天上の調べ

キジノメ

天上の調べ

 浅い二度寝をする時、決まって見る夢の風景がある。

 青々とした森の中だ。樹齢何百年もあるのだろうしっとり湿った柔い茶色の幹、緑の葉はどれも濃く、少しの風でざわざわと音が鳴る。

 きっと空は晴れているのに、幾重にも葉が重なり陽は落ちてこない。それでも差し込む光の筋は、膝丈ほどの多年草に付いた朝露や、地面を浅く流れる河面を照らし出している。

 深く息を吸うと、肺の中が洗われる様な香りがした。どこまでも歩いていけそうで、僕はいつもふらふらと歩きだす。


 そして辿り着く場所は、小さな教会だ。白い塔のような形がくっついた教会。こげ茶のドアは少し重いけれど、いつもすんなり開く。

 開いた途端耳に響く、少しくぐもった重たい音。パイプオルガンの何重にも重なった音が響いてくる。

 中はステンドガラスから入る光で、空気が塵が、きらきらきらきら光っていた。座椅子の臙脂色のクッションは、暖かい陽の光で厳かにつやつやしている。

 そして誰もいない教会の祭壇のバックには一際大きいステンドグラスがあり、そこから差し込む光が実体の無いパイプオルガンを作り出していた。

 だからそのパイプオルガンは、全てが全て光の色をしていた。光の色というのはおかしいけれど、そうとしか言いようがなかった。黄色なんて俗っぽい言葉じゃない、黄金ほど主張してもいない、けれどきらきらと、そう、きらきらと、美しい色をしたパイプオルガン。

 いつもそのオルガンの前には誰も座っていないのに、オルガンの音は教会中に鳴り響いていた。ひどくゆっくりとした、神聖な音。少しずつ、聞く人を天界へと連れていこうとするような音。曲もいつも同じだった。

 そして曲は、いつも同じところで途絶える。本当の高み、一番高く、天に近い音。そこまで上り詰めておいて、ふっと曲は消えてしまう。なんの余韻もなく、跡形も無かったように消えていく。そしてステンドグラスからの光が途絶えてパイプオルガンが消える。

 そこで僕はいつも目が覚めた。思い出しては夢現にオルガンの音を思い出して、ヴァイオリンを構えてそれを弾こうとしても出来ず、そうして忘れた頃に浅い二度寝をして、また夢を見る。



 今日も、気が付けば森の中にいた。夢の中かな、という思いが少し意識にのぼる。けれどそれを検討するも面倒だと言うように脳から意識が消え、ここにいるのが当たり前の気分になった。

 いつものように歩く。肌に触れる空気は、朝のあの、熱気を覚えていない空気そのものだ。とても気持ちが良い。

 歩けば教会に着く。当たり前だと、思った。夢で何度も経験しているから、というよりは、生まれた時から住んでいる街で、角を曲がればタバコ屋さんがあるのを知っているような、そんな感覚。

