第11話 餓死
一日の大半を寝て過ごしていたが、それはやることがない、やれることがないという理由からだけではなかった。起きていることが辛いのだ。起きていれば嫌でも考えてしまう。やらなくてはいけない就活、自分の鬱状態、自分の将来。そんなことを考えてしまい、親への申しわけなさか自分の情けなさかは分からないが涙が出てしまうのだ。そして考えれば、頭ががんがんと重く締め付けるように痛むのだ。
鉄工所か何かの工場のように、甲高い音がしてガチャガチャあちこちから騒がしい音が頭の中に響きわたる。耳を塞いでも鳴りやむことがない騒音に悩まされ、多量の考えごとで脳は張り裂けんばかりに膨らみ頭蓋骨がそれを締め付けて頭痛となる。何をするにも伴って、何をする気分にもなれない。
頭を働かせれば頭痛がするし、考えてもどうにもならないことばかりを考えるし、ただただ時間が過ぎていくだけで何一つ良い方向へはいかない。ただ疲れていくだけだった。考えるだけで何の行動もしていないが、考える行為だけで普段の一日の生活に等しい疲労があった。そしてその疲労は溜まっていく一方だった。睡眠を取ったところで解消されはしない。解消されないのには睡眠にも問題があるようだった。
一般的普通ではない自己的普通生活を送るようになってから、次第に眠りにつくことが困難になっていた。寝すぎはともかく、寝ようとしても頭が働いて寝られないのだ。考えることは例の如くだが考えないようにしようとするとさらに考えてしまうのだ。就活のことを考えてしまうと負のスパイラルに迷い込んでしまい、それから抜け出すために違うことを考えようとするが上手くいかず、気が付けば涙を流している。そして、泣いている自分を情けないなどと思いながらまた考えて、考え疲れと泣き疲れが合わさって疲れの頂点に達したときに眠りに落ちる。そのようにしか寝られなくなっていた。
目を閉じてすぐに眠るというのはどんな感じだろう、それすら忘れてしまっていた。
時計に目をやると短針は三を指そうとしていた。
午前三時。否、二七時。寝ていない限り、日付が変わろうとも今日という一日は終わらない。屁理屈をこねて時間に抵抗したが秒針は滑らかに文字盤の上を回っている。
ずっと今日が終わらなければいいのに、明日なんて来なければいい。太陽なんて昇らずにずっと夜のままで、朝なんて来なければいいんだ。時間が止まってくれれば……。
朝が近づいてきて、頭を地面に押し付けられるような重い頭痛がして、少し瞼が重くなってきて、やっと眠ろうかと思える。頭をこのまま押し付けられるようにして、そのままベッドに倒れこめば眠りに落ちることができるのではないかと思う。しかし、実際にベッドに倒れこんでみると目が覚めてしまう。
眠ろうと目を瞑ると鼓動が聞こえてきた。しかも激しく。全身に音をたてて血液が駆け巡っている。どくどくと心臓が揺らいで、身体全体が揺れているように感じて、ここだけ地震が起きているのではないかと思うくらいだ。
どうにも落ち着けない。
眠れないから動悸がするのか、動悸がするから眠れないのか。はたまた自分は眠りたいのか眠りたくないのか。眠れば目覚める。そうなれば目覚めたことに後悔する。眠らなければ目覚めたときの後悔はない。しかし、起きていれば考える。現実と向き合わされて負のスパイラルに陥って、結局辛くなってしまう。どちらも嫌だ。
喉の奥の方が締め付けられて苦しくなった。頭の芯が熱を帯びて、急に涙が溢れてくる。大粒の涙が顔に小川をつくり、いつの間にか眠っていた。
気が付くと白い壁で囲まれた部屋にいた。家具も何もない廃墟のような空間だった。左手の壁には大きな腰窓がある。立ち上がって外を窺おうとよろよろと歩み寄った。外に何か動くものが見える気がした。すると、それはぬっと這いつくばりながら窓を超えてこちらに入ってきた。鰐のようなあるいは人間が這いつくばっているような姿をして、黒いぬめぬめとした液体でも気体でもない得体の知れないものを纏っているのかそれ自体なのかも分からない生物が、自分に襲い掛かってきた。それを逃げることもなく立ち尽くして、覚悟を決めたかのように謎の生物の口に身を捧げる。一切の不安や絶望、恐怖を感じることなく、食べられるのが当然というように食べられる。
食べられたところで目が覚めて、夢だったと気付いた。
目が覚めた瞬間に恐怖を感じた。恐ろしい夢を見たと思っているうちに、謎の生物が左右に体を振るような動きが脳裏に浮かんで、自分がそれを目の前にして怯えていなかったことなどを不思議に思う。
何にしても嫌な夢だ。自分が食べられるなんて縁起でもない。こんな寝覚めの悪い夢をよく見るようになった。憂鬱な日々を過ごしているからだろうか。
寝つきが悪く寝覚めも悪い。いっそのこと目を覚まさないでくれればいいものをと毎日思うようになった。眠りについてそのまま死んでしまえばいいんだ。
……死んでしまえばいい、か。
「全部見なくちゃいけないんですよね」
「そうだよ」
「……」
「死ぬことを考えている自分を見るのが辛い?」
「はい」
「君は考えすぎなんだよ。だから、もっと楽にぃ……」
死ぬことを考えている自分を思い煩っている自分に気を使ってか、案内役はその先を口にしなかった。代わりにこう提案した。
「幸せな記憶を思い浮かべてみたらどう? 今でも鮮明に思い出せるでしょ」
