3ヶ月経っても旦那様が私に手を出してくれません。
おはようございます。
私が
ほら庭の掃除もこの通り、慣れたものでございます。
「三葉」
そして家の縁側から私に声をかけてくださる男性が、
何を隠そう私の旦那様であり、そして私を唯一悩ませる御方なのです。
さて、前回の屋根裏猿事件で、2つの事実が明らかとなりました。
「旅行は今日の夕方から行くことになった」
「かしこまりました。では昼餉は召し上がって行かれますね」
「ああ。頼む」
鷹之助様は、本日からご友人数人と旅行にお出掛けになります。
相も変わらず一切合切、私に手を出すこともなく。
いえいえ、違うのですよ。
明るみに出た事実の1つに、鷹之助様が私をいたく可愛がってくださっている事が分かりました。
愛らしいと思うあまり手が出しにくいという純情な理由なのでございます。
その事が判明した時には、私は天にも昇る程嬉しく思ったものです。
さて、そちらが結婚して1ヶ月経った頃のお話です。
ところがさらに2ヶ月、つまりは結婚後から3ヶ月が経とうとも、未だ手の一つも握ってくださらない旦那様には、一も二も無く思ってしまうのです。
早く手を出せ!と。
若し私のこの強い情熱を可視化するならば、「抱け」と書かれた看板を背負い全裸で鷹之助様の周りを旋回する程でしょう。
ですが、それは決して実行してはなりません。
「…何故なら私は、貞淑な妻だからです」
「ん?何か言ったか?」
「いいえ。あっ、鷹之助様。ご旅行先までの切符を購入しておりますので、取りに行って参りますね」
2つ目の事実と致しまして、鷹之助様はどうも私に幻想を抱いていらっしゃるようです。
確かに体はまごうこと無き未通女ではありますが、夜の営みに関しての興味はある程度ございます。
嘘です。
海より深い興味がございます。
仕方の無い事だとは思いませんか?
愛しく思う旦那様を隣に、毎夜毎夜横たわり寝るだけというのはなんと残酷な話でございましょう。
ですが、鷹之助様が望むのであれば、私は色情狂いな猿の本性を隠し貞淑な妻の仮面を被ります。
被りますとも。
「良い。掃除の最中だろう?切符は自分で取りに行くから気にするな。三葉の部屋にあるか?」
「はい。机の上に。有難うございます」
本来であればこの旅行も嫌なのです。
新婚である上に未だ接吻の1つも頂いておりませんのに、どうして笑顔で送り出すことができましょうか。
ですが私は貞淑な妻ですから、その様な我儘はそっと腹の底に押し込めるのです。
「探してくる。三葉は本当によくやってくれているな。いつも助かっているよ」
ほら。
そう言って、頭を撫でてくださる旦那様にかかれば、私の醜い嫉妬は浄化され天に昇ります。
未だ手も繋いだことはありませんが、こうして頭の一つぐらいは撫でてくださるようになりました。
しばらくはこちらと、あと奥の手で我慢することに致します。
頭を触る事に関しては、私の実弟である
「鷹之助様?掃除が終わりましたので、旅行先に持っていく羽織のご相談をしたいのですが…」
さてさて、話は変わります。
前述した奥の手でございますが、私は「
明け透けな名前にも程があると思われたことでしょう。
良いのです。
私しか読みませんから。
「鷹之助様…あら?自室にいらっしゃらない…?」
内容は至って平明でして、いつまで経とうとも手を出してくださらない旦那様に対する葛藤の日々が綴ってあるのでございます。
時には妄想を、時には願望を書き殴りました、私の助兵衛な本性を嘘偽り無くさらけ出した日記です。
それを書くことで、私は今にも旦那様に襲いかからんばかりのこの劣情を、抑え込んでいるのです。
「鷹之助様。こちらにいらしたのですね。切符は見つかりまし、た…か」
旦那様のお姿は在りました。
私の自室に。
確かに切符を探しに行くとのことでしたから、そこにいらっしゃることに疑問はありません。
