第3話 花嫁と図書室

 ——そういえばわたし、この国のこと、何も知らないわ。


 婚姻の日も間近に迫ったある日のこと、いつものように部屋で刺繍をしていたマナは、ふと考えた。

 この国の歴史も今も、王城で暮らす人々のことさえも、マナはほとんど把握していない。特産品の黒水晶のことだって、セイジに教えて貰わなければ知りもしなかった。


「仮にも王位継承権を持つ王太子の婚約者なんだもの。少しでもセイラム様のお役に立てるように勉強しなきゃ」


 マナが勢い良く椅子から立ち上がると、扉の前で控えていたエステルがその音を聞きつけて、驚いて部屋を覗き込んだ。


「マナ様、いかがなさいましたか!」

「そういえばエステル、以前、リンデガルムの王族はあの黒い飛竜に乗るんだって言ってたわよね?」


 血相を変えたエステルにもお構いなしに、のんびりとした口調でマナが問うと、エステルは怪訝な様子で目を瞬かせ、小首を傾げてうなずいた。


 エステルにその話を聞いていたから、あのときマナは、黒竜に騎乗していたセイジが自分の婚約者なのではないかと、おかしな期待をしてしまったのだ。

 確かにセイジは王族で間違いないし、勝手に浮かれて勝手に気落ちして、馬鹿馬鹿しいとは思うけれど、期待していたぶん裏切られたような気持ちになったのは事実だった。


 無知ほど罪なものはない。

 事実を確かめずに人伝に聞いた話を鵜呑みにしているようでは、この先、周りの者にも迷惑がかかるだろう。

 あのような事態を避けるためにも、マナ自身が自ら得た正しい知識が必要だ。


「わたし、セイラム様に相談してみる」

「相談……って、マナ様? マナ様、お待ちください!」


 慌てて制止するエステルも意に介さず、部屋の扉を開け放つと、マナは急いで王太子の執務室へと向かった。



***



「そうか。マナは努力家なんだね」


 紅茶のカップに視線を落とし、セイラムは穏やかに微笑んだ。

 書斎机の上は相変わらずの書類の山で、セイラムが休息を取りはじめたのは、ついさきほど、マナが部屋を訪れてからのことだった。

 顔色もあまり良いようには見えない。


「城の北側に図書室があるから自由に使うと良いよ。女人禁制、なんてことはないからね」


 真剣な眼差しでみつめるマナにそう言って、セイラムはくすりと含み笑う。前回の失態を思い出したマナの顔が、みるみるうちに紅く染まった。


「セイラム様って、思ってたよりずっと意地悪なんですね」

「あれ? マナは知らなかったんだ」


 恨めしげな目で呟くマナを見てくすりと笑い声を洩らすと、セイラムは嬉しそうに紅茶を一口啜り、机の上にカップを置いた。


「そうだ。マナに伝えたいことがあったんだ」


 そう言うと、セイラムは小首を傾げるマナの前に左の手を差し出した。

 見れば、中指の付け根で、金色の指輪に散りばめられた黒水晶がきらきらと輝いている。


「素敵なお土産をありがとう」


 澄んだ碧色の瞳を細め、セイラムは優しく微笑んだ。つられるように、マナもにっこりと笑う。


「それでは、図書室に行って参ります。ありがとうございました」

「うん、行っておいで」


 長く居座って、仕事の邪魔をするわけにもいかないだろう。

 音を立てないように気をつけつつ、マナは席を立った。

 ひらひらと手を振り、優しい笑顔で見送るセイラムを、マナはもう一度振り返る。


「あまり、無理はしないでくださいね」


 たかだか婚約者でしかないマナが、わざわざ口を出すことではないのかもしれない。

 それでもマナは、病み上がりにも関わらず政務に心血を注ぐ婚約者のことが、心配でならなかった。

 その気持ちが伝わったのだろうか。セイラムは一瞬目を丸くしたあと、穏やかな笑みを浮かべ、うなずいた。


「また、会いにおいで」



***


 

