ラプラシア王女の婚約
森と湖の国ラプラシアは、長い間、峡谷の国リンデガルムと拮抗状態にあった。
国を護る騎士達は、湖の精霊と呼ばれる額に二本の角を持つ白馬ラプラスに跨り、森を、草原を駆ける。
深緑の森と広大な草原に映える幻想的な美しさとは相反し、勇猛果敢な白馬の騎士達は、国の英雄的存在だった。
飛竜に跨り空を駆ける、隣国リンデガルムの竜騎士団と互角に渡り合えるのは、大陸広しと言えど、このラプラシア騎士団くらいのものだ。
両国は互いに不干渉を掲げていたが、その膠着状態についに終止符が打たれる。
神暦一〇八五年、風の月七日——その日は、ラプラシア王国第一王女マナの十七回目の誕生祭であった。
***
とても不思議な夢をみた。
はじめてみる夢のはずなのに、ひどく懐かしくて。最後まで満たされることのなかった大切な想いが、目が覚めた今になっても胸をきゅうきゅうと締め付けていた。
見慣れたはずの——毎朝毎晩目にしてきた赤い花模様の天蓋に、なぜだか気持ちが落ち着かないのは、たった今までみていた夢のせいだろうか。
覚えているのは真っ白な天井、手を握る優しいぬくもり。そして、長い時を経ても色褪せることのなかった愛おしい気持ち。
こんなにも強い想いをマナが抱いたのは、十七年間生きてきてはじめてのことだった。
「あら、マナ様。今日はご自分で起きられたんですね」
唐突な声に驚いて部屋の中を見回すと、侍女のエステルが鏡台の前で朝の着替えの準備をしていた。
ぼんやりと目を瞬かせるマナを見てくすりと微笑んだエステルは、マナをベッドから連れ出して、手慣れた様子でデイドレスに着替えさせて、鏡台の前に座らせて、紅茶色の長い髪を編みはじめた。
「マナ……そうよね、マナ、わたしの名だわ。夢の中でもそう呼ばれて……」
「どうなさったんですか、マナ様。せっかくのお誕生日だというのに、ずいぶんと浮かないお顔ですね」
ぼんやりと鏡をみつめるマナの顔を、エステルが横から覗き込む。鏡の奥をみつめたまま、マナはぽつぽつとつぶやいた。
「……大切なひとの夢をみたの。会ったこともないはずなのに、顔も声もはっきりと思い出せるの……」
「夢なんて、そういうものではありませんか」
「違うの、ただの夢じゃないのよ。だって、夢だったらこんなに……」
薄く紅を引いたマナの唇が微かに震えていた。胸のあたりをぎゅっと握りしめ、マナの瞳が訴えるようにエステルを見上げる。
そんなマナを宥めるように、エステルは優しく微笑んだ。
「無理もありませんわ。昨日の今日で婚約者に会えだなんて言われたら、誰だって困りますもの」
「婚約……?」
マナは赤褐色の大きな瞳を見開いた。
エステルに言われて、ようやく思い出した。
昨夜、マナはラプラシア王城の玉座の間に呼び出され、父であるラプラシア国王から、隣国リンデガルムの王太子との婚約を知らされたのだ。
なんでも、今夜の誕生祭にその王太子を招き、盛大な宴を催すのだと。
王女として生まれた以上、さらなる国の発展のために、政略的な理由で他国の王家に嫁ぐことは覚悟していた。
事実、昨夜話を聞かされた時点では、マナは自身の婚約について一切の不満もなかった。
エステルを部屋に呼びつけて、階下で噂される婚約相手の情報を聞き出しては、まだ見ぬその姿を想像して楽しんでいたくらいだ。
それなのに。
「無理……結婚なんてできない……」
震える唇からつぶやきが洩れる。
次の瞬間、マナは弾かれるように席を立っていた。
編みかけの長い髪を揺らしてつかつかと部屋を横切って、勢いよく扉を開け放つ。
「マナ様!? マナ様、お待ちください!」
呼び止めるエステルの声にも耳を貸さずに、マナは足早に長い廊下を歩き出した。
広々とした廊下に軽い靴音を響かせて、ラプラシア国王の執務室へと向かう。
寸分遅れて追いついたエステルが、息を切らせながらマナに訊ねた。
「どこに……何をしに行かれるんですか?」
「お父様に言って、婚約の話をなかったことにしていただくの」
「なんですって!?」
突拍子もないマナの言葉にエステルが顔を青褪める。
けれど、マナは構うことなく廊下を歩き続けた。
***
衛兵が見張りに立つ玉座の間の前を通り過ぎると、広い廊下に面した両開きの大きな扉が見えた。
扉の前には、父の護衛を務める近衛騎士のドンファンが立っていて、彼はマナに気がつくと、一瞬、驚いたように目を丸くした。