私。私が愚かだったのです。
「あ…み、三葉」
驚いてこちらを見る、そんな鷹之助様の表情以上に、私の心中はまるで嵐の海に漂う船のように荒れ狂っております。
旦那様が私の部屋でご覧になっていた書物は、何と私の助兵衛日記だったのです。
「突然お呼び立てしてしまって、申し訳ありません」
その日の午後、喫茶店にて私、三葉は深々と頭を下げておりました。
「続けての謝罪で大変申し訳ないのですが…せっかく認めて頂いたにも関わらず、鷹之助様に離婚を言い渡されてしまうかもしれません!」
全くもって、わたくしの不徳の致すところであります。
「我が妹よ。顔を上げなさい」
そう言って菩薩様のような微笑みを浮かべるのは
鷹之助様の実姉であり、私の義理の姉にあたります。
普段は出版社にお勤めされている、いわゆる職業婦人です。
雫様は私を落ち着かせながら、ゆるりと口を開かれました。
「貴女ほどの者が太刀打ちできないとは、一体敵はどんな強者でしょう」
「お、己でございます…。わたくしが、不埒で淫猥で助兵衛な雌豚であるあまりに…」
「我が妹よ。安心なさい。女とは生来、不埒で淫猥で助兵衛な雌豚です。世の殿方が分かっておられないだけなのです」
「義姉様…!」
何と慈悲深い方でしょう。
それからぽつりぽつりと話し始めた私の痴態を、雫様は時折相槌を打ちながら聞いてくださいました。
「と言う訳でして…とてもではありませんが鷹之助様と目を合わせることもできず、逃げるようにこちらへ赴いた次第でございます。あっご安心下さい。鷹之助様の昼餉だけは光の速さで用意をして出て来ましたので」
「素敵です。公私混同をしない女は好きですよ」
尊敬する雫様からお褒めの言葉を頂き、一瞬心は浮かれます。
ですが、状況を思い出し、直ぐ様また底へと沈んで行きました。
「しかし…我が愚弟がまさかそれほどまでの朴念仁だったとは…。人様の日記を勝手に読んでしまうのも頂けません」
「いえ…あれはわたくしが悪いのです」
あのような劇物を人目につく所に置き去りにし、あまつさえその場所まで誘導してしまったのです。
完全な事故であり、鷹之助様は被害者に他なりません。
「妹よ。…前にお話をしたことがあると思いますが、私と鷹之助の父親は好色な男でした」
「はい。一度お伺いしたことがございます」
「ええ。その為に母が苦労をする様子を間近で見ておりましたから、私は鷹之助だけにはそうなって欲しくはないと、少々女性と切り離すように育ててしまったのです」
「そうなのですか…」
道理で、麗しいお顔立ちの割には女性経験が乏しくていらっしゃると感じておりました。
雫様は目を閉じ、そして何と私に頭を下げられたのです。
「そのせいか、鷹之助は些か堅物な男に育ってしまいました。貴女にご迷惑をお掛けしてしまった事を申し訳なく思います…」
「そのようなことは…!お止め下さい!」
「それにしても…困りました。敵が体外に居るのならば助勢もやぶさかではないのですが…。家庭内にあるのなら、いくら私でも口を挟むことは難しいでしょう」
「はい…」
「我が妹、三葉よ。貴女は私が認めた女です。貴女は唯一、男でもむせび泣く私の鉄拳に飛び込んできましたから」
「ええ。寧ろ殴られる程度で鷹之助様が手に入るのならば、易いことと思いました」
懐かしい、懐かしい思い出にございます。
雫様は当時、私を弟を誑かす悪い女人か、鷹之助様の容姿のみに惹かれた軽骨者であるとお考えでした。
いえ、一目惚れですから、容姿に惹かれたことは間違いないのです。
ですが、勝手に幻想に当て嵌め後から失望するような、そのような軽薄な女では無い事をご理解頂く為に、少々時間が掛かっただけのお話です。
「我が愚弟は失禁趣味を持つ変態であると教えた私の嘘に、いずれ下のお世話はすることになる訳だから早いか遅いかの違いだと言い切った、貴女の漢気は大変、素晴らしかったですよ」
