無事に帰ってこれたら、俺のことをお兄ちゃんと呼んでくれ

 午後4時26分

 フィリオムラモース屋上(プレア側)


 プレアは現在、ホテルの屋上で立ち尽くしている。紋様のお陰でルチェアの予測をはるかに上回る速さで屋上にたどり着くことができたのだ。荒くなった息を整えながら、右袖口に仕込まれた時計を一瞥してこう呟く。


「あとは俊雄が30分ちょうどにスキャンルームに入ってくれることを祈るだけ。それまでに決着をつける」


 プレアが後方へと下がりトップスピードで助走に入る。横殴りの雨を弾きながらビルの端から端へと駆け抜けていく。そして、隣のビルに向かって身を投げるように大きくダイブした。


 重力を失った体が横風に流されながら斜め方向へと落下する。全て折り込み済みだ。ビルに近づくにつれ構造物の輪郭が明瞭になってきた。斜め下に見えるビルのパラペットに照準を合わせる。屋上の水平線と体が交差するまで残り数メートルを切った。


 ――チャンスは一度きり……今!


 ワイヤーガンを両手に構え引き金を絞った。体が水平線を超えたその時、銛がパラペットに掛かるのを確認した。すぐさまワイヤーの回収ボタンを押した。急な落下停止の衝撃に銃把をこぼしそうになるが何とか持ち堪える。体がどんどんビルに引き寄せられていく。計算通り、目標階は目前だ。足裏をビルに向けて衝撃を殺すように着地を決めた。ところが、予想を裏切る反動に銃把から左手が外れてしまい、体勢を維持できなかった両足が地上から約750メートルの空中に投げ出されてしまう。


「グッ……」


 しかしプレアはこの局面を歯を食いしばって右腕一本で辛うじて乗り切る事に成功した。件の男に負わされた腕の傷がじくじくと悲鳴を上げている。どうやら傷口が開いてしまったようだ。プレアは風に煽られながらも、どうにか薄い窓枠のへりに足の爪先を立て、ビルに体を密着させるような体勢をとった。幸いにも雨が小降りになってくれた。腰のポーチからレーザーカッターを取り出し、額に掛けていたゴーグルを下げ、目に装着した。


 ――よし、ここからが本番。


 午後4時29分

 本部ビル地下49階 DANスキャンルーム前(守田側)


 守田は偽造カードなどを駆使して地下48階のセキュリティロックを突破し、目的地に到着していた。時間稼ぎにトイレに行ったあと、スキャンルームに向かい、扉に備え付けられたパネルにルチェアが解読した50桁の暗証番号をせっせと打ち込んでいる。辺りは薄暗く、タッチパネルの光がやけに眩しかった。監視カメラを警戒しながらルチェアと交信をとる。


「ルー、プレアからの連絡はまだか?」


『連絡は依然途絶えたままです』


 左手の腕時計をチラリと見て時間を確認する。


「残り1分を切った。アイツほんとに大丈夫かな」


『そなたがやるべきことはギリギリまで時間を稼ぐことです。あとは姉上を信じましょう』


「もしダメだったら俺はどうなる?」


『今やろうとしていることは銀河史上初の超S級犯罪行為です。待機職員に捕獲された後は法廷で裁かれたのち、天の川銀河の反逆者として死刑が確定するでしょう。無論それは皇族の身である我々とて同じことです』


 時間稼ぎの入力を終え、恐る恐るエンターキーを押した。扉が音もなく左右に開き、光に満たされた先の長い通路が現れた。ここで、身長体重、血圧心電、さらには骨格や歩き方のくせまで徹底的に調べられる事になる。無論メインはDNAだ。この通路を渡るだけでそれらが全てスキャンされ、何もなければ素通りして奥の階段にたどりつけるが、少しでも異変があれば閉じ込められる仕組みになっている。