構うことなく堂々と扉に歩み寄り、マナが真鍮の取っ手に手を掛ける。それを制するかのように、即座にドンファンが口を開いた。
「国王陛下は、テオドール殿下とお話しの最中ですが」
「テオドールお兄様と……?」
つぶやいて耳を澄ませば、確かに扉の向こうから人の声が聞こえてきた。
ちらりとドンファンを一瞥すると、マナは扉に張り付いて、中の会話に耳をそばだてた。
どうやらドンファンの言うとおり、室内にいるのは父王と兄王子のテオドールのようだ。
なにやら話の内容は聞き取り難いけれど、断片的にでも聞こえた言葉から察するに、テオドールはマナの婚約に反対しているようだった。
マナはごくりと息を飲み、扉をそっと押し開けた。
「リンデガルム側の要求はマナを王太子に嫁がせることのようですが、それだけのことで
抗議にも似た声を上げているのは、マナの兄のテオドールだった。対する王は、煩わしそうに眉を顰めて、背の高い背もたれに身を預けている。
「テオドール、お前は少々過保護になり過ぎだ。マナも十七になった。もう子供ではない」
「ですが父上……」
「控えよ、テオドール。お前には先だって任務を与えただろう。リンデガルムが攻め入る口実を作る前に、国境付近で悪さを働いている窃盗団とやらを捕らえて来い」
どうやら父はひどく不機嫌なようで、テオドールの話になど聞く耳を持つつもりもないらしい。突き放すような口振りで命令を下し、白い法衣を翻して、そのまま奥の部屋へと消えてしまった。
主人が不在の執務室に舌を打つ微かな音が響く。ややあってテオドールがくるりと振り返り、赤褐色の鋭い瞳が扉の陰のマナを映した。
「いつからそこに?」
口元を微かに綻ばせてそう言うと、テオドールは颯爽と執務室を出て扉を閉めた。
「浮かない顔だな」
「ちょっと、夢をみてしまって……」
「まさか、夢の中の男に恋をして結婚する気がなくなった、なんて言うなよ」
テオドールが鼻で笑う。途端に居た堪れない気持ちになって、マナは黙って目を逸らした。
「この度の婚姻は、両国の和平条約締結の為に必要不可欠なものだ。お前や私が何を言おうと、父の意思は変わらない」
テオドールが眉を顰め、小さく溜め息を吐いた。
そうだろう、とマナも思う。
次期国王として、父の右腕として育てられたテオドールの意見を切り捨てるほどなのだ。マナのわがままなんかを父が聞き入れるはずもない。
「わたしがリンデガルムの王太子様と結婚すれば、本当に戦争は避けられるんですか?」
「どうだろうな」
「戦争になったら、ラプラシアは負けるのですか?」
真剣な顔でマナが問うと、テオドールはやれやれと肩を竦めて笑い、
「
そう言って、怯えるマナの頭をぽんと撫でた。
「そう難しく考えるな。お前なら大丈夫だ」
穏やかな微笑みに、ちょっぴり心が軽くなる。
撫でられた箇所を両手で抑えて、拗ねるよう上目遣いで兄王子を見上げながら、マナははにかむように微笑んだ。
それからふと、さきほど盗み聞いた話を思い出して、訊ねた。
「さっきの、お父様の命令は……?」
「そうだった。今夜の誕生祭には参加できそうもないから先に言っておかないとな」
思い出したようにそう言うと、テオドールはもう一度マナの頭に手を置いて。
「誕生日おめでとう」
そう言って、朗らかに笑った。
***
遠い西の空に、大輪の花火が打ち上げられた。
柔らかな草の絨毯の上でゆっくりと身を起こして、マナは音のするほうへと目を向けた。
深緑に覆われた壮麗な山々を背にそびえ立つラプラシア城下町の鐘塔。その向こう側に、城壁に囲われたラプラシア王城が見える。
「軽率だったかなぁ……」
小さく肩を落とし、溜め息をつくと、マナは濃紺色のエプロンワンピースの裾を摘み上げた。
エステルに無理を言って、仕事着を借りて城を抜け出したことを、今更になって後悔していた。
誕生祭の当日に主役である王女が城を抜け出したなんて、今頃、城は大騒ぎだろう。
本当に、どうしてこんなことをしたのか、マナ自身もわからない。
顔も知らない相手と婚約することが嫌だったのだろうか。
いや、そんなはずはない。
この婚姻がただの政略結婚ではないことは、父と兄の会話から容易に察することができた。
政治的に重要な意味を持つこの婚約を、ただのわがままで解消しようとは思わない。
