半年経ったが、妻が手を出させてくれない。


三葉みつば…」


彼女の、西洋の菓子のように柔らかい頬に触れて、接吻をひとつ。


「た、鷹之助たかのすけ様…」


その黒い瞳が俺を見上げ、唇からは鈴を転がすような声が漏れた。

それがどうしようもなく愛しくて愛しくて、もう一度唇を重ねる。

至福の時だ。


「…っは、」

「ん…」


息をするのもそこそこに、貪るように彼女の唇を追いかけた。

洋灯の明かりに照らされた顔はなんとも艶っぽく見えて、その光景にぞくりと欲望が背中を這い回る。


「三葉…良いか…?」


聞きながらも彼女の寝間着に手をかけ、それを滑らせようとした瞬間、


「ウホッ、ホッホッホッウホホッ!」


突然目の前で威嚇をされた。

先ほどあんなにも熱い吐息を漏らしていた顔など見る影もない。


「…三葉?」

「キーキーッ!」


そして、そう鳴き声を上げながら寝室を出ていく三葉を、俺は呆然と見送るのである。


「……?」


ひとつ言っておけば、俺の妻は猿ではない。

れっきとした人間であり、何なら18歳の乙女である。

さてこの妻は、猿の物真似がとても上手だ。

鳴き声から表情や動きに至るまで、完璧な形態模写ができる。

だが、今は宴会をしている訳でも、芸を催促した訳でもない。

これから夫婦の営みを始めようとした、雰囲気を求められた場面なのである。

そこにこの芸を入れてくることが一体何の意味があるのか、俺は教えてほしい。

求愛行動、求愛行動なのか。






三葉と婚姻してから、すでに半年が経過した。

結婚というものに然したる憧れは無かった俺でも、妻の顔を見る度に幸福を感じる程度には、夫婦生活は順調だ。

初夜と言う初夜を迎えられていない問題以外は。


「我が弟よ。仕事は順調ですか」


算盤を叩く手を止め、声のした方を見る。


「姉上…。上々ではあるかと」


伊月いつき呉服店。

先祖代々受け継がれてきた店であり、俺の仕事場である。

姉のしずくは従業員に会釈をしつつ、畳に腰を下ろした。


「それは何よりです。…私ですが、今度雑談のような記事を担当することになりましてね。色々と思索は巡らせましたが、おしどり夫婦に関するものにしようかと」


姉の仕事は記者である。


「私は独り身でありますから。出来れば貴方がた夫婦からお話を聞きたいのですけれど」

「あ、ああ。それは構わないが…」


果たしてまともな初夜を迎えられていない夫婦を、おしどりと言っても良いのか疑問ではある。

この事実は姉に話すことではないだろう。

ところが何も言っていないにも関わらず、彼女は急に静かになった。

目を細めて、弟の顔を見ながら一言。


「…貴方達、ひょっとしてまだ、致してないのですか」

「!?ゲッゴホッ!」


飲んでいた茶が妙なところに入りむせる。

それに姉は顔をしかめ、軽蔑の眼差しを向けてきた。


「…図星ですか」

「……」


結婚してから半年間。

妻を前にすると春情よりも緊張が先立ち、添い寝はしてども、とんと手を出すことができなかった。

25にもなるのに一体何をしているのだと惰弱だの腰抜けだのと散々言われ。

さらにはその事で妻が鬱憤を溜め「助兵衛日記」なるものを付け始めた事実に直面し、改善するべく努力を重ねてきたのだ。


「だ、だが今の問題は俺にあるのではない…と思う」


やっと手を出す心積もりが出来上がり、いよいよ性交渉に入ろうかとした矢先のことである。

妻が突然猿の物真似をし始め、中断されてしまう。


「いや…正直威嚇をされたぐらいでは気持ちが萎える事は無い。なんなら本物の猿となっても三葉であるならば続きができる自信はある。だが、あれは妻からの拒否通告であり、それ以上踏み込んではいけない気がして…」

