幕間 神竜と幼い王子の話

 朝靄のかかる飛竜の厩舎で、ディートリンデはいつものように身を丸め、幸せな想像に胸を膨らませていた。

 時を遡れば、神竜として崇め奉られ、たくさんの料理や酒を捧げられていた時代もあったが、ここ十数年の彼女は専ら幼い王子のお守役だ。与えられる食糧も、そこらの飛竜と大差ない、飼料に僅かな果物や肉が付け足される程度のものだった。

 建前上ディートリンデの主人である幼い王子——名をセイジという——も彼女から見れば幼いと言うだけで、今年で齢二十歳に達し、人間ではとうに成人を越えた年齢でもある。

 彼なりに色々と手を尽くし、ディートリンデの快適な暮らしを守ってくれているのだから、現状に不満はない。

 とにかく、贅沢ではないがのんびりと暇な毎日を過ごせているのは、戦好きの父王とは違い、国の治安維持に精力を注ぐセイジのおかげでもあった。


 そのセイジがいつになく浮かれた様子で厩舎に現れたのは、丁度ディートリンデが夢の中で大好物の林檎を一度に二十個ほど頬張ったときのことだった。


「ディートリンデ! ラプラシアだ! ラプラシアに行くぞ!」


 厩舎に入るなり柵の上から身を乗り出し、彼は大声で告げた。


「ラプラシア……? リンデガルムの外ではないか。妾は遠出は好まんぞ……」


 いかにも面倒そうに首をもたげ、ディートリンデはふたたび幸せな夢の中へ戻ろうと身を丸めた。

 しかし、セイジはそんなディートリンデにはお構い無しだ。


「兄上とラプラシアの王女の婚約が決まった! 近日中に兄上が先方に挨拶に向かう! 当然、私も護衛としてラプラシアに行く!」

「うるさいのぅ。だからなんだと言うのじゃ」


 人間が耳を塞ぐように両翼で耳のあたりを囲い、セイジに尻を向けると、ディートリンデは尚も面倒そうに言葉を返した。

 だが、セイジはほんの僅かにさえ引き退る様子を見せず、澄んだ碧い瞳を輝かせて言った。


「会えるかもしれない! マナに!」


 その言葉を聞き、ディートリンデはようやくまともにセイジに向き直った。

 年の離れた弟にでも話しかけるような優しい声で、


「そうじゃった。お主の想い人はラプラシアに生を受けたのじゃったな。柄にもなくはしゃいでおると思うたらそういうことか」


納得がいった様子で返事をした。

 そしてすぐに、その声を真面目な声音に変えた。


「だが、見つけることができたとしてどうする。向こうはお主のことなど覚えておらんかもしれぬ。更に言えば、恋人がいる可能性もあるぞ」

「——だとしても、幸せな彼女の姿を見ることができるならそれで良い」


 ディートリンデの問いに、セイジは真っ直ぐな瞳ではっきりと答えた。

 この王子は、生まれる前からちっとも変わらず純粋なままだ。

 やれやれと肩を落とし、ディートリンデは小さく溜め息を吐いた。


「全くお主という奴は……欲がないというかなんというか」


 片方の瞼を閉じて、もったいぶった視線をセイジに向ける。

 その視線に促されたのか、セイジは明るく笑って言った。


「そうだな、欲を言えば、彼女がラプラシア王女の侍女か何かで、共にリンデガルムに来てくれれば言うことはないな」

「ふっ……そうじゃのう」



 願わくば、この優しく純粋な王子の想いが届き、彼と彼の愛しい相手が結ばれることが叶うように——。

 僅かに目を伏せ、ディートリンデは神に祈りを捧げる。


 ——そうじゃった。この世界の神は、この妾じゃ。


 胸の奥でそう呟き、和やかな笑みを浮かべると、ディートリンデは漆黒の両翼を大きく広げ、セイジに告げた。


「では、お主の愛しいお姫様に会いに行く準備でもしようかのう」


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