第5話 手すりから落ちてスリリング
子どもはようやく危険を察知したらしく、手で何かにつかまろうとするが、そこには空気しかない。
見ていた人の反応は様々だった。悲鳴。硬直。動揺。
しかし、誰もその場から動かない。
きっと、俺もそのうちの一人になっていたことだろう。もしも、昨日までだったら。
今の俺には、この世界の常識を超えた力がある。
俺の頭は、子どもを救うために必至で回転していた。
どうすればいい。布団で受け止める? ただ受け止めるだけではダメだ。落下の衝撃を殺すには? 物理の時間に習った振り子の運動が頭をよぎった。これだ。
今から布団を出現させたのでは間に合わないかもしれない。それに、これだけの人間の前で、いきなり何もない空間から物体を出現させることは避けたい。
それなら――。
マンションの、子どもが落ちた部屋よりさらに上の階に視線を引き上げる。ベランダに干してあるのは……敷き布団!
いける! 布団が光るのはやむを得ない。太陽の光か何かだと思ってくれ。
この間約一秒。自分の思考スピードに驚愕する。そういえば、緊急事態の脳の働きは通常時よりも速くて……なんて考えている場合じゃない。
子どもは重力に従って、落下を始めた。
右ポケットの中にあるブレッサーを、光が漏れないように握り締める。敷き布団に意識を集中させて、すぐに
【布団が吹っ飛んだ】!
手すりにかかっていたその布団から、白い光が放たれた。
よし! そのまま下に向かって飛ばすイメージ。間に合え!
敷き布団は白い光を纏いながら、自然落下とは思えない速さで落ちて、空中の子どもを横からすくうように受け止める。
そのまま左右に、振り子のように揺れながら、ふわりと地面に着地した。
「おおっ⁉」「……よかっ……た⁉」
野次馬たちがざわめいた。安堵に戸惑いが混じっている。当然だ。今起きたことは、奇跡にしか見えなかっただろう。
「……ふぅ」
俺は胸を撫で下ろす。心臓が、バクンバクンと大きな音で早鐘を打っていた。
布団と共に地上に降りてきた子どもはびっくりしたようで、突然喚き出した。泣けるほど元気なら大丈夫だろう。
そこへ、ゴミ出しをしていた様子の、母親らしき人物が駆け寄って行く。顔面は蒼白だ。
野次馬の中には、不可解な顔でキョロキョロしている者もいたが、今のところ俺の仕業だと気づいてはいない……と思う。
一瞬だけ視線を感じたが、たぶん気のせいだろう。隣にいる姫歌も、俺が何かしたことに気づいていないのだから。
「今の、何だったんだろう」
姫歌が呟く。
「さ、さぁ。神様が助けてくれたんじゃないか?」
あながち間違っていない。正確には神様じゃなくてフェリク人だけど。
「でも、良かったね。男の子が助かって」
「ああ」
集まっていた数人も、徐々にその場を離れて行った。
「そうだ。健ちゃん」
俺と姫歌は、駅に向かって歩みを再開していた。
「ん?」
「今朝、結構早い時間に、誰かと話してなかった? 健ちゃん
ぎくりとした。おそらくオトハのことだろう。
「母さんじゃないか?」
そう言ってごまかそうと試みるも、オトハの声は明らかに若い。
「そうかな。おばさんの声とは違った気もするけど」
当然、姫歌も簡単には騙されてくれない。家族ぐるみでの付き合いがあるため、俺の母親の声も姫歌は知っているのだ。
「あー、そんなことより、姫歌。宿題はやったのか? 数学のプリント、今日までだったろ」
「ああっ! どうしよう、忘れてた。健ちゃん、助けて!」
どうにか話題を変えることができた。単純で助かった。
駅に到着し、電車に乗る。
俺と姫歌は電車で通学しているが、学校の最寄り駅までは二駅しか離れていない。徒歩でも三十分程度で行ける距離に、俺たちの通う学校はある。
電車では、昨日ケーキを焼いてみたけど失敗しただとか、友達に好きな人ができただとか、女子高生らしい話を楽しそうにしていた。
オトハの声の件はすっかり忘れてくれたようだ。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
天井には煌めくシャンデリア。壁には立派な角を持つ鹿の剥製。そんな、とある豪邸の一室。
小柄な少年は洒落たソファに座り、紅茶を嗜んでいた。
「失礼いたします」
部屋のドアが開く。入って来たのは、黒いスーツにサングラスの男。所作からは風格が感じられ、身に付けているものも高級感にあふれている。
「
背すじを伸ばした男が言った。
「……わかりました」
小柄な少年、環はサボろうかとも考えたが、出席日数が危ういことに思い当たった。
高校の授業など、簡単すぎて意味がない。家庭教師の指導は、すでに三年生の範囲に突入している。
筆記用具と難しめの問題集を鞄に入れ、立ち上がったそのとき。テーブルの上のスマホが振動した。
「少し待ってください」と目の前の男に断ってから、環は端末を耳に当てる。
全国に配置してある捜査員のうちの一人だ。何か有力な情報をつかんだときだけ、かけてくるように言ってある。
「もしもし。何かありましたか?」
〈はい。先ほど、子どもがベランダから落ちる事故があったのですが、そのときに
スピーカーから聞こえる声には、緊張が滲んでいた。
「詳しく話してください」
環の声も緊張を帯びる。
〈はい。子どもが落下したのはマンションの五階のベランダから。普通なら助からない高さです。しかし、子どもの転落に合わせて、上の階のベランダから布団が落下してきました〉
「布団が、落下ですか。それだけならまだ偶然のようにも思えますが」
環は空いている左手をあごに添える。
〈はい。ですが、その布団が横から子どもをすくうように受け止めて、左右に揺れながら、ゆっくり地上まで降りてきたのです。その結果、子どもは一命をとりとめました。あれは、物理的にあり得ない動きでした〉
「なるほど。光は確認できましたか?」
〈ええ。その場にいた少年のポケットから、微弱ではありますが白い光が漏れていました。現在、別の者が尾行しています〉
「わかりました。引き続き調査をお願いします」
〈承知いたしました〉
「どうかされましたか」
通話を終えた環に、スーツの男が尋ねる。
「ええ。今日は休みます。学校には適当に連絡しておいてください」
男は一瞬何か言いたそうに口を開きかけたが、結局「かしこまりました」と言って、一礼して部屋を出た。
「さて、今度はいくらで購入できるでしょうか」
環は呟いて、椅子に座り直した。
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