第36話 ゴキブリの動きぶり
「あいたたた……」
尻もちをついた櫻子がゆっくり立ち上がり、辺りを見回す。
どうやら、地面の下に作られた部屋らしい。広さはちょうど学校の体育館くらい。
櫻子が落ちてきた穴はかなり上の方にある。土の壁に凹凸はほとんどなく、登るのは難しそうだ。そんなことを考えていると、穴が小さくなり、やがて塞がってしまった。
「櫻子殿、大丈夫ですか?」
「トーマさん!」
背後から姫歌のパートナーであるトーマが現れた。同じ場所に落ちたようだ。
壁には数メートルごとに燭台が取り付けられていて、ろうそくが燃えている。その明かりは頼りなく、逆側の壁はほとんど見えない。
「どうやら、皆さんとはぐれてしまったようですね」
「みたいですな。とにかくこの部屋を調べましょう」
「はい」
ゆっくりと慎重に、櫻子とトーマは前へ歩く。
「あ、あっちにドアがあります!」
「行ってみましょう。ここはわたくしが先に」
「ありがとうございます」
櫻子はトーマの後を歩く。
外界から完全に独立した、閉鎖された空間。今にも何かが飛び出してきそうな、不気味な雰囲気が漂っていた。
「おっと、ここは通しませんよブフォッ」
突然の声に、二人は歩みを止める。
目を凝らすと、前方に人が立っているのがわかる。眼鏡をかけた小柄な男だった。分厚いレンズの眼鏡をかけ、赤のチェックシャツをジーパンに入れている。伸びきったボサボサの髪は、まるで化学の実験に失敗したかのようだ。
「誰ですか?」
櫻子は警戒しつつ尋ねる。
「ピンクの眼鏡……。そうか、あなたが裏切り者の女ですね。暁さんから聞いています。デュフフ。吾輩は
何がおかしいのか、男は気持ち悪い笑い声を披露しながら自己紹介した。
「裏切ってなどいません。最初から私は永柄の敵です」
櫻子が強く反論した。しかし、双子の弟を人質にとられていたとはいえ、悪事に協力してしまったことは事実だ。
「そんなこと言っていいんですか? 不利になってから、やっぱり助けて~なんて言っても助けてあげませんよデュフッ」
「そんなこと言いませんし、私たちは今日ここに、永柄暁を倒しに来たんです」
櫻子は力強く宣言する。
「ほぉ、言いますねぇ。でも吾輩、大人しいように見えて実は芯の強い子は結構タイプだったりするのである。ギャップ萌えってやつですなデュフッ。二人とも眼鏡という共通点もありますし、どうです? 吾輩と今度『魔法美少女ミナミン』を一緒に鑑しょ――」
「お断りします」
櫻子は二瓶を睨みつける。
「ブフォッ、残念でござる」
「それより、永柄はどこなんですか?」
前方にある扉と、その前に立ちふさがる二瓶。普通に考えれば、扉の向こうは永柄の居場所へ繋がる道であり、二瓶は門番ということになる。
「んん? この人は何を言っているのだろう。吾輩のこのブレッサーが見えてないわけではないんですよね? なら、ここで戦闘イベントが起こることもわかるはずなのだが……デュヒヒッ」
二瓶の胸元から、こげ茶色の光があふれる。二瓶の足元も同じ色に光り、直径一メートルくらいの円形を
櫻子とトーマは数歩下がった。
まずは相手の
こちらの
「さあ、この
現れたのは、黒光りする虫の大群。名前を口にすることも躊躇われ、イニシャルからGと呼ばれる例のあいつ。
その
「うおっ⁉」
非常にグロテスクな光景に、トーマが叫び声を上げて後ずさる。
櫻子はその場から動かない。
「吾輩の
黒の大群が地を這う。それ全体が、不定形の怪物に見えてしまう。
「櫻子殿⁉ 早くこちらへ!」