「前々から思っていましたが、貴方の愛は少し気持ちが悪いですよ」

「…?」


言っている意味が分かりかねる。

猿となった三葉も、きっと愛らしいに違いな、


「まあ常識的に考えれば、貴方が嫌になったのでしょう」

「…!?」


その言葉を聞いた瞬間、脳天に雷が落ちた。

衝撃を受けている弟を前に、姉は無情にもさくりと続ける。


「ずっと情交を望んでいた三葉さんが、ここに来て貴方からの要望を却下する。他に何か理由がありますか?」

「……」

「理由を告げず体の関係を拒否される事は、貴方がしてきた事です。それを踏まえて考えなさい」


駄目な男を見るような目で、姉はため息をついた。






「三葉」


それから3日後、自宅にて妻を探していた。

仕事は休み、空は晴れ渡り良い陽気だ。

あれから姉の言った事を考えた。

考えて思った。

確かに!!と。

己の未熟さから体の関係を拒否し、誤解が解けた後も先伸ばしにした夫だ。

7つも年上の男と結婚したのにこんな筈では無かったと、妻が後悔していても可笑しくはない。


「自室か…」


ならば少しでも心を引き留めるに当たり、ふたりで外出する提案をしようと彼女を探しているところである。

ああ、言われずとも分かっている。

情けないことは百も承知だ。

だが背に腹はかえられないだろう。


「三葉」


彼女の部屋。

半分開いた襖から、三葉の姿が見えた。

机の上のものをじっと見ながら、何か考え込んでいる。

(花?)

片手で持てるほど小さな花束だ。

庭に生えているものではない。

人から貰ったものだろうか。


「三葉、今から…」

「たっ鷹之助様!」


名前を呼ぶと跳び跳ねるように反応し、慌ててこちらを振り返った。

机の上を慌てて片付け、立ち上がる。


「気が付かず申し訳ありません。お呼びですか!」

「…久々にふたりで出掛けないか」

「はい!では身支度をします!お待ちください」

「…ああ」


平常心を装いながら廊下に戻る。

壁に頭を付け、呆然と今見たものをもう一度思い出した。


「……」


(あれは、なんだ)

