姉上、英断を下すならこの時をおいて他にありますまい、直ちに作戦を中止して撤退を!

 午後4時10分(プレア側)


 プレアはホテルのベランダの手摺上に立ち、横から吹き抜ける風に長い金色の髪をなびかせながら、眼下に広がる景色を眺めていた。高所恐怖症の者なら覗き見るだけで気絶してしまうほどの高さである。人や車がまるで微生物のように見えるほどの絶景だ。


 プレアはこれからあらゆる突起物を利用してこのホテルの外壁を登るわけなのだが、問題は隣の銀河警察本部の建物だ。地上180階建ての銀色で円柱系のその建物は、全面鏡張りで突起物といえば窓枠くらいしか存在しない。しかしプレアはそれでも物怖じひとつ顔色ひとつ変えなかった。なぜなら、じいやとこのような修行を何度もしたし、警察学校であらゆる状況を想定しての壁登り訓練をしたことがあるためだ。


 気持ちを引き締め本部ビルに背を向けて飛び上がり、ひとつ上の階のベランダの隙間に掴まって男勝りによじ登りはじめる。


 午後4時10分

 銀河警察本部ビル(守田側)


 本部ビルは、フィリオムラモースから片側四車線の道幅の広い道路を渡ってすぐの所に位置している。


 守田はホテルを出てすぐ右にあるイディア二丁目の交差点を足早に渡って左に曲がり、本部入口前の階段を上がった。そして他の利用者に混じって中へと滑り込んだ。


 玄関を通過する際に虹彩認証が行われたが、何事もなく通過することができた。ルチェアが特殊加工して作ったコンタクトレンズのお陰である。守田が周囲の人に気を配りながら、喉元に仕込まれているインカムに語りかけるようにルチェアと交信をとる。


「今、本部の中に入った。ええと、エレベーターは……」


 レンズのナビゲートがあるとはいえ、守田は気が気でなかった。いくら地球外知的生命体メイドの品とはいえ、電子機器である以上ちゃんと動作しない場合もあるだろうし、なにせ今実行しようとしていることは人生で初めての経験であるためだ。色々不安がることは無理もないことだといえる。


「あれ? おいリペッド、休暇はどうした」


 そこで守田の目の前にある男が現れた。銀河警察巡査官専用の緑を基調とした制服を着た、今の守田と同じ肌の色をした男である。


 氏名コルテ・リーデ ヴェガ人男性 21歳 役職巡査課長。


 これはレンズに映し出された彼のデータである。もちろんこれらのデータと守田の見ている映像はルチェアのラップトップにも映し出されており、ルチェアはおろつく守田を見兼ねて咄嗟にフォローを入れた。


『なにを狼狽えているのですか! 先ほど言い伝えた言葉を可及的速やかに口にするのです! このままだと怪しまれてしまいます! リペッドになり切ったつもりで潰しの利かない独身貴族のつもりで早く!』


 馬鹿正直にも程があるとは正にこのことであり、無視を決め込んですり抜けて行けばよかったものの、その呼びかけに応じて立ち止まってしまったのは守田の義理を重んじる性格が故である。良くも悪くも今回それが仇となってしまったわけだが、とにかく立ち止まってしまった以上、礼には礼を返さなければならない。できるだけ自然に、できる限り手短に、である。


「あったまきたんですっ飛んで帰ってきたッす、独身貴族最高、お見合いなんてバチくそどうでもいいッス、あ、ついでなんで鍵の点検してくるッス!」


 棒読みにならなかっただけマシだがテンションが上がりすぎてしまった感がある。これは明らかにルチェアの伝達方法によるミスであり、コルテ・リーデの青い目が点になっている。


「あ、ああ……そっか。というかお前、ちょっと雰囲気変わった? 背もちょっと大きく……」


「じゃ、じゃー行ってくるッス!」


 後に引くことが出来なかった守田は、そのままのテンションで会話を断ち切り、歩行速度を上げて一目散にエレベーターを目指した。


 もう誰に呼ばれても立ち止まらない。言葉も一切交わしてはならない。


「おいルー! ほんとにあれでよかったのか? 目の色変わってたぞアイツ」


『庶民のくだけた感じの会話を元に作り出した挨拶文だったのですが……まー変声器による声紋はバッチリでしたので、取り分け問題ないでしょう』


「リペッドの言動を元にしたンじゃねえのかよ!」


 エレベーターの前に何とかたどり着き、指紋認証で扉を開けて中に入った。レンズに映し出されたガイダンスに従い、音声によって階数指定を済ませる。


 午後4時16分(プレア側)


 ――あと二階登れば目標地点の150階に到達する。ここまで難なく登ってこれた。順調に行けば余裕を持ってデータを差し替えることが出来る。


 プレアは登る手を一層に速めた。しかしそこで、ひんやりとしたひとつまみの感触が頬を伝わる。よじ登る手を止めて左手でそっとそれに触れてみる。液体であることが確認された。


「雨……」


 改めて見上げると、空はいつの間にか濃い灰色に覆われていた。今にも泣きだしそうな空模様である。反して西の空はまだ明るい。通り雨だ。ポツリ、またポツリと雫が落ちてきて、瞬く間に強風まとう激しい大雨となった。突然の荒天に見舞われるなか、ルチェアの通信が耳を突いた。


『姉