原因があるとすれば、それはもっと複雑なものだった。
今朝の夢は、あれは、おそらく夢ではない。
遠い遠い、いつかの、どこかの、誰かの記憶だ。
自分でも、いつ、なぜそう思ったのかわからないけれど。
見たこともない懐かしい風景、会ったこともない愛おしいひと、胸を引き裂く狂おしいまでの剥き出しの感情が、今朝、目覚めたマナのなかに濁流のように流れ込んできたのだ。
何度も夢だと思い込もうとしたけれど、この記憶は過去にどこかに実在した、自分と誰かのものなのだと、マナにはそう思えてならなかった。
だって、そうでなければ、たった一度見た夢で、こんなにも胸が苦しくなるわけがない。
「婚約なんて無理だよ……」
抱えた膝に顔を埋め、マナは低く唸った。
何時のものかも、存在するかもわからない相手への想いで婚約を破棄するなど、父は許さないだろう。
だが、この想いはどうやら筋金入りで、簡単に忘れてしまえるものだとは、マナには到底思えなかった。
「……帰らなきゃ」
意を決することもできず、ちから無く項垂れて。マナがゆっくりと立ち上がった、そのときだった。
黒い影が上空を過ぎり、マナの目の前に翼を広げた飛竜が舞い降りた。
陽の光を受けて輝く漆黒の鱗に覆われた躰。二本の腕の代わりに生えた大きな翼。琥珀色の瞳と額に埋め込まれた紅玉。
その姿は、マナが幼い頃母に聞いた伝説の神竜そのものだった。
マナは息を飲み、その場に立ち尽くした。
普通の娘なら、こんなに大きな飛竜を前にすれば、すぐにでも悲鳴をあげて逃げ出すのだろう。そうでなければ腰を抜かして、がたがたと身を震わせて怯えるはずだ。
けれど、マナはその翼竜を恐いとは思わなかった。ただぼんやりと、琥珀色の瞳とみつめ合っていた。
しばらくすると、飛竜はすっと眼を細め、おもむろに頭を垂れて、同時に男の声がした。
「意外だな。逃げ出すものだと思った」
見ると、黒い影が飛竜の背からマナを見下ろしていた。黒鉄の鎧を全身に纏ったその男は、軽々と飛竜から飛び降りると、マナの前へ進み出て頭に被った兜を脱いだ。
端整な顔立ちに、濃い色の髪と碧眼が映える、なかなかの男前だ。
「驚かせてすまなかった。王城へ向かうつもりだったのだが、飛竜のことをすっかり忘れていてね。都合良く王城の使用人を見つけたと思い、声を掛けさせてもらった次第だ」
そう言うと、男はマナの衣服を指で差した。
なるほど、確かにこの服は侍女のエステルの仕事着であり、王城の使用人のもので間違いなかった。マナが納得して顔を上げると、男は期待を寄せるような眼でマナを見ていた。
要するに、この男は宴のあいだ飛竜を置いておける場所を知りたいのだろう。
騎士団の馬の厩舎の場所ならマナでも知っている。けれど、飛竜ともなると話は別だ。
「王城に行って直接聞いたほうが良いと思います」
マナが言うと、男はにやりと口の端を上げた。
「では、案内してもらおう」
「へ……?」
間髪入れず続けられた男の言葉に、マナは思わず間抜けな声を出してしまった。
唖然とするマナを他所に再び兜を被ると、男は軽々とマナを抱き上げて、そのまま飛竜に跨った。
ぐんと手綱を引かれ、飛竜が大空に舞い上がる。
風を切る鋭利な音が耳に痛い。
きつく目を閉じると、マナは甲に覆われた男の腕にしがみついた。
ふわりと身体が宙に浮くような不思議な感覚のあと、目を開けると、漆黒の鱗に覆われた竜の頭の向こうに、青い空が広がっていた。
——空を飛びたい。
遠い昔、そう願ったことを、マナは思い出した。
空を飛ぶことで、こんなにも自由で開放的な気持ちになれるものだとは思わなかった。先刻までの沈んだ気持ちが嘘のようだ。
あの願いは漠然と、同調から口にした言葉だったけれど、あのひとが空を飛びたいと言ったその気持ちが、今なら理解る気がした。
「良い眺めだろう」
身を乗り出して空の旅を楽しむマナの耳に、笑いを含んだ声が届いた。
上空から眺める景色に夢中で、今自分がどういった状態にあるのかを、マナはすっかり忘れていた。よくよく見れば、飛竜の背から落ちないよう、男の逞しい腕がマナの身体を支えている。見知らぬ男に抱きかかえられているというのに、不思議と嫌ではなかった。
マナがのんびりと空の旅を楽しんでいると、男は真っ直ぐ前を見つめたまま、呟いた。
「昔から空を飛ぶのが夢だった。竜騎士を目指したのも、半分は夢のためだ」
