短編置き場

柚夜矢太郎

地下鉄

 土曜の朝とはいえ、東京の地下鉄駅には急ぐ人の姿は付きものである。

 皆が本気で急いでるのかと尋ねられれば、そうとも言えない。ただ単に、電車の発着に急かされているだけの人も多いのではなかろうか。


 これはつい先ほどの出来事。

 私は出勤のため駅のホームに向かい、階段を下っていた。

 土曜なので平日程周りに人はいない。私を含め6人くらいだったように思う。

 そこへちょうど、電車が到着する音が聞こえてくる。くぐもった空気を押すような音を聞き、階段の先頭を降りる数人が階段を駆け下った。


 土曜の朝から勇ましいものだ。

 急がぬ私を追い抜かし、連られ駆け降りる女性。小さな身体は30代後半のものか。

 一心不乱に足を動かし高い音を鳴り響かせる姿は、随分と危なげにみえた。

 そしてその行方が階段の踊り場、2つのホームの分岐点に差し掛かるとき。

 華奢な足はもつれに縺れ、両手を大きく広げた姿勢で踊り場目掛け羽ばたいた。


 しめしめ。さもありなん。

 彼女ののたうつ姿をしばらく眺めていたい気持ちではあったが、それではあまりにも体裁が悪い。

 私は柔らかな足取りで現場へと近づいた。

「奥さん、急がば回れ。ですよ」

 奥さんは顔をしかめ、大丈夫です……と、トンチンカンなことを言っていた。

 大丈夫なら良かった。という表情を繕い、奥さんの元を離れホームへと向かう。とても軽やかな足取りで。


 私はホームへたどり着くと、今降りて来た階段を横目に見ながら奥さんを待った。

 頑張れ、頑張れ。と、心の中で強く応援した。

 諦めないで。

 やがて女性の姿が現れる。

 さっきまでの勇ましく、けたたましい足さばきはもう無い。

 おめでとう。さあ、その顔をよく見せてくれ。

 ホームに着いた奥さんは、信じられないものを見た。というような、まさに驚愕の顔色を見せてくれた。

 そして苦い顔になり舌打ちをした。

 私の前を通り過ぎる時、再度声をかけた。

「奥さん、急がば回れ。ですよ」

 遂に堪え切れなくなった私は、腹を抱えて笑い出してしまい、ほんの少しだけしっこを漏らした。

 ホームに鳴り響いた笑い声をかき消すかの様に、反対側の電車の出発を知らせるサイン音が重なった。

 周りで電車の到着を待つ人々の冷たい眼差しが、私にはとてもとても心地良かった。




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短編置き場 柚夜矢太郎 @Yatarou_Yuya

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