03_空へ挑むは技術屋の端くれ

「高度を上げろぉぉお!」


「だから無理だって言ったんだ! 事故になるぞ!!」


「着地地点は読めないのか? ラッツかデビアが広場に……」


 声を上げて石畳を走る者。立ち止まり叫ぶ者。声には焦りと緊張感が滲み、郊外の静かな通りに集まった視線と声は一様に空を向いている。コルの目もその浮遊物を捉えた。肩掛け鞄の紐を付け替えて背負い、皆の方向へとコルも走り出す。


「やっぱり気球か……」


 気球には本来エンジン音が無い。空へ舞い上がるため、空気を熱して生命線である膨らんだ球皮部分に送り込むのがメインの機構だからだ。けれど風に任せていては思うように空を飛べない。本格的な推進力を付ければ飛行船に分類されてしまうが、その手前の段階が“手作りの気球”にはある。微かな駆動音の正体は分かった。あれはその類いだ。


「制御しきれていないか、想定距離よりも手前で落下しそうってところかな」


 大きな風船にぶら下がった小さな籠に、無骨なプロペラと慌てる男性がチラッと見えた。気球は風に乗ったにしても少し速度が出過ぎている。高度もあまり出ていない。さて……どうにかしてあれを止めるとしたら? どこからどうやって? 発射式のワイヤー、上り坂の向こうに鐘塔があったかどうか。コルは走りながら手持ちの道具と近くの建物を含めた立体地図を頭に思い浮かべる。着地できる場所、バーナー異常なら考えられる危険性は。


「……だ、……しろ!」


 気球を追って走っている何人かの声が空と疎通しようとしている。それなら、


「おじさん! 聞こえますか!」


 張り上げた声がどうにか空に届いたのか、男性は籠から身体を乗り出して身振りも交え何かを伝えてきた。緊迫した表情と途切れ途切れの言葉、確実なのは不測の事態であること。


「……ガステイルさん」


 それから、空にいるのが見知った顔だと分かった。負けず嫌いで頑固者――それは維持と拘りと言い換えていい、ただの一度だけ自分に技術的なアドバイスを求めてきた一端の技術屋。


「ガステイルさん! 鐘のある塔を目指して!」


 こちらの声に反応はしてくれた。でも上手く聞こえていないようだ。彼の声は小さくないし耳は遠くない、高度とバーナー音エンジン音が邪魔をしてしまう。


「に し の と う!」


 ガステイルが耳に手を当てる動作にコルは唇を噛む。揺れと進路を制御しようと彼は操縦桿に戻ってしまった。


(まずいな、一手足りない)


 走り去る町の景色が焦りを生み始める。コルの頭には気球を“掴む”段取りが描けていた。だがその詳細をガステイルに伝えられるかどうかが分からない。チャンスが一度しかないのだ。もし仮に最悪の事態へ向かったなら予想される被害は……。


「あのっ……!」


 突然少女がコルを呼び止めた。でもお互いに立ち止まれない、走るコルに追いついて声をかけてきた。確か一番にウノの店から出て外の様子を見に行った子だ。『ペン印』の入った帽子、若いのに記述士らしい。


「ごめん、見ての通り急いでて……!」


「何かっ、私に、お手伝いっ、できませんかっ」


 息を切らして少女はそう言った。気持ちは有難いけれど事態は急場、道具や人手を……


(いや?)


 コルの表情が変わる。


「メモ紙とペンは持ってる? もうちょっと走れる?」


「はいっ……、はい……!」


 可能性を上げられるかもしれない。


「作戦を伝えるからよく聴いて!」


 ポイントは二箇所。まずはガステイルに、彼自身にはどう動いて欲しいのか、コルが何を考えてどう動くのかを伝える必要がある。そのためには最初に気球に接近できる高い建物の屋根から“メモ紙”を届ける。しかしこれをコルがやってしまうと次のアクションに間に合わない可能性が非常に高かった。記述士ナギサが代わりにこれを請け負う。次にコルは一足先に西の鐘塔を目指し、ナギサの作った時間で工具を準備、鐘塔の高所から気球を“捕まえる”。

