第13話 終
この日に何か特別なことがあったわけではない。いつも通りの生活をしていた。どちらかというと前日の方が普通ではなかった。
前日、明日死ぬことを決めた。そして少しだけ身辺整理をした。物を捨てるような大掛かりなことはできなかったが、本棚を整えてみたり、携帯の写真やメールなどを削除したり、遺書を書いたりした。
すっかり夜が更け静けさにつつまれていた。ベッド付近のライトだけを灯して部屋は闇の中だ。視覚からの情報が減った今、耳は鋭く音を捉えていた。住宅街が眠りについている静けさを聞き、遠くで鳴るかすかなサイレンの音を聞き取った。両親は既に寝ている。起きているのは自分だけだ。今から行うことを邪魔する者は誰もいない。
ベッドに腰かける。背骨や筋肉が機能を失ったかのように猫背になり俯いていた。重たい頭を持ち上げ天を仰ぐ。
自分の部屋の天井には首を吊るための紐をかけるようなフックはない。シンプルなシーリングライトがあるだけだ。これでどうやって首を吊るのか、自殺を考え始めたときにとっくにある考えが浮かんでいた。
ベッドのヘッドボード横から上に伸びる棒部分に紐をかけた。二段ベッドは二段にするために長い脚がヘッドボードを挟むように付いている。つまり脚とヘッドボードはHの形になっている。幼い頃は二段ベッドとして兄と一緒に使用していたが個室にしてからは一つずつ使用していた。
紐は床に座って首を入れると腰が浮くくらいの長さに調節してある。イメージよりはるかに短い長さだった。
部屋の一角を寂しく照らしていたライトを消し、周りの闇に自分も溶け込んだ。手にはベッドにかかる紐を握っている。この紐で首を吊れば死ねる。
もう死ぬんだ。終わりにするんだ。
死ぬ時はこんなにも穏やかなのだろうか、と自分でも驚くほどに落ち着いていた。泰然自若を極めた仙人のようだった。なぜなら、死ぬのがほんの少し怖いだけで死は怖くないという考えがあったからだ。一瞬だけ恐怖心を押し殺していればあとは無になるだけ。そして、その一瞬は平静であれば乗り越えられるのだと考えていた。
ベッドの脇にしゃがんで紐に頭を通そうと紐の下へ頭をやる。ベッドにかかる紐に下から上へ頭を通すのは容易ではなく、つま先立ちでしゃがんでいると足がつりそうになった。短い長さに調節された紐は頭が丁度通るだけだった。Tシャツから頭を出すように紐の輪から頭を出した。
あとは体重をかけるだけだ。そうすれば死ねる。
ゆっくりと尻から片足を離す。よろめいて、咄嗟にもう片方の足でバランスをとった。
しまった。そのままよろめいて首が絞まればよかったのに。
バランスをとってしまったもう片方の足も尻から離す。徐々に紐に体重がかかっていき、首に紐が食い込む。まだ苦しくない。両足を放り出し腰を浮かせて紐に全体重がかかった。まだ大丈夫。
死んでしまうんだな、自分。
しばらく経つと息が苦しくなった。なかなか頸動脈を締められず、代わりに気道を締めているようだった。手をつき体重をかけるのを少し緩め、紐の位置を調節した。再び全体重を紐にかける。先ほどより気道は圧迫されておらず上手く頸動脈を締めているようだった。
目を閉じる。目を開けていても真っ暗で何も見えなかったが、目を閉じると無限に広がる暗い闇を見ている気がした。脈を感じながらそのままじっとしていると顔がむくんできたようだった。そして脳が悲鳴を上げるように壊れた電子機器のような高い音が聞こえて頭がジンジンしてきた。
見渡す限り真っ暗で何も見えない状態がしばらく続いた。記憶を一度停止させた。
停止させる必要もなかったと停止させてから思った。自分はこれで死んでしまったのだから。
「やっぱり自殺だったんですね」
ぼそりと案内役に言った。
自分の死を受け入れていた。死んで妥当。死んだことに後悔は全くなかった。それどころか、これで記憶を見るのも終わりだと思うと少し安堵した。最後の一か月ほどのあの苦しみから解放されるのはまさに天国だった。
「これで終わりましたね」
「ん? いや、まだ死んでないよ」
案内役はきょとんとこちらを見て言った。
「へっ?」
真っ暗な世界を再び動かす。
自殺してとうとう記憶を見るのも終わりかと思ったが自分は生きていた。自殺は失敗に終わったのだ。紐が切れたわけでも親が止めにかかったわけでもない。死ねなかったのだ。