三葉が腕で隠す前、ほんの一瞬だが机の上に手紙が置かれていた事を確認した。

そこに書かれていたのは、読めただけでも「この花束をあなたに」と「ずっと好きでした」の2文。

あれは所謂、恋文と言うやつではないのか。






『あっ、あれが悪魔…じゃない、姉です』


あの運命の日、青葉あおばが指し示した方向を見て、言葉を失った。

その気は無かった縁談の筈なのに、次の瞬間心は決まる。

この女性と結婚しよう。

先に彼女のご家族に話を通すべきだと判断し、直ぐにでも求婚したい衝動は押し殺したが。

結婚の許可を得るため半年以上義父の元に通い続け、さすがに嵐の日に濡れ鼠のようになって訪れた時は、義弟も引いた目していた事をよく覚えている。

そうまでしたのは全て、三葉に惚れたからだ。

あの日、お見合いの時はあまりにも眩しくて、まともに彼女の顔を見ることができなかった。


「ここに来るのも、縁談の日以来ですね」

「…ああ。団子でも買ってくるよ。待っててくれ」

「ふふ。あの時と一緒ですね。有難うございます」


三葉を残して、公園の長椅子から立ち上がる。

同じく園内にある、団子屋に足を運んだ。

あれから丸2年ほど経ったが、今は別の意味で三葉の横顔を見ることができない。

頭を支配することはたったのひとつだけだ。


「俺の事より、その男の方が好きなのか…」

「エッ…!」


思わず口をついた独り言に、目の前の団子屋の主人が反応した。

なぜか頬を染めている。


「あの…?」

「やはりあれは…あの花束と手紙は、男に贈られたものなんだろう…!?」

「…!」


わざわざ自室に飾り眺めていた位だ。

ただならぬ情が湧いている事は間違いない。

そして言い寄られているちょうどこの時機に、俺との体の関係を拒否すると言う事は、即ち心はその男に傾きつつあるのだろう。


「……」


嫌だ。

許されるのならば、今すぐ地面に転がり駄々をこねたい気分だ。


「みたらし2本とお茶です…」

「あ、ああ。ありがとう」


だがそんなことをしても、三葉の気持ちは戻ってくるどころか宇宙の果てまで飛んでいく未来は目に見えている。

ならば、この膨大な愛を少しでも伝えられたら、彼女は踏みとどまってくれるのではないか。

聞いたところによれば、俺は感情が面に出ないらしい。

どんな時でも「冷静顔」を崩さないせいで、三葉に至っては、俺が無理に結婚をしたと勘違いしていたぐらいだ。


「へっ!?いや…鷹之助様からの愛は、いつも感じておりますよ」


だが、団子を頬張る三葉からの返答は、期待とは違った。

つまり、これ以上の愛を伝えたところで彼女の意志は変わらないということではないだろうか。

絶望で頭の中が真っ白になる中、隣の妻はすっからかんになった手元の串を見つめている。


「その…だからわたくしは…」


独り言のようにぽつりと漏らしかけて、三葉が立ち上がった。


「湯飲みと器、返してきますね」

「ああ。有難う」


彼女の後ろ姿を見ながら、続きを考える。

(だから、)

だから、完全に拒否をすることができないのだろうか。

少しばかり残った情の為に、俺の接吻や抱擁に付き合ってくれているのか。


「……」


中々に、死にたい。

俺はひとりで盛り上がっていたと言うのか。

さらに無意識のうちとは言え、三葉に無理をさせていた。


「好きで居続けてもらうとは…難しいものだな…」


青葉に聞いた。

俺と出会いのきっかけを作るために、三葉が努力をしたこと。

どう縁談を組めばいいのか一生懸命考えて、一等綺麗に見える着物を選んで、化粧にも時間をかけたと。

全ては俺に好かれる為だ。


「…ああ、そうか…」


彼女は俺を振り向かせようと努力してくれたのに、俺は自分の事ばかりだ。


「あのっ!」


目の前に突然、少女が現れた。

小学生ぐらいだろうか。

ぎゅうと目をつぶり真っ赤になりながら、小さな花束を差し出す。


「ずっと見てました!受けとってください!」


ぼんやりとした頭で、彼女の手元を見つめた。

花の名前には詳しくないが、色とりどりのそれはとても綺麗で、貰ったらとても嬉しいものなのだろう。

(この子も、花か…)

俺は花のひとつさえ、三葉にやったことが無かった。

妻の好きな花さえ知らないこんな夫では、心を引き留められなくて当然だ。


「すまない…」


彼女の背後で、こちらに寄ってくる三葉の姿が見える。

(…それでも)