 リンデガルム王城の北側には巨大な図書室がある。

 人ひとりの何倍もの高さがある天井まで壁一面が本棚になっており、そこには図鑑や辞典、歴史書から子供向けの絵本まで、ありとあらゆる書物が隙間なく並べられていた。

 読書を嗜む者にとってまさしく壮観なその光景は、美しい芸術作品とも言えそうだ。

 昼間だというのに図書室のカーテンが閉め切られ、室内が薄暗く保たれているのは、書物の日焼けを避けるためだろう。


 薄暗い室内の、壁面に備え付けられた梯子を見上げ、マナはひとり立ち尽くしていた。視線の先では、歴史書と書かれたプレートが本棚に貼り付けてある。


「困ったわ……」


 読みたい本は目の前にあるのに、梯子を登ることができない。

 あろうことか、マナはドレスにヒールの高い靴という最悪の服装で図書室に来てしまったのだ。


 自室に戻り、着替えてまたここにやってくるには随分と時間がかかる。とはいえ、ただ立っていても状況は何も変わらない。

 マナが大きな溜め息をつき、肩を落として本棚に背を向けた、そのとき。

 突然、頭上から声が降ってきた。


「珍しい人に会うものですね」


 驚いたマナが顔を上げると、いつもより幾分軽装のセイジがマナの後ろに立っていた。


「セイジさん、ちょうど良かったわ。ひとつ頼まれてくださいませんか?」


『渡りに船』とはまさにこのことだろう。

 表情をぱっと輝かせ、マナは手を合わせた。

 突然の要求に、セイジは一瞬たじろいだようだったが、マナの服装を見て状況を察したのだろう。快くマナの頼みを承諾してくれた。



「いったいどういう風の吹き回しですか?」


 リンデガルムの歴史書や地理書を本棚から選びながら、セイジが問う。

 梯子の上のセイジを見上げながら、マナは小首を傾げた。


「どういう……?」

「黒水晶のことをご存知なかったので、てっきりこの国には興味がおありでないのだと思っていました」


 少し棘のあるセイジの言い方に、マナはムッとした。


「いずれはリンデガルムの王妃になるのだから、この国についても勉強しておくべきだと思いまして」


 胸を張って答えたが、対するセイジは若干呆れた様子だ。


「婚約する前に調べたりはしなかったのですか」

「侍女に話を聞く程度なら……」


 ため息混じりのセイジの言葉に若干弱腰になり、マナは言葉尻を濁した。

 このひとはどうしてこう、意地悪なことを言うのだろう。

 マナが不貞腐れてうつむいていると、軽い靴音と共にセイジが梯子を降りてきた。


「どうぞ」


 素っ気なくそう言って、セイジは分厚い二冊の本をマナに向けて差し出した。


「ありがとう……」


 礼を言って本を受け取って、マナはセイジに背を向けて、部屋の中央にある読書スペースに向かった。

 ローテーブルに本を置いてソファの上に腰を下ろすと、ほんのりと目尻に涙が滲んでいることに気がついた。

 せっかく会えたのだから、先日のお礼を言おうと思っていたのに。

 きゅっと唇を結び、マナは分厚い本のページをめくった。


「『リンデガルムは土地が痩せていて作物が育たない。経済のおよそ七割は、峡谷で育つ飛竜の鱗や谷底で採れる黒水晶を用いた武器や防具、装飾品を主とした貿易で成り立っている』」