幸せな記憶。子供の頃の無邪気だった頃の記憶。それははっきりと思い出すことができた。
人間の記憶というものは時間が経てば薄れて、いつしか忘れてしまうものだ。しかし、ここでは既に見た記憶は一切忘れることはなかった。楽しい思い出も、辛い出来事も、自分がこれまでに食べた夕飯のメニューだって一日たりとも間違えずに思い出すことができる。これだけのことを生きている普通の人間が覚えていれば、脳の許容量をはるかに超え卒倒しているだろう。
「真面目に見ることはいいことだけど、真面目すぎっていうのは考えもものだね。何にしても死んでいるんだから、どうしようもないんだ。ただ受け入れればいいんだよ。それでも辛くなったら楽しかった記憶を思い浮かべればいい」
幸せな記憶を思い出してから世界を再び動かすと、自分は自殺を考えるようになっていた。無意識にあった死はいつの間にか意識の上位まで浮上していた。
あのとき死ねていればな。こんなことも考えずに済んだのに。そんな後悔は尽きない。
大学を無断欠席し始めたある日、食欲もあまりないのでこのまま何も食べずに餓死してみようと思い立った。水も口にせずに一日が過ぎた。
口は乾いていたが空腹は感じなかった。度を過ぎた空腹が脳を麻痺させたのだろう。このままいけば餓死できるのではないかと思ったが、そうはいかなかった。
二日目になるとさすがに液体を口にしたくなった。ただの水でいい。コップ一杯でいい、否、一滴でも。口から喉にかけてカラカラに干からびていたため、飲料を求めて幾度も冷蔵庫という誘惑に負けそうになった。だが餓死をするという強い意志を貫き通した。
喉が渇いたと思っていると、味噌汁やうどんが頭に浮かぶ。普段特に美味しいとは思わない味を懐かしく思うと同時にとても欲していた。目の前にそれらを並べられたなら誘惑に負けて食べてしまうだろう。
いけない、こんなに簡単に意志が揺らいでは。気をしっかり持たなくてはと自分に言い聞かせるが、脳裏にはつるんとしたゼリーが浮かんでいた。ゼリーはこんな状態の自分にはぴったりに思える。適度に冷たく、つるんとした口当たりは干からびた口や喉を優しく撫でて潤してくれる。そんなことをすれば昨日今日の苦労が水の泡だと心の九割は主張したが、残りの一割は無性にゼリーが食べたいと主張していた。
世界には貧しくて食べ物が手に入らない人がいる。それなのに、何がゼリーが食べたいだ。贅沢を言うな。ゼリーという誘惑から逃れるためにアフリカの子供たちのことを考えた。そう、今もお腹を空かせている人がたくさんいる。自分もお腹を空かせている、食糧不足なわけでもないのに。贅沢だ。食糧不足での空腹と餓死するための故意での空腹。心が痛むが、国も違う顔も知らない誰かのために餓死をやめる気にはなれない。遠く離れたアフリカの子供たちについて考えると申し訳なさが押し寄せてくるので、就活について考え、頭痛に悩まされながら眠った。
三日目になると体力が落ちてきた。体力がない方だというせいもあっただろう。立つとふらふらして、椅子に座るのも辛かった。食事を摂っていないため体力は落ちて当然だと思っていたが、驚いたことに声までも出なくなっていた。出なくなったというか、普通に話そうと声を発したところ、かすれて上手く声を出せなかったのだ。強く発してようやく普通よりも小さな声が出た。これ程までに声を出すのが難しいと思ったことはなかった。
もうそろそろ四日目に入ろうとする頃、とうとう断念してしまった。身体は相変わらずふらふらして重力に逆らうのが辛くなり、頭痛は激しくなり、限界だと思った。
おぼつかない足取りで台所へ行き冷蔵庫を開け牛乳の隣に並ぶりんごジュースに手を伸ばした。やっとの思いでコップに注ぎ、一気飲みする。たった一杯飲んですぐには身体のしんどさも頭痛も治らないが、口を少しだけ潤して人間味が多少なりとも戻った気がした。もう一杯注いで飲む。干からびた身体に冷たい一筋の川が流れて徐々に潤していった。美味しい、一心。安いりんごジュースがこれ程美味しいと思うのは初めてだった。
こうして餓死は挫折した。
あと一日くらい頑張れたのではと思うが、たかが一日引き延ばしたところで死ねたわけがない。
そもそも餓死を成功させるだけの忍耐力があれば、餓死しようなどという考えは起こらないのだ。死なども考えずに、目の前のことに耐え続けるのみだ。ただ、忍耐。だから本当に忍耐力がある人は視野が狭くなり過労で突然死するのだと思う。そちらの方が楽なのかもしれない。人間としては本望だと思う。そうではないかと思えてならない。
餓死は無理だから、やっぱり死ぬなら首吊りか。
ぼやっとこれらのことを考えていたときは、まだ本気で死のうとは思ってはいなかったように思える。
自殺を考えるだけで実行はしない。考えているうちに恐怖心が芽生えたり、冷静な判断を下す自分が「馬鹿な真似はやめろ」と制したりして、実行するには至らなかった。
自殺しようとする自分を押しとどめるにはとてつもないエネルギーが必要だった。自殺したい自分とそれを止める自分、双方は等しくエネルギーを消耗する。一人で二倍のエネルギー消費をするのだ。しかし、いつも消費が激しいのは自殺を止める自分の方だった。そして大量のエネルギーを消費すると疲れに襲われ眠りに落ちるのだった。
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