けているようだった。


「僕が付添えない代わりに守護騎士であるきみに婚約者の護衛を任せる。何の問題もないだろう?」

「ですが兄上——」


 口にしかけた言葉を、セイジはぐっと飲み込んだようだった。セイジの訴えを軽く受け流し、飄々と自身の主張を言い放つセイラムには、これ以上何を言っても無駄だと考えたのだろう。

 溜め息をついてマナを一瞥すると、セイジはもう一度セイラムに向き直り、今度はゆっくりとうなずいた。


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