 またしても突然、頭上から声が降ってきた。

 見上げると、身を屈めたセイジがマナの手元を覗きこんでいた。断りもなくページをめくりながら、セイジは続ける。


「『他国との交渉が速やかに行われない場合は実力行使に出ることも多く、国王グレゴリウス率いる黒騎士団は年中戦に出ており、敵対する国も多い』」


 慌てて文字を追うものの、本のページのどこにもそんなことは書かれていない。困惑したマナがもう一度セイジの顔を見上げると、


「歴史や地理を学ぶのは良いことですが、兄上の役に立ちたいというのであれば、この国の現状について知っておいたほうが良いでしょう」


本のページに視線を落としたまま淡々とそう言って、それからセイジは苦々しい口振りでつぶやいた。


「……この国は他国の犠牲の上に成り立っています。私も、既に数え切れないほどの命を手に掛けてきました」


 マナの祖国であるラプラシアは、人々が笑顔で暮らす、争いとは無縁の国だった。

 だが、リンデガルムはラプラシアとは違う。

 誰かを傷つけなければ、大切なものを守ることもできないのだろう。


 ——でも、この国の人々が戦う理由が食糧不足のためだというのなら。


「ラプラシアは資源が豊かで作物も豊富な国です。わたしがこの国に嫁いだことで、ラプラシアとリンデガルムには繋がりができました。父に掛け合えば、この国の食糧難も緩和されると思います。わたしでもこの国の——セイラム様のお役に立てるかもしれません」


 セイジの顔を覗き込み、マナは声を弾ませた。

 ラプラシアがリンデガルムを支援すれば、戦は無くならずとも、その回数は減少する。

 セイジが手を汚す必要もなくなるかもしれない。


「そうですね、兄上は父とは違う。貴女の言うような平和的な解決を望むでしょう」


 瞳を輝かせるマナを見て、セイジは口の端を綻ばせる。

 それは、マナが今日初めて見るセイジの笑顔だった。



***


 

「ありがとうございました。とても助かりました」


 マナが軽く頭を下げて、お礼の言葉とともに、ふたたびセイジの顔を見上げた。

 普段が無愛想なぶん傍目にはさほど違いはわからないけれど、いつもより優しいセイジの眼差しに少し気恥ずかしさを覚えてしまう。


 今日のセイジはとにかく機嫌が良かった。

 少なくとも、マナにはそう思えた。

 結局のところ、あれから夕刻になるまでマナの勉強に付き合ってくれたのだから。


 リンデガルムの歴史書と地理書を抱きかかえ、マナが図書室の扉を開くと、廊下はすでに淡い夕焼け色に染まっていた。

 そろそろエステルが部屋にやってきて、夕食の席へと案内してくれる頃だろう。

 窓から別棟の自室を望み、マナは一歩廊下へ踏み出した。


 ふと図書室の中を振り返ると、薄暗い図書室の奥で本棚を見上げるセイジの姿が目に入った。

 無事に用事を終えたことで、マナは当然のように自室に戻ろうとしていたけれど、よくよく考えてみれば、元々セイジも何か用があって図書室を訪れていたはずだ。

 自身の用事を後回しにして、セイジはマナに付き合ってくれていたのだ。


 踏み出しかけていた足を止め、マナはもう一度室内に向き直った。


「手伝いましょうか」


 マナが声を掛けると、振り返ったセイジは表情を綻ばせてうなずいた。



***



「これで全部でしょうか」


 テーブルの上に本を積み重ねると、マナは大きく息を吐いた。

 積み上げられた本の背表紙をひとつひとつ確認して、セイジは静かにうなずいた。


「助かりました」

「お互い様ですから」


 微笑むマナに釣られたように、セイジも表情を和らげる。わずかな間をおいて、躊躇いがちにセイジが口を開いた。


「兄上は真面目すぎるきらいがあって、放っておくと倒れるまで仕事の手を止めません。今までは私が定期的に執務室に顔を出し、休息を取らせていましたが、これからはその必要もなくなりますね」