 メモに書く内容は急仕事にしては多岐に渡った。作戦全容、気球の状態がこうであるならこうせよという指示、コルが気球を捕まえてからガステイルに聞きたいこと、その後ガステイルにやって欲しいこと。技師用語さえ混ざるコルの言葉をナギサは一度も聞き返さずに全てを正確に文字にした。もちろん走りながら。略語と図形は後から補う。丁寧な文字、必要な言葉、誰が読んでも分かる骨子、透明な書き手。叩き込まれた記述士の心得だ。


「すごいね記述士さんは、そっちは任せたよ!」


 記述士はどうにか頷いた。



* * * *



 それから一生懸命に走った距離が時間を稼いだ。気球はなんとか記述士ナギサの後方にいる。ナギサは乱れた呼吸のままドアを叩き、家主に途切れ途切れに必死に事情を説明して屋上へ通してもらった。階段を駆け上がった脚がかなりの高さになった目下の景色に震えている。下は見ない。鉄製の柵を乗り越えてできるだけ空の近くへ。

 気球はコルの予想通りこの地点へ近付いて来ていた。覚束ない足元でギリギリまで建物の先端を目指す。間もなく一度きりのチャンスが訪れる。


 深呼吸二回、それから大きく息を吸い込んだ。


「ガステイルさーん!」


 もう喉がどうなろうと構わない、大声なんて普段は出さない。声を張り上げて力の限り手も振って叫ぶナギサに、ガステイルが気付いて意図を汲もうとしている。しかしナギサの表情が僅かに曇る。想定より少し進路が、距離が……。間もなく最短距離なのに。何か手は? ただこの三枚のメモ紙が届けばそれでいい、それだけでいい。


「……そうだ、これなら」


 肩掛け鞄の中を探って麻紐を見つけ出した。糸切狭は……煉瓦の角で千切る。真鍮製のペンにメモ紙を巻き付けて麻紐できつく縛り、それをぎゅっと握る。

 ペンを投げたことなんてない。でもこれは一番大切なペンだから、ずっと使っているペンだから、重さも手応えも一番知っている。私が少しくらい投げるのが下手でも、きっと届いてくれる自信がある。


 張り上げたお互いの声が届く距離にまで気球が迫った。


「紙を巻いたペンを投げます! 硬いもので受け止めて下さい!」


 空飛ぶ籠に捕らわれたガステイルは金属製のレンチを取り出してナギサに見えるように翳してくれた。これなら安心だ。



「お願い、届いて」



 ほんの数メートルの空を真鍮の弾丸が飛ぶ。丁寧に磨かれた光沢に、気球を追う数人と金属の混じる町並みと蒸気の空が映った。



「……やった!」


 見事なレンチ捌きでペンを足元に弾き落としたガステイル、大切なメモ紙を携えたナギサの宝物を掲げて見せた。



* * * *



 鐘塔のある建物に登ったコルは手早く鞄から道具を取り出して組み立て始める。それなりの重量があって機能も限定的、普段は持ち歩かないはずの発射式のワイヤーが今日は偶々あったのだ。多分あの記述士の女の子は上手くやってくれている。ガステイルにメモ紙が届いたならあとはこちらの仕事、狙いを外すわけにはいかない。火薬の量、螺子の締め具合、ワイヤーの弛み、砲身部品の角度。それから……風向き? 風を受けて後ろの大きな鐘が揺れている。


「これは専門外だな……でも」


 建物と空が触れ合う石造りの枠に拳二つ分程の発射装置を固定した。もう気球は見えるところまで来ている。拡大鏡を望遠レンズに切り替えて確認すると、腕を籠の外に伸ばしたガステイルは指を三本だけ出して“メモを読めた”というサインを出している。


(ありがとう……あとで名前を聞かせてね記述士さん)


 ガステイルがこの鐘塔に来られた以上、気球はある程度なら制御が効いているはず。充分な浮力が得られないのか思ったより時間切れが近いのか、ともかく機械を診る。


「ガステイルさん! 当たらないように気を付けて!」


 目を閉じて軌道のイメージを固める。籠の少し上を通るように、先端にフックの付いたワイヤーを飛ばす。先端が籠を越えたところでガステイルがワイヤーの途中を叩き落とすようにして掴む。気球は高度を維持させながらワイヤーを手繰って引き寄せ、ガステイルと交代でコルが気球に乗り込む。手筈はこうだ。