例え君の気持ちが離れてしまったとしても。


「俺の心はすでに、彼女のものなんだ。君の想いは受け取れない」


少女の頭を撫でて立ち上がる。

三葉は口元に手を当てて、目線をそらし俯いた。


「三葉。俺はずっと、君から好かれる努力を怠っていた」


彼女の肩は震えている。

俺は本当に駄目な夫だ。

君を好きな気持ちばかりが先行し、君自身と向き合って来なかった。


「まだ望みがあるのなら、猶予をくれないか」

「猶予…ですか?」

「ああ。離婚に踏み切る前に、もう少しだけ、俺に付き合ってはくれないか」

「…へ?りこん?」


彼女にしては、珍しく間抜けな声を上げる。

顔を上げた三葉は上から下まで真っ赤だった。


「……ん?」






「申し訳ありませんでした…」


自宅にて、三葉が床へと顔をつけるように頭を下げていた。

まるで兎の耳のように、髪が畳へとくっついている。


「い、いや…頭を上げてくれ…」

「まさか旦那様にそんなご心労をお掛けしていたとは、この三葉、一生の不覚にございます」


顔を上げた三葉は、背後から紙と花を取り出した。

男から贈られたものだと思っていた、問題の品である。


「実は、これらは鷹之助様に贈られたものでして…。自宅の門付近に、ぽつんと置かれていたのでございます」


確かに、よくよく見てみれば手紙の差出人は女性名。

そして拙い日本語と、お世辞にも達筆とは言えない文字の形は書いた者の年齢を表している。


「これは…子供か」

「ええ…。本日鷹之助様にお声掛けをした、あの女児だと思います。どうも近所の花屋のご息女のようでして…」

「だから花束だったのか…」

「おそらくは。花に罪はありませんから廃棄は憚られ、かと言って鷹之助様の目につくところに飾る事はわたくしが許せませんで…自然とわたくしの部屋に」


三葉はこほんと咳払いをして、背筋を伸ばし座り直した。


「彼女にはそのうち、わたくしからきちんと話をつける心積もりではありましたが…万が一にも鷹之助様が幼女に対して心動く事がないよう、秘密にしておりました」

「そ、そんなことは…」


言いかけて止まる。

16歳の三葉に惚れた自分が言えたことではなかった。


「……」

「例え幼女でも鷹之助様を狙う以上は敵でございますから。呪うつもりで手紙を見つめておりましたのを、まさか見られていたとは…」

「呪…。で、では、夜いつも拒否をしてくる件は…」

「!」


三葉の肩がぎくりと動き、決まりが悪そうに目を閉じる。


「気がついておられましたか…」

「あの雰囲気の中で、急に威嚇を始めればさすがに気付く…。何か理由があるんだな?」


ついでに聞いてみたは良いが、「嫌いになったから」と言われる可能性を思い、胃がぎゅうと締まった。

冷や汗をかきながら三葉の顔を一瞥する。

ところ予想に反して、目の前の彼女は頬を真っ赤に染め瞳を伏せていた。

普段見せない可愛らしい表情に、思わず心臓がどきりと鳴る。


「その…夜は、鷹之助様のお顔が…助兵衛すぎるのでございます…」


可愛い口から出た言葉に、一瞬思考が停止した。


「…!?!?俺はそんな鼻の下を伸ばしていたのか!?」

「違います違います!その…なんと言いますか…。普段は無表情な鷹之助が、この時ばかりは非常に色気のある顔をされることが…どうにもわたくしの心を掻き乱しまして…」

「ああ、そんなことか…」

「そんなこと!?鷹之助様は格好よすぎるのでございます!見知らぬ女児を魅了したかと思えば、本日の団子屋の主人も物欲しそうな目を貴方様に向けておりましたし、わたくしは気が休まる時がないのです!」

「…!?」


初耳であるし、あまり聞きたく無かった話だ。

それでも三葉は興奮気味に続ける。


「先ほどもあんな臭い台詞を、さらりと仰ってしまうんですもの!わたくしがどれだけ胸をときめかせてしまったか!」

「す…すまない…」

「そんな眩しい貴方様が、夜はわたくしのことをまるで愛しくて仕方がないといったような顔で、見るものですから…胸が一杯になってしまって」

「実際愛しいのだから仕方ないだろう」

「ほ、ほら!そういうところです!」

「む…すまん…」


難しい。

三葉はふうと息を吐いて、落ち着きを取り戻した。


「鷹之助様がこんなにもわたくしのことを愛してくださるのは予想外でした…。求める心積もりはいくらでもありましたが、求められる心積もりは…少し、足りなかったようでして」

「元はと言えば君に前もって想いを伝えなかった俺のせいか…すまん…」

「いえ…わたくしから情交を希望致しましたのに…まさかそんな理由で出来ないとは言えず…あのように誤魔化すしか無かったのです…」

「誤魔化し方が少し…その、下手だったな。吃驚した」

「申し訳ありません…」


しょんぼりと眉を下げる三葉からは、不安が伝わってくる。

思わず彼女の名を呼んだ。

その瞳を見つめ、できるだけ優しく話しかける。


「俺は君に嫌と言うほど待ってもらった。今度は俺の番だ。心の準備ができるまで手を出さないと約束するよ」


ここは得意の冷静顔で、余裕綽々と言わんばかりに微笑んでおく。

三葉は目を輝かせて、笑顔になった。


「鷹之助様…!わたくしは幸せ者です。有難うございます」

「いや…。ところで…好きな花はあるか?」


待つとも。

待つに決まっているだろう。

俺達は夫婦だ。

妻がそうしてくれたように、今度は彼女の心に寄り添わなければならないことは重々承知。

承知しているのだが。


「花ですか?」

「ああ。君に贈りたいんだが、何が良いのかわからなくて」


その問いかけに、三葉ははにかんで頬を染めた。


「ならば一緒に買いにいきとうございます。鷹之助様とお出掛けする、その口実ができますから」


結婚して半年経ったが、妻が手を出させてくれない。

恐らくしばらくは、この状態が続くだろう。

こんなに可愛い妻を目の前に、生唾を飲み込んで我慢する日々が続くのだ。


(俺も…助兵衛日記。始めるか…)


いやはや。

惚れた弱味と言うやつは、全くもって手に余る。

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旦那様が私に手を出してくれません。 エノコモモ @enoko0303

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