頭が悲鳴を上げてから数分経っても一向に意識が遠のくことはなく、苦しさが続くだけだった。そして目を開けても閉じても深夜のため何も見えず、見えるものといえば闇だけだった。苦しさが限界近くになると手で体を支えて首と紐の間に空間をつくった。くらくらする頭を少し落ち着けてからもう一度紐に体重をかけた。しかし、先ほどと同様に上手くいかなかった。何度か繰り返したが結局上手くいくことはなかった。
四度目に首を吊っているとき、涙が溢れてきた。何度やっても死ねない自分が情けなかったのか、家族の顔が浮かんだからなのか、命に対する申し訳なさなのかは分からなかったが、身体中からこみ上げたものは涙となって流れた。
大粒の涙が溢れるし、頭はジンジンとして甲高い音が聞こえるし、肉体的に苦しいし、もうわけが分からなくなり馬鹿馬鹿しくなった。死のうという意志が保てなくなった。
首に紐をかけたまましゃがみ込み、潤んだ瞳をゆっくりと開けると部屋にある家具の影が薄っすらと見えた。いつの間にか陽が昇りはじめたようで、カーテンの向こうにある窓が微かに存在を主張してカーテンの下からは光が漏れていた。強い意志も薄れ、時刻は朝を告げようとしているため首を吊るのを諦めることにした。
紐を外しマットレスの下に隠し、よたよたと机まで這って行き机の上に置いておいた遺書を適当にファイルの下に隠した。そしてベッドまで這うようにして戻り倒れ込んだ。普段とはかけ離れた体勢をしていたためか疲れが酷かった。目を閉じてしばらく経つと、考えることもさせない勢いの疲れが押し寄せて眠りに落ちた。
夏の昼間の喧騒が遠くに聞こえはじめて目を開けた。
死ねなかった。
深夜のことが頭に浮かんだ。
部屋の暑さと喉の渇きに起こされたにも関わらずそんなものはものともせずに、どこを見るでもなく薄っすらと目を開けた死に損ないの身体は無気力に横たわっていた。ぐったりとしている身体に反して頭は回転し、鮮明に記憶を呼び起こしてふつふつと虚しい気持ちをわかせていた。
目を覚ましたときのあの虚無感。こうして生きていることへの憎悪。そして死ねなかったことへの後悔。自分の意に反して生きてしまう身体。やるせない。
死ぬしかないと分かっていながらもあの苦しさには敵わなかった。精神的な苦しさや辛さは死に値するくらいなのに、首を吊るときの苦しさの方が勝っていた。どうして。まだ死に値しないということなのか。
首を吊ったときのあの苦しさを思い出すと自殺する意志が弱まった。
一通りの考えが済むとこれまで通りの普通の生活をしようと体を起こした。そして顔を洗うために洗面所に向かった。
顔を洗ってふと鏡を見ると、いつも通りの笑顔をつくる筋力を失った無表情の自分の顔があった。もう誰かに微笑みかけることも愛想笑いもできないだろう。顎の下に何か昨日まではなかったものがあった。顎を上げて鏡に写る首に目をやると紫色の五センチほどの紐の痕が残っていた。
たいしたことはない。下を向くことが日常で顔をまじまじと見られることもない自分には首吊りの痕が親にみつかる心配はなかった。
案の定、何事もなく一日は過ぎた。
首を吊ることを予期させず、首を吊ったことも察知させない。家族の関係が薄いからなのか、自分が隠すことが上手いからなのか。いずれにしても不幸中の幸いだった。
首を吊ったときのあの苦しさは三日経つと忘れてしまった。忘れてしまえば自分の心がこう囁く。
「首を吊ろう」
そして自分は容易に耳を貸す。
次こそは成功させる。必ず死ぬ。もう生に未練はない。
世の中には誘惑が多いがそれらでは、もう自分を引き留めるには値しない。誘惑は非常に魅力的でそれらを思うと未練があるかもしれないが、それも少し前までのことだ。今は全てを諦めた。行ったことのない場所も、食べたことのない物も、楽しませてくれる何かも、生きることも、全部諦めさせた。
僅かな明るい未来を苦痛を伴いながら考えるのも終わり。死にたいと願いながら死ねなくて涙を流すのも終わり。狂った就活も終わり。順調に歩んでいたが躓いて立ち上がれなくなった人生も終わり。もう終わりなんだ。
翌日、昼過ぎに目が覚めていつも通りに時間が経過した。そしていつも通り、夕飯を食べるために温める。