「嬉しいお言葉です。私の覚悟が伝わりまして何よりでございます」
今思えば年齢と容姿に反比例して純な鷹之助様を、心配された故の行動でいらしたのでしょう。
「その心意気と愛を信じ、ふたりで心行くまで話し合うのです。幸い、我が愚弟は旅行中とのこと。時間はありますから、お互いゆっくりと熟案なさい」
「…かしこまりました」
やはり、鷹之助様と直接お話をしなければなりませんね。
私が帰路に着く頃には、旦那様はご旅行で汽車に乗車されている筈です。
あれほど憎んだご友人ですが、今考えますと時期としては最高でございました。
しばらくじっくり、言い訳を練りに練ろうと思います。
「ところで、鷹之助が覗き見たという日記には、どのような事が記されていたのですか?」
「それは…」
既に鷹之助様には全て露見してしまいしたから、もう隠す必要など無いでしょう。
それから私は、雫様に懇切丁寧に日記の内容をご説明致しました。
端的に申し上げれば、鷹之助様と私が粘着質な愛を育む趣旨でございます。
その全てを話し終えると、雫様はいつも通り、菩薩様の如き微笑みを浮かべられました。
「それは…中々ですね」
しかしながら、普段曖昧な表現を使う事は滅多に無い雫様が、この時ばかりはそう仰っていた事を、よく覚えております。
「ただいま帰りました…」
明かりの消えた自宅に入りながら、習慣で小さく呟きます。
当たり前ですが、返事はありません。
外出着から着替えようと奥の座敷に向かいます。
「…!」
ところがその時、真っ暗な襖越しに物音と衣擦れの音が聞こえたのです。
私の自宅には誰も居ない筈ですし、明かりもつけず、家主の声にも反応しない者が、まともな人間である筈がありません。
(泥棒…!?)
「……」
一度深呼吸をして、考えます。
相手の人数や武器が分からない以上、女1人が出ていく事は大きな危険が伴います。
襖越しに、相手がすくみ上がる威嚇を行うのが正解でしょう。
襖を開ける事も憚るような、直ぐにでもこの家を出ていきたくなる、そんな恐怖を与えるべきです。
ばさりと着物の裾をめくり、足を大きく広げ、顔の筋肉を解します。
ここは、生き写しであると評判の猿の物真似で乗りきります!
「ウッ!ホッー!!」
最高です。
今まさに、史上最高に完成度の高い猿真似が出来ていると自負しております。
「ホッホッホッ!キィイ!、イッ…イ……」
ところが、声はどんどん尻すぼみになります。
一体何が起こったのか不安になられた方もいらっしゃることでしょう。
補足させて頂きますと、私が猿の物真似、いや正に猿そのものとなって威嚇を始めた瞬間、襖はがらりと開いたのです。
そしてこちらを驚いた表情で見つめるのは、旅行に出掛けられた筈の旦那様でした。
「……」
「……」
鷹之助様は大変困惑されたご様子で、それでも何とか声を振り絞ってくださいました。
「…なんと言って良いか…。その、とても…よく似ているぞ…本物かと思った」
「……キィイ」
ええ、ええ。
そうですとも。
ここは地獄にございます。
「驚かせてしまったな…。その、瞑想をしていて明かりを点けていなかった。三葉が帰ってきたことは知っていたが、何と声を掛ければ良いのか分からず襖を開ける事を迷っていたら…こんなことに…」
あの後風呂に入り、寝間着に身を包んだ私は、旦那様と共に寝室におります。
いつもなら幸福なひとときでございますが、私も鷹之助様も正座にて向かい合っている為か、身を焦がすような緊張感に包まれているのです。
「…お目汚し、大変失礼致しました…」
「いや…だが次からは、泥棒を見つけた場合は逃げなさい」
そう声をかけてくださる優しい旦那様は、私の事が気掛かりで、旅行は延期されたのこと。
何と言う事でしょう。
貞淑な妻であるべき私が、旦那様のご予定を潰してしまうことになろうとは。
