第12話 苦悩

 天井を眺めていると父が覗き込んできた。その後ろに母の顔もぼんやりと見える。笑い声も聞こえてくる。大きな手が自分に差し出されて、それを一生懸命に触ろうとした。そうしていると兄がやって来る。父に抱っこを求め、抱っこされた兄は自分を覗き込んだ。手に持っているおもちゃで自分をあやし始めた。父も兄も母も笑っていた。

 辛い自分を見るのが辛くなると、決まって生まれたての頃の記憶を思い出していた。

 あの頃が一番純度の高い幸せだったのだ。幸せなんていうのも知らない幸せだった。顔を覗き込む誰もが顔をほころばせていた。

「あの、こんなに短期間の間に何回も中断しても大丈夫なんでしょうか? 普通はこんなにも時間はかからないですよね。すみません」

 一日に一回ほどのペースで記憶を止めて幸せな頃の記憶を思い出していた。そうでもしなければ辛くなり見ていられなくなるのだ。

「大丈夫、問題ないよ」

 と案内役は言った。


「大丈夫?」

 そう問われて「大丈夫じゃない」と言う人はどのくらいいるだろう。「少し頭が痛いだけ、大丈夫」そうやって言い訳をしつつも誰もが最後に「大丈夫」と言うのではないだろうか。自分は決まって「大丈夫」と答えている。それが普通だろう。

 今や「大丈夫?」と聞いてくれる友達さえいない。

 友達? そんな間柄の人がいただろうか。一か月ほど前までは友達がいたのかもしれない。友達と一方的に思っていただけかもしれないが、友達はいた。

 授業を休んで数週間経っても誰からも何の連絡もなかった。

 友達とはこんなものか? こんなにも簡単に連絡が取りあえるこのご時世で、何一つ連絡がないものだろうか。別に心配されたいわけじゃない。しかし、友達ならば「元気?」みたいなスタンプの一つでも送ってくるのではと心の中で思っていたのだ。

 超便利な連絡手段があるにも関わらず、一切連絡をしない人を友達ではなくなったと思うことは可笑しいだろうか? そんなことで友達でなくならないのが普通ならば、自分はもう普通ではないのだろう。今「大丈夫?」と聞かれれば「大丈夫じゃない」と言うだろう。

 今の自分に誰かが「大丈夫だよ」なんて言っても大丈夫なわけがない。大丈夫だと言う人は大丈夫な立場だから言えるのだ。職があって生きているのに疑問を抱かず輝いていないかもしれないが明るい未来のある人が大丈夫だと言えるのだ。職がなく明るい未来がなく死ぬほど辛い人間が大丈夫だと言っているか? そんな人間が言うのなら説得力もある。しかし、そうでなければ説得力など微塵もない。結局、立場が違うから言える気休めにすぎない。否、気休めにもならない。

 もう、大丈夫ではない……。

 そう思う要因の一つには成績があった。

 大学はもう夏休みに入る頃だった。夏休みということは前期の成績が出る頃だ。単位は落とさないだろうが評価はBやCになるだろうと考えると後悔の念に苛まれた。良い評価を目指すことが当たり前なのだから。ほぼ完璧に作り上げてきたものに傷を付けた気分になり、大丈夫とはいえなかった。

 しかし、よく考えればこれまでA評価の成績を取ってきたことが馬鹿馬鹿しいのだ。だって就活じゃそんなことは関係ないんだから。なぜ頑張って良い評価を貰おうとしていたんだろう。数さえあれば問題ないことだったのに、と自分の浅はかさを悔やんだ。

 後悔することがないように自分が正しいと思う判断を下して生きてきたのに、悔やむことは尽きなかった。就活不適合者になったこと、鬱になったこと、大学にまともに行かなくなったこと、最近の出来事は後悔するようなことばかりだ。

 相変わらず自分は夜更かしをしてベッドで考えごとをしている。しかしこれでも寝ようと努力はしていた。一生懸命、横になって目を瞑っていた。その目からは涙が流れていた。

 何をしていても(特に何かやっているわけではなく日常生活を送っているだけだが)ふと考えると涙がこぼれそうになる。それは以前からだったがどんどん酷くなるように思われた。親の前では泣き顔など見せられないのに、この前、つい涙が出そうになっていた。


 辛いな。やっぱり死んだ方が楽だよね。それに死んでしまえばどれだけ辛かったかは分かるじゃないか。死ぬほど辛かったのだと、死ぬことで証明できる。死にたい。もう、こんなに辛いのは嫌なんだ。死んでしまえば良いんだ。ああ、辛い……。

 こんなことを起きている間すっと、ぐるぐるぐるぐる考えている。たまに、そうだろうかと投げかける自分もいたが結局否定されてスパイラルから抜け出せない。

 死にたいと思っているほど悩んでいると、誰かに相談してみるか? 

 自分は首を横に振る。

 死にたいと口にすれば、頭ごなしに「死ぬんじゃない」と言われるのが落ちだ。そんなことが分かっているのに相談などする気にはなれない。死にたいのに死ぬなと言われると、自分が否定されている気持ちになる。誰でも自分の主張を述べたいものなのだろうが、今はそんなことは望んではいない。

 誰にも理解してもらえない。でも理解して欲しくもない。理解できない、分からない人が分かった気になって、分かっていると言ってくるのは嫌だ。

 辛い、辛い。何が辛いか。考えること全て! 辛いと言えないことも、辛いと考えてしまう自分も、何もかも! 

 こんなことを考えている自分を見ていられない。思わず顔を手で覆いたくなる。見ていられないような自分は涙をこぼすまいとしているのか、酷い感情を露にすまいとしているのか、手で顔を覆っているようだった。

 ……もう死ぬしかない。

 就職できないから死ぬしかない。そんなふうに考えるのは誇大かもしれない。だが、そうではないかもしれない。

 定職に就けていない人間が一人で生きても明るい未来は待っていないだろう。労働に追われ毎月のやりくりに苦労し、僅かな貯金しかできず不安を抱えて生きていくのだ。そして、そんな人間は世間から奇異の目で見られ、同期からは良からぬ噂が囁かれるに決まっている。そしてもしかするとこの先何十年、否、一生定職には就けないかもしれないのだ。出端を挫けば出端を挫いた駄目人間というレッテルがついて回る。気にしない人もいるだろうが重要視する人もこの社会には少なからずいて、汚名返上することは困難だろう。

 自分がこれまでに思い描いてきた、普通に就職して働くこととは大きくかけ離れている未来。一切想像していなかったどん底の未来を突きつけられて、生きたいとは思えない。

 苦しい未来がありありと分かるのだから苦しさは早期に絶つべきだ。今終わらせることが最善なんだ。

 一生フリーターでも生きていける。いつかは定職に就ける。そんな希望も握りつぶして死ぬしかないと自分に言い聞かせた。

 自分で自分を救うのだと言い聞かせた。

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