トーマが呼びかけるが、櫻子は無反応だ。
「おや、あまりの気持ち悪さに気絶しちゃったでござるか? デュフッ。嫌われて避けられて、虐げられる。そんな彼らだけど、なんだか親近感が湧いてくるよねデュッフフッ」
「なんだ。そんな能力ですか? 緊張して損をしました。それに、さっきは拍子抜けして思わず固まっちゃいましたけど……」
櫻子は眼鏡を人差し指で押し上げると、二瓶の方へ歩き出した。
「さ、櫻子殿っ⁉」
「ふ、ふん。強がってられるのも今のうちだ! 行け! デュクシ! デュクシ!」
二瓶は唾を飛ばして謎の効果音を発音しながら、ゴキブリを櫻子にけしかける。
一匹のGが櫻子の胸辺りをめがけて飛んでいく。
しかし、櫻子はそれを素手で叩き落した。
そして、
「ゴキちゃんなら、一週間に一度はお会いします。私の家、かなり古くてあまり清潔ではないので」
眼鏡の奥から、冷たい目を二瓶に向けた。
「ゴ、ゴキちゃんだと⁉」
二瓶の目が驚きで見開かれる。
「そのたびに私は、捕まえてわざわざ外に逃がしているんです。本当なら駆除したいんですけどね」
「さっきから一体、何の話だ⁉」
「なぜだと思いますか?」
「し、知るかそんなこと⁉」
「それはですね」
櫻子は再び、ゆっくりと二瓶の方へ歩き始めた。普段の大人しい様子とはかけ離れた、冷酷なオーラを
「来るな‼ こっちへ来るなああああっ‼」
「まだ小学生の弟たちが『かわいそうだから殺さないで』って、涙の溜まった目で私を見るからです。そんなこと言われたら、殺せるわけないじゃないですか」
羽を開いて、数匹のGが櫻子の顔面に向かって飛来する。
それでもなお、手でGを払い除けながら、櫻子は真っすぐ歩く。
「うわああああああっ! 何なんだ! 何なんだよ、この女はあああっ‼」
「弟たちはいい子に育ってくれてとっても嬉しいんですけど、すばしっこいゴキちゃんをつかまえる私の身にもなってほしいですよね」
ははは、と乾いた笑みを浮かべる櫻子に、二瓶は寒気を覚える。
「あ、ああああ……」
ついに二瓶は、壁に追いやられた。
「正直、ストレスが溜まっていたんですよね。いっつもいっつも殺せなくって」
進行方向にいたGを、容赦なく踏みつぶしながら、櫻子は二瓶にさらに接近する。
「だから、そこだけはお礼を言わせてください。ありがとうございます」
そして、二瓶の頬に強烈なビンタが炸裂した。
「デュアラッッッ‼」
謎の叫び声を上げながら、二瓶はその場にくずおれる。
「春風家の長女を甘く見ないでもらいたいですね」
櫻子は、頬を押さえて倒れこんだ二瓶のこげ茶色のブレッサーを、ゴキブリのごとく踏みつぶした。
「もっ、もう一回、ビンタをして……もらえないだろうか。デュ、デュフフ」
頬を朱に染めながら懇願する二瓶を、櫻子は「嫌です」とバッサリ切り捨てる。
そして、くるりとターンすると、
「トーマさん、勝ちましたよ。行きましょう」
花が咲いたような満面の笑み。
「う、うむ。そうですな」
それを見たトーマの表情はこわばっていた。
ブレッサーを破壊され戦意を喪失した二瓶は、生ける
ドアを開け、通路に出る。慎重に進んで行くと、もう一枚同じような扉があった。耳を当てると、向こう側の音が微かに聞こえる。はっきりと聞き取ることはできないが、何かが行われていることは確実だった。
「櫻子殿、行きましょう」
「はい」
二人は頷き合い、ゆっくりとその扉を開いた。
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