 今日も教会の扉を引いて、中に入る。突如耳に飛び込む重たいオルガンの音。驚いたのは、今日は光のパイプオルガンの前にひとり、座っている人がいた。

 その人が弾いているのだろう、身体が動いている。長い髪がゆらゆら、背中で動いていた。

 最初は低いところから、次第に高い音へ。神の住まう天界に向かい、その先、高い音。

 ――そこでまた、音が途切れる。

 弾いていた人が腕をだらりと下ろして、振り向いた。

 なぜかその人は白い仮面をしていて、表情が何も分からなかった。けれど髪が長いし、白いワンピースを着ているし、多分女性だと思う。

 怖い、と思うこともなかった。顔を見せてはいけないんだろうな、となんとなく察した。

「こんにちは」

扉の前で立ったままの僕に声を掛けてくれる。僕は慌てて席の最前列まで移動した。

「いつも、オルガンを弾いている人ですか?」

今日はまだ、光のオルガンは消えていなかった。彼女はオルガンを撫でながら頷く。

「いつも。誰かが来てこれが鳴っているのを聞くのなら、それは私が鳴らした音」

「あの、綺麗です」

「音が?」

「ええ」

「そう。耳が良いのね」

ふー、と一音、音を鳴らす。パイプオルガンは、音がよく分からない。たくさんの音が混じっているから。

「あなたも弾く?」

彼女がオルガンを指さす。好奇心はうずいたけれど、僕は笑って否定した。

「僕はこっちなので」

ヴァイオリンを持ち、弓を弾くポーズをとる。ああ、と彼女が笑った気がした。

「弦楽器を、するのね」

「はい」

「じゃあ、ちょっと一緒に弾きましょう」

え? と思ったら、光の粒子が僕の手元に集まって、光のヴァイオリンが生まれた。試しに弓を弾く。自分が持つそれよりもずっと重くて、深い音がした。

 彼女がパイプオルガンを鳴らし始める。それに付いていくように、僕もヴァイオリンを鳴らした。

 弾いていて気分は楽しいのに、ああやっぱり、とどこか悲しくなる。

 どんなに良い音を与えられても、いい音楽を与えられても、生かしきれない僕がいる。弾けない、もっと先へ行きたいのに。こんな弾き方じゃなくて、もっと、本当はこうじゃないのに。

 ヴァイオリンの音はパイプオルガンに比べれば負けるけど、こんなに至近距離で互いに聞いていたら音は聞こえる。オルガンの音は、こんなにも天を舞おうとしているのに。僕も共に舞いたいのに。

 もっと上へ、その上へ、この先は天の領域、

 ――そこでやはり、オルガンの音はぴたりとやむ。

 僕もそっと弓を弾くのをやめる。やめた途端、手から流れるように光は去っていった。目の前を見ればパイプオルガンも消えている。彼女は立ち、こちらを見ていた。

「……下手でしょう」

僕は頭を掻き、そう言う。しかし彼女は首を振った。

「いいえ。下手ではない。上手いとは、思う。思うけれど、思うだけ」

「それは下手ってことじゃないですか?」

彼女は首を振るけれど、そんなことより聞きたいことがあった。毎回毎回、どうして曲はここで止まるのだろう。

「この曲は、ここで終わりなんですか?」

「いいえ」

「違うなら、どうしてここでやめるんですか? いつも」

「この曲が、まだ未完だから」

彼女が先ほどオルガンがあった場所を撫でる。

「未だにこれを完成するものは現れない。この曲は、天上の調べ。天への捧げもの。だからこそ天へ上った後の終わりへ向かう音を、誰も作り出せないままでいる」

彼女が仮面の奥から、こちらを見つめている。

「あなたも、天上の調べを探しに行けばいい」

僕はすぐさま頷けない。考えときます、とも言えない。

 だって、音楽の道へ進むかなんて、毎日考えている。

 僕は今、高校三年生。そう、受験。県立の大学へ行くか、他県の音楽大へ行くか、とても悩んでいる。

 音楽をもっとやりたい。けれど飛び込んだ先で、才能が無いと気が付いてしまったら? そう、こんなに今までやってきたのに、壁を超えられる気がしない。だからここで諦めた方がいいんじゃないのか? でも、音楽がやりたい。もっとヴァイオリンを弾きたい。けれど……。

 そうだ、夢を見る前はいつもそうやって悩んでいる。

 その悩みを振り払えと、彼女に言われたようだった。

「天上の調べに世俗はない。誰でも探しにいける音。だから、あなたも探しにいける。音楽をやるものなら、誰にでも希望は開いているのだから」

希望、という言葉にハッとした。

 毎日毎日、考えることは勉強と才能の無さ。ここで全て終わりな気がして、これからは何も生み出せないと思っていた。多分、音楽の道へ進んでも何も作れずに……と諦めきっていた。

 けれど、そうか。こんな音を探しにいけるって、希望を持ってもいいんだ。

 天へ贈る捧げもの。空へと一番近い音楽。それを探しに行っても、いいんだ。

 全ての風景が薄くなり始めていた。最後に彼女が呟く。

「天上の調べ。それは誰にも等しく開かれた音」

僕は安心して、初めて夢の中でにっこり笑った。



 それからあの夢は見ない。けれど僕は、まだ志望を迷っている。

 でも、もう少しで決断できそうだから。もう少し。

 暇さえあればヴァイオリンを握り、彼女が弾いていた曲を繰り返しなぞった。忘れないように、その道へ進んだ時に、音を探しにいけるようにと。

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