いじめ問題の本質


 いじめ問題の本質を探るのはとても難しい、不可能に近いかもしれない。


 何故ならば『いじめ』の定義自体が曖昧だからだ。


 拡大解釈するならば、ワイドショーなどがMC、芸能人、著名人、更には『町のご意見番』と銘打って一般人にまでもが、当事者が反論できない場所から『過ちを犯した人』を寄って集って非難すること自体『いじめ』の一種になるだろう。


 それを見た子供はどう思うだろうか。


「この人は悪いことをしたから、責められても仕方がないね」


 責めている人の殆どは無関係な人なのに、だ。



 正直に言えば人を責めたり、非難すること自体にある種の気持ちの良さがあることは否めない。


 更に言えば『人の過ち』なんて上げ足は取ろうと思えばいくらでも取れる。


 言ったもん勝ちな部分もある。



 恐らく学校が教えている『いじめ』の解釈は『自分がされて嫌なことを人にすること』だろう。


 そのことについて、とある親戚の子供が言ったことがある。


「じゃあ夏休みに宿題をいっぱい出すのはいじめだね」


 違う、それはいじめじゃない。


 しかし、深く考察してみるとそうとも言えなくもない。


 決していじめではないだろうが、子供の宿題=大人の仕事と置き換えれば、宿題の多さはコンプライアンスの事案とも言える。


 今はどうか解らないが、私が学生の時は教師の個人的な裁量で宿題の量を決められる。田舎の小学校に勤めていた初老の私の担任は卒業生からも親からも宿題を多く出すことで有名だった。


 遊びたい盛りの子供にとって、多量の宿題はいじめでなくとも嫌がらせに感じられることは否めない。


 

 余談が過ぎたが、オーソドックスないじめの対処法と言えばいじめに苦しんでいる子供を安全な場所に隔離することだろう。


 確かにいじめの苦しさからは解放される。


 私が親なら、いじめの苦で自殺してしまうくらいなら即刻それを選ぶ。


 しかし、冷静に考えてみると社会に出たらそこまで面倒は見れない。


 他人と関わることのない仕事だけを選べる人なんてそうはいないし、出来ればそれを推奨したくはない。


 やはり、学校と言う集団生活の場で他人とうまく関わる術や立ち振る舞いを身に着け、他人の悪意から自分を守る手段を学んでほしい。



 人の悪意は単純ではない。


 例えばAという人とBという人が同じ行動を取ったとしても、人間関係や立ち位置、影響力で非難されるか称賛されるかが異なる。


 政治で言えばわかりやすいだろうか?


 非同盟国相手にならいくらでも非難できることでも、同盟国が同じことをしても避難できないのが我が国の実態だ。


 

 学校には様々なグループがある。


 部活にせよ、委員会にせよ、クラスの中にせよ、様々だ。


 自分を優位な立場にするために、より影響力の高い人が所属するグループに入りたがるのは学園ドラマなどの物語ではセオリーだろう。


 リアルでもよくある話だ。


 社会に出ても、派閥争いがあればより影響力のある上司につくのが自分の身を守るために有効な手段だ。


 これも同じである。


 

 すなわち、弱肉強食の時代に勝ち抜くにはいじめられない立ち振る舞いを学ぶ必要があるということだ。


 

 いじめというものを突き詰めていけば、生物の食物連鎖や道徳問題にまで繋がってしまう。


 例えば、道徳では『人には優しくしよう』が基本であるが、人以外には結構曖昧だ。


 ペットや動物などは例外にしても、害虫なんかには適応されない。


 そもそも害ってなんだろう。


 害虫と銘打たれただけで駆除される昆虫からすれば堪ったもんじゃない。


 人様に食べられるためだけに育てられた牛からすれば堪ったもんじゃない。


 そこらへんに道徳の限界があり、人間の傲慢さもある。


 

 極端な話になってしまったが、それらがいじめに繋がっているとまでは言わない。


 しかし、生物間ではなくとも同じ人間というカテゴリにしても同じ場所に居て、同じ仕事をしていても国籍が違えば待遇も違うし、同じ日本人でも『大卒出』と『高卒出』でも違うし、『正規職員』と『非正規職員』でも全く異なる。


 それを差別と言ってしまえば、いじめの一種になってしまうだろう。


 

 結局、いじめとはいじめられた側が『いじめられた』と思うことをといじめと認定するしかない。


 仲間外れにされても『むしろしつこく誘われなくなって清々する』と思えばいじめじゃないし、イジられることがコミュニケーションと思うのかいじめと思うのかもその人次第だ。


 

 最初に述べた親戚の子供が言った「夏休みの宿題をいっぱい出すのも先生からのいじめだ」も、この子供からすればいじめと認定せざる得ない。


 先生という立場を利用したパワハラでありアカハラだ。


 宿題を忘れた子を廊下に立たすのは体罰。


 部活でミスをした部員にペナルティを課すのはやや体罰。


 その延長上で考えれば、宿題をたくさん出すのだって、その子供の自由に遊べる時間を奪う側面からすれば問題が無いとは言い切れない。


 

 色々理屈っぽいことを述べたが、これくらい『いじめ』の解釈は難しく、人によっては認識も異なる。


 それなのにいざ問題になれば、学校や教育委員会に責任を丸投げだ。


 

 正直学校の担任からすれば入れ替わり立ち代わり様々な生徒を一度に数十人も受け持っているのに『その子が嫌だと思ったことはいじめだ』なんて言われても『んなこと、解るわけないだろう!!俺は神様か!!』ってなるだろう。



 社会全体で改めて『いじめ』の定義について考え、少なくとも悪意性、犯罪性の高いものは警察などの第3者機関に介入してもらった方がいいのではないだろうか?


 ただ『いじめ』なんて曖昧な言葉を用いて誰かに管理責任を押し付けているだけでは絶対に解決できない社会問題だ。


 いじめの基本はいじめを行った者といじめを受けたものとの問題が大きいのに、蓋を空ければ学校や教育委員会の管理責任問題ばかりだ。


 いじめが発生したのは学校の責任だと言っているようなものだ。


 人は追い詰められれば、責任から逃れるために隠したりしらばっくれたりするのはよくあることだ。


 犯罪者が犯罪を犯すのは警察の責任だってなれば警察だって犯罪者を罪をもみ消すことも容易に想像できる。


 

 『いじめ』や『管理責任』ばかりに目を向けずに、ただ単純により多くの生徒が『より快適にスクールライフを送る』にはどうすれば良いかを考えると、相乗効果で『いじめ』というものが薄れていくのかもしれない。

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