「もう半分は……?」
マナの問いに、男は答えなかった。
風を切る音で、男の耳にはマナの声が届かなかったのかもしれない。
男が再び手綱を引くと、瞬く間に飛竜が高度を下げ、王城の庭園へと舞い降りた。
「あっという間ね! あの丘から王城まで歩けば数刻はかかるのに」
飛竜の背から飛び降り、マナは興奮を抑えきれずに声を上げた。
「元気が出たようでなによりだ」
男はそう言って、はしゃぐマナに背を向けた。その視線の先には、内門へと続く長い階段があった。
確かに気が滅入ってはいたけれど、そもそもこの男は城へ案内させるためにマナを飛竜に乗せたのではなかったか。
不可解な言葉に首を傾げる。同時に今の状況を思い出し、マナは慌てて飛竜の陰に身を隠した。
婚約の宴の前に御忍びで城を抜け出したのだ。侍女のエステルどころか、城中の者がマナを捜しているはずだ。
良い経験をさせて貰った礼に城を案内しようと思ってはいたものの、考えるまでもなく、今のマナはそのような気楽な立場にはなかった。
「ごめんなさい。庭園を抜ければ門兵がいるから、飛竜のことはそちらで聞いて」
そう言い残して、マナは慌ててその場を後にした。
去り際に、男の声が聞こえた気がした。
「もう半分は、——願いを叶えるためだ」
***
自室に戻ると、侍女のエステルに泣き出しそうな顔で出迎えられた。
涙目で訴えるエステルに平謝りしながらドレスに着替えて、マナは婚約の宴の開催を待った。
窓から見える庭園の端に、数匹の飛竜が見えた。今夜の宴に訪れた隣国リンデガルムの竜騎士達の飛竜だ。
深緑をさらに色濃くした落ち着いた色の鱗の翼竜の中に、一際目立つ漆黒の鱗の翼竜がいた。
「不思議。あの竜だけ色が違うのね」
出窓から庭園を見下ろしてマナが呟くと、エステルは浮かれた様子で口を開いた。
「リンデガルムの漆黒の翼竜は、代々王家に仕える神竜だと聞きましたよ。神だなんて大袈裟ですが、王族の騎竜であることに間違いはないようです」
どくん、と心臓が胸を打った。
エステルの言葉が正しければ、さきほどのあの男は王家の者だということになる。
あの男が、誕生祭と婚約祝いを兼ねた今日の宴に参列する隣国の王族であるならば、或いは——。
「さぁ、時間になりましたよ」
軽く頭を下げてエステルが部屋の扉を開く。
心なしか浮かれた足取りで、マナは自室を後にした。
***
天井に煌めくシャンデリアがいつもより輝いて見える。華やかな紋様が散りばめられた絨毯のうえをゆっくりと歩きながら、マナは周囲を見渡した。
飾り立てられた椅子やテーブルが並ぶ大広間に溢れた大勢の客人は、宴の主役であるマナを拍手喝采で迎え入れた。
中央の玉座に座る父王の前にマナが進み出ると、わずかに遅れてふたつの人影が広間に姿を現した。
彼らが今夜招かれたリンデガルムの王族であることを、振り向かずとも、マナは直感的に感じ取った。
「お目にかかれて光栄です、陛下。リンデガルム王国第二王子セイラムと申します」
敬愛の意を込めて発せられたその声に違和感を覚え、マナはハッとして振り返った。その瞳に、セイラム王子の——婚約者の姿が映る。
リンデガルム王家の紋章が刻まれた礼服に身を包んだ青年は、黒鉄の鎧のあの男によく似た端整な顔立ちをしていた。けれど、煌びやかな光に輝く蜂蜜色の髪は、彼があの男とは別人であることをはっきりと示していた。
「堅苦しい挨拶は無しで良い、セイラム王子。娘のマナだ」
「ラプラシア王国第一王女マナです。お見知りおきを……」
父王に促され、マナはセイラムの前に進み出た。
半ば呆然となりながら、優雅にお辞儀をしたマナの言葉に、セイラムが柔かな笑みを浮かべる。
「マナ王女。本日は十七歳の誕生の日を迎えられ、誠におめでとうございます」
そう告げると、彼は一歩後退し、側で控えていたもうひとりの男を紹介した。
「私の守護騎士を務めるセイジです。婚礼を終えれば、私の妃である貴女の護衛を任せることもあるでしょう。お見知り置きください」
「リンデガルム王国第十三王子セイジです。此度のご婚約、誠におめでとうございます」
セイラム王子に良く似た端整な顔立ちの、濃い色の髪と碧眼を持つその男は、マナの顔を一瞥すると、深々と一礼した。
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