 何の話かと瞳をまるくするマナを見上げたまま、セイジは話を続けた。


「兄上は貴女のことを優先します。貴女が顔を見せてくだされば、兄上は仕事の手を休めることになるでしょう。それが息抜きになります」

「わたしでも、セイラム様のお役に立てる……?」


 目を瞬かせてマナが訊ねると、セイジは朗らかに笑い、頭を下げて言った。


「兄上のことを、宜しくお願いします」


 思いがけないセイジの言葉で、胸の奥が幸せに満たされていくようだった。

 いつもの冷ややかな感じが全くしない今のセイジなら、あのことを訊いても素直に答えてくれるかもしれない。

 なんとなくそんな気がして、マナはセイジに尋ねた。


「先日、城下町に行きましたよね。黒水晶の髪飾りに覚えはありませんか?」

「あれはラプラシアでの非礼のお侘びです。代わりにあの日のことを水に流していただければ、と思いまして」


 意外にもあっさりと自白して、セイジは小さく含み笑う。

 やはり、あのときマナの髪に髪飾りを付けた犯人はセイジだったのだ。

 あれだけ頑なに拒否していたのに、マナやエステルが気付かないうちに、こっそり買い物を済ませていたのだろう。

 なんだかんだ文句を言いながら、セイジはマナの我が儘に付き合ってくれたのだ。

 しかし、それにしても、その理由は酷いと思う。


「せっかくの贈り物なのに、そのような理由では台無しです。それに、セイラム様ではない男性からの贈り物なんて、身に付けられません」

「そう難しく考えないでください。気に入らなければ捨ててしまって構わないのですから」


 マナが頬を膨らましてそっぽを向くと、セイジはあくまで楽しそうに言った。


 ——捨ててしまうなんて、出来るはずがないのに。


 改めて、マナはセイジの顔を盗み見た。

 端正な顔立ちは、ラプラシアの丘で初めて出会ったときと変わらない。

 あのときセイジは、飛竜を目にして固まっていたマナに、まるで再会を喜ぶかのように話しかけてきた。

 初めて会ったはずなのに、その一挙一動があまりにも嬉しそうだったから。

 あまりにも親しげに接するものだから。

 異性にそんな接し方をされたことなんてなかったマナは、あのとき思ってしまったのだ。


「……貴方が婚約者だったらよかったのに」



 まるで時が止まってしまったかのように、薄暗い図書室を沈黙が支配していた。

 数秒の間をおいて、マナは自分がとんでもない言葉を口にしてしまったことに気が付いた。

 あまりにも自然に紡がれたものだから、その言葉を止めることさえできなかった。

 頬からはじまり、瞬く間に顔中が熱を帯びていく。

 けれど、その熱は冷めるのも一瞬だった。


「……それは、貴女は私のことを『好ましい人物』と思っていると、そういった意味で受け取ればよろしいのでしょうか」


 沈黙を破ったセイジの声は、先程までのものとは違っていた。これまでにないほど冷ややかなその声からは、セイジの失望を容易に感じ取ることができる。

 改めて、自身が軽率に口にした言葉の重大さを、マナは思い知らされた。


 何か言い訳を探しているのに、マナの思考は空回るばかりだ。


 ——違う。

 あのようなことを言うつもりはなかった。

 聞かなかったことにして欲しい。


 なんとか誤魔化そうとしても、頭に浮かぶどの言葉も、先の言葉をなかったものにできるものとは到底思えなかった。

 冗談だと笑い飛ばせるほどの心の余裕は、すでになくなっていた。


「……それを今、私に伝えてどうしろと言うのですか。兄を、国を裏切って、貴女を攫って逃げろとでも?」


 苦々しく吐き捨てるように、セイジが言った。


「生まれ育った国を離れ、付き添いの侍女を除いて知人も友人も居ない生活を強いられる。そのような状況が続いて心細い思いをしていた貴女に誤解を招くような行為をしてしまい、軽率だったと反省はしております。ですが、仮にも兄上の婚約者である身の上で、先の貴女の発言は余りにも非常識です」


 堰を切ったように言葉を連ねると、セイジは一呼吸おいて無理矢理に平静を装った。


「今後、不用意な発言は慎んでください」


 うつむくマナに背を向けて冷たく言い放つと、セイジは力任せに図書室の扉を開け放った。



 静まり返った廊下に響く靴音が遠ざかっていく。

 涙で潤んだ瞳では、足早に立ち去るその背中を見送ることさえできなくて。

 マナはただ茫然と、その場に立ち尽くした。


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