「まずは…すまなかった。どのような理由があろうとも、人の日記を覗き見て良い道理など何処にもなかった」
いや、三葉よ。
現実逃避は止めるのです。
貞淑な妻であるべきだった貴女は、もう既にとんでもない事態を引き起こしているのです。
助兵衛な本性を見せつけた上、さらには猿の物真似を披露するというまさに狂気の沙汰。
「そして…謝罪ばかりだが…。すまない」
「……」
嗚呼。
鷹之助様は、今から離縁のお話を切り出そうとしていらっしゃるに違いありません。
一体世界の何処に、嫁がとんだ色情魔の猿と分かっても尚、離婚しない殿方がおりますでしょうか。
「うっ…」
「三葉」
泣いてはいけません。
全て私が招いた結果なのですから。
そう思って、覚悟も決めた筈なのに大量の涙が出て参りました。
鷹之助様。
私は貴方が好きです。
大好きで、心の底から離れたくないのです。
「ひっく…うぇ…」
「……」
泣き止まねば。
鷹之助様も困っていらっしゃいます。
そう思っているのに、次々と溢れる涙で視界はまるで水中のよう。
「三葉」
「う…?」
目の前が肌色に染まったかと思えば、次の瞬間、唇に温かい感触がありました。
思考回路が停止する私に、ゆっくりと離れた鷹之助様は恐る恐る口を開きます。
「その…これで合っているか?」
「へ…?や、止めてください!今から別れ話をするというのに、そんな期待を持たせるような事をなさらないでください!」
これは一体何なのでしょう?
最期位は温情をかけてやろうという手切れ金、いえ手切れ接吻でしょうか。
それでも、こんな時でも、そんな理由でも、嬉しく思ってしまう自分がいることが、憎くて仕方ありません。
ところが鷹之助様の方を拝見すると、予想外に驚愕した表情をされていました。
「別れ話をするのか…!?」
「…え?違うのですか?」
「……」
はしたなくズビリと鼻水を啜る私の顔を見兼ねて、鷹之助様はご自身の着物で拭いてくださいます。
私の頭は、未だ状況についていくことができません。
「すまなかった。俺に意気地が無いせいで、三葉に恥をかかせてしまった」
「…そんな事は…」
「三葉があまりにも出来た嫁で、文句の1つも言わないから甘えてしまっていたんだ。手を出さないからと言って、決して勘違いをしないで欲しい。何と言うか…君を前にすると緊張してしまって…。その…俺にとって、三葉は…」
言い澱んだ鷹之助様は、一度言葉を切りました。
そして私の瞳を穴が空くほど見つめて、真剣な表情で口を開かれたのです。
「初めて会った時から、三葉。君に心底惚れている。もしもこの女性が手に入る事があれば、生涯愛し抜こうと決めたんだ」
そう語る鷹之助様は真摯で情熱的で、そしてあまりにも男前で、私の涙はぴたりと止まりました。
「だから離婚など、考えた事も無いよ」
嗚呼、嗚呼。
何と言うことでしょう。
お慕いする旦那様は、私の気持ちと同じか、いえそれ以上に、私の事を愛してくださっていました。
「さ、猿でも良いのですか?助兵衛ですが…良いのですか?」
「良い。むしろ、その…俺こそ意気地無しですまない。7つも年上なのに、気持ち悪いだろう」
「良い…良いに決まってます!決まってるじゃないですかぁあ」
「み、三葉」
また泣き出してしまった私を目の前に、鷹之助様はおろおろと困惑した顔をしていらっしゃいます。
しばらく考えて、その後ぎゅうと抱き締めて下さいました。
そのお顔は、上から下まで、それはもう真っ赤です。
「その…こうして少しずつ、慣れていこうと思うから、それまで待っててくれるか?」
旦那様は私に手を出してくれませんが、今はそれで良いのだと思います。
「…はい。お待ちしております」
私は世界でいちばん、きっと誰よりも幸せな妻でございますから。
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