 あまりの明るさに目を庇いながら、今一度時間を確認した。

 残り10秒。

 守田は深く息を吸い込みルチェアにこう言った。


「ひとつ約束しろ。無事に帰ってこれたら、俺のことをお兄ちゃんと呼んでくれ」


『……著しく意味不明ですが、一度だけなら認めましょう』


 残り5秒。4、3、


 生唾をごくりと飲み下し、通路の先を睨みつけながらこう言った。


「行ってくる。プレアデスの神にでも祈っててくれ」


 1。


 中に入ると同時に扉が閉鎖した。意を決して歩き始める。


 午後4時29分。

 本部ビル150階 サーバールーム前(プレア側)


 プレアが心許ない窓枠に足先を掛け、右手で銃把を握りながら左手に持つレーザーカッターで素早く分厚い窓ガラスに円形状の切り込みを入れていく。時折、雨粒がレーザーに当たってバチッと火花を散らした。


「もっと、もっと早く」


 ところが、作業がはかどりをみせていた矢先、再び悲劇が訪れた。左腕に激痛が走り、カッターを思わず手放してしまったのだ。プレアは自由落下していくカッターを悔しそうに睨みつける。窓ガラスの溶解がまだ三分の一ほど残っていた。時間を確認する。


「残り20秒。後は蹴破るしかない」


 プレアは両腕に紋様を象らせ、しっかりと銃把にしがみついて後ろに大きく跳んだ。戻る力を利用して、溶解途中の窓ガラスに足裏を叩きつける。


「なんとしても間に合わせてみせる!」


 紋様力のお陰で一時的に左腕の痛みは消えていた。蹴り込むたびに窓ガラスに亀裂が入り、それが拡大し、そして4回目でガラスが粉々に砕け散り、破片もろとも中へと転がり込んだ。残り4秒。


 3、


 すぐさま起き上がり、そのままデータが格納されているサーバーの扉をぶち破り、


 2、


 何千とあるインターフェイスの中から瞬時にリペッドのデータを特定して抜き取り、


 1。


 口に挟んでいたインターフェイスを奪って挿入した。


 午後4時30分

 本部ビル地下49階 DANスキャンルーム内(守田側)


 特殊な光線を浴びせられるとか、そういった類のものは一切なかった。白一面で無音の何もない通路をただ守田は歩くだけだった。ルチェアから事前に説明を受けていたが、これほど不気味に感じるとは思ってもみなかった。誰かに見られている方がまだマシに思える。


 歩行する足の裏に、ジュラルミンケースを握りしめた拳の中に、大量の汗が滲み出ているのを守田は知覚していた。プレアの目論見は果たして成功したのだろうか。時間にして10秒ほどだと思うが、守田が時を忘れた頃に人工的なアナウンスが部屋の内部に響き渡る。


『認可番号0213565。保管室の入室を許可します』


 プレアが任務を成功させた証だった。守田は細長い息を吐きだしながら、歩みを止めずルチェアに交信をとった。


「ルー、お前の姉ちゃんにでかしたと伝えてくれ」


『やはり姉上は天の川銀河指折りのエージェントです!』


 通路を渡り切り、くの字に折れた階段を降りるとすぐに保管室が現れた。暗い室内の中央に長方形のガラスケースがぽつねんと立て付けてあるだけで、他は何もない。


 守田は緩んだ気持ちをふたたび引き締め、そこに向かって歩きはじめた。ケースの前で足を止め、ガラス越しに幾何学図形が施された手の平サイズの黄金の円盤を目に入れた。


「おお、スッゲー。貫禄がえげつねぇ。まさに、ザ古代の遺物って感じだ」


 本物の支配の鍵インペリウム・クラウである。


 ジュラルミンケースを床に置き、中身を取り出して本物と対比させてみた。


「あとはコイツとすり替えりゃ、世紀の大泥棒がいっちょ出来上がるってわけか。本物とは似ても似つかねぇシロモンだが、時間だけは稼いでくれよ、偽物ちゃん」


 ガラス面に指紋認証用の手形が映し出された。管理者は以前のままだが、その中身は守田俊雄のデータとすり替わっており、彼の指紋でも問題なく開錠できるようになっている。


「さ、チャチャっと終わらせるとしますか」


 守田は偽装していた手袋を剥ぎ取り、その手形に、ゆっくりと右手を合わせた。

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