「頼むぞコル!」


 やっとガステイルの声がはっきり聞こえた。間もなく最短距離。急ごしらえの支え器具を左手で強く押し当てながら右手で引き金に指を掛ける。身体を曲げて視線を水平に。感覚七メートル弱。


『バンッ』


「あ」


『バン』『バチッ』


「え?」


「のわっ」


 外したと思った。いや、確かに外していた。威力か重さか角度か、想定より僅かに下を進む先端の鉤爪。これでは籠に直撃して落ちる。……と、ここで二回目の破裂音が聞こえて金属音が響いて、何かが鉤爪を下から叩いた。銃弾? まさか。下手をすれば気球に穴が開くしそもそも高速で飛ぶワイヤー先端に当てられるはずがない。空中で『く』の字に曲がったワイヤーはそれでも追加の高度を貰い適度に減速、ガステイルがどうにかそれを掴んだ。


「コル!」


 ガステイルが叫ぶ。狙撃手を探すのも考えるのも後回しだ、力いっぱいワイヤーを手繰って気球を引き寄せなくては。

 半分安堵したもののやはり緊張感の解けないガステイルの表情が近付いてくる。



「すまない、バーナーのタイプはPRT-32を改造したものだ。燃費と出力計算にミスがあった。川までは飛べるかもしれんが広場までは……」


 ナギサのメモが事前に伝えた“必要な情報”を素早く並べるガステイル、そこに後悔の言葉がどうしても混ざる。そう、まだ事態は終息していない。


「分かりました、僕が乗り継ぎます」


「直せるのか? それより、お前さん操縦は……」


「なんとかします!」


「分かった。……頼んだよ、本物の技術屋!」


「あなたも立派な技術屋ですよ」


「いいや、私は……見ての通りだ」


「見ての通り、あなたの機械は空を飛んでいます」


 先人の文献は数多くある。今では技術も溢れて質の良い金属も普及し始めた。けれど“真に自分の手で造ること”がどれだけ難しいか。バルブを閉める手には強い力が要る。思い通りの部品が無ければ時に火傷をして溶接加工する必要もあろう。それでも不格好な自信作を携えて、落ちても自分の責任だと言い張って地面を離れたなら。それはもう立派な技師に他ならない。そうやって蒸気までも扱うようになった“技術師”たちはきっと蒸気鉱石の謎さえ解き明かすはずだ。

 ガステイルを鐘塔に残し、コルを乗せた気球は空へと戻る。



『ピシュ』


「っと……」


『ブシューーッ』


 ピンを打って開けた金属管の小さな穴から蒸気が噴出した。燃料制御バルブを緩めて圧力計と燃料計の針を確認し、杭を挿し直す。下に誰もいないこと、何もないことを十分に確認して降ろせるものは地上に渡す。機械の各部を分解した小さな金属片でさえも。継ぎ接ぎした手作りの機械には作り手の意図が滲む。この瞬間に外していい部品は向こうから声を掛けてくる。配分と操舵、軽量化。それでもダメなら最後は自分の工具だ。


「よし、何とか」


 この気球を安全に着地させるには、まず広い面積を確保できる場所の真上まで飛ぶ必要がある。プロペラで風向きと反対に推進力を生みながらその場に留まり、球皮部分に気化ガスを送るバーナー緩やかに停止させて降りていく。もちろんそこまで別々の燃料が残っていなくてはならない。小さな籠を持ち上げる風船は萎んでも大きく重い。例えば大きな建物の屋根なんかに着地することもできようが、力尽きた球皮が籠を引っ張って建物の外へ落下するだろう。衝撃を与えられた蒸気装置が僅かに残った燃料と共に爆発する危険性も十分にある。川に落りるのは安全だと思ったが、やはり距離が足りない。


「ラピス広場まで持たせるから、ガステイルさん、どうか……」


 気球の籠から感じる風は普段よりも強めで、貴重な空からの視点を楽しむ余裕は残念ながら緊張感と判断のエネルギーに奪われてしまう。コルが記述士の力を借りてガステイルに伝えた伝言。その最大の依頼――ガステイルのミッションは、広場から人を退避させることだった。

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