煮物をよそうための小鉢を食器棚から取り出そうと小鉢に手をかけた。一番上の小鉢を持ち上げて引き寄せようとした途端、手をすり抜けて小鉢は落下した。割れる音が聞こえた。床の砕けた小鉢を拾うために屈んで手を伸ばす。大きな破片と中ぐらいの破片と細かい破片が六対三対一の割合で割れていた。
自分はこの時に本当に狂ってしまったのだと思った。本来なら感じ得なければいけないことを感じなかったのだ。罪悪感が一切なかった。
小鉢が割れたとしか認識しなかった。勿論、陶器なのだから割れるときは割れる。しかし今の場合は正確に言えば割れたのではなく、割ったのだ。手から滑り落として割ってしまったのだ。それにも関わらず割ってしまったという認識がなかった。
更に自分は拾い上げた小鉢をまじまじと見つめている。小鉢は口から底にかけて割れていて断面が見えるようになっていた。その断面を観察し、意外と底の部分は厚みがあるだとか、側面は絵付けの絵具で思ったよりも凸凹しているだとか、尖った破片は鋭利だけど腕に押し当てても紙で切ったくらいの傷しか出来なさそうだとか、そんなことを考えていたのだ。
それから落とした小鉢を片付け、夕飯を食べた。なぜかその日は自殺しなかった。
数日、いつも通りの生活を送っていた。
目覚めてからリビングに来た自分は、何をするでもなくソファにだらしなく座りテレビを眺めていた。
今日もまたぼーっとして一日が終わるのか。ぼーっとして? 可笑しい!
自分が何を考えているのか分からなった。いつもなら次から次へと流れ出てくる考えが一切流れてこないのだ。急にぴたりと止んだわけではないと思ったが、いったいいつから止んだのかは分からなかった。
慌てて世界を一時停止させた。
「なんだか少し変です」
変という言葉に敏感に反応した案内役は、リクライニングシートでくつろぐような姿勢から飛び上がるように身体を起こした。そして病名でも宣告されるかのような面持ちで聞いた。
「変って?」
「思考が伝わってこないというか、感情がないというか、自分の心が聞こえない? ような、感じです」
今まで映画でも見ていたとするならば急に音が消えて映像だけになった感じだった。
「でも、ここまできて本人の魂じゃないなんてことはないはずなんだ。調べるから、ちょっと待って」
案内役は書類をぺらぺらと忙しなく捲り始めた。
「あった。酔っぱらったときに起こることがあるみたいだね。脳の一部が正常に機能してないんだって。でもちゃんと体は動かせるんだって。そう書いてある。酔って記憶がないっていう場合はそんな感じらしいよ」
「脳の一部が正常ではない」
「でも君の場合は酔っぱらっているわけじゃないから、脳が防衛本能としてわざと機能してないんだろうね」
「……」
しかし何の問題もないように思われた。むしろ記憶を見る自分からするとこの状態の方が楽だった。思考や辛さや苦しさが伝わってこないため、ただ見ているだけでよかった。
実際、この状態の自分も問題なく日常生活を送れているようだった。夕飯を食べ、そのあとはきちんと歯を磨いていたし歩行だって千鳥足じゃない。いつも通りだった。
それにしても、いったいこの状態はいつまで続くんだろう。この状態が終われば自分はまた悪い方へ考えて結局自殺を選ぶんだろうな。良い方へいくとは考えられない。死ぬのは時間の問題だろう。
考えごとを切り上げて記憶を見ることに意識を集中させると、シャワーを浴び終えた自分は部屋に戻っていた。いつも通りこれから眠るのだ……?
何がいつも通りだ。手に紐を持っているじゃないか。
先日の出来事が繰り返されようとしていた。ベッドに紐をかけ首を吊る。異なる点は机にある遺書が見えるか見えないかだ。ファイルの下に隠された遺書はずっとそのままになっていた。そして自分が壊れてしまったことだ。
狂っていると自分で認識できていたときはまだ良い方だったのだ。狂っていることに気付かなくなるほど狂った脳は正常に機能しなくなり壊れたのだ。
暗い映像がぶつりと終わり、こちらに強制的に意識が戻された。
「これで終わり。無事に本人確認は終了だよ」
いつになく物静かな声だった。
見上げるほど大きな門が目の前に現れた。案内役に指示されるままに足を踏み入れ、途端に吸い込まれた。
終活生 S N @xminimx
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます