第一話 月

 月の話をしよう。

 月ーそれは兄の名であり、遠い昔夜空に君臨していた星、らしい。

 らしい、と言うのは、その月が僕の生まれた頃には妖精や魔法使いみたいなお伽噺の住人になっていて、僕自身は月を伝聞という形でしか知ることができないからだ。

 この世界の空は群青色に染め抜かれている。朝も昼も夜も群青だ。これは婆ちゃんの頃からそうだったみたい。なんでも昔、そう、婆ちゃんの婆ちゃんが赤ん坊だった位だろうか、いよいよ大気の汚染やら紫外線やらが深刻になって、その深刻な問題を科学で解決する代償として空色を捨てるしかなかったそうだ。伝聞の伝聞で僕自身も興味がないので、詳しくは知らない。

 小学校の朧な記憶から引っ張れば、その群青はこの星をすっぽりと覆って、紫外線やもっと物騒なあれそれを取り除いて光だけを通し、ついでに大気の汚染物質を吸着分解してしまう優れものらしい。アーロフィルム、と名付けられている群青は実装からうん十年、いや百数年?徐々に厚みを増して遂には空の景色を支配した。

 そのように聞いている。

 分厚い群青を通り抜けるのは太陽の光にしかできず、反射光には難しい。

 婆ちゃんが子供だったときには満月くらいなら見えたらしいけど、陽単位で厚みを増す群青には敵わず、そうして月は空から退場し、今や「無いもの」の代名詞となった。

 兄はその「無いもの」が名前だった。けれども兄はそんなことを嫌がるどころか、気に入ってすらいたようだった。

 兄の穏やかな佇まいや銀の粉をまぶしたように綺羅綺羅する瞳は、お伽噺を読んで空想する月、そのものだったから僕も兄に「月」という名はぴったりだと思っていた。

 兄の消えた日、僕はベッドの中で夢を見ていた。

 ある日の幼い僕は泣いていた。両手が酷く痛かったからだ。

 「キリカネ、何をそんなに泣いているの?」

 月ー兄は僕の両手を見て「ああ」と笑いながらそっと目の前に屈む。

 「喧嘩をしちゃったか。それで手が痛いんだね」

 僕の両手を取って、僕よりも大きな両手ですっぽりと包んだ。

 「キリカネ、君が何故両手をそんなにも傷つけてしまったのか、俺は知っているよ。でもね、だからこそよくお聞き。両手はね、素敵な何かを掬うためにあるんだ」

 その時の手の温度、兄の銀の砂めいた瞳と、柔らかい声は鮮明に僕の記憶に焼き付いている。けれど僕が何故、泣くほどに喧嘩をしたのかは思い出せない。

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月の蜜を両手に掬え 爽月柳史 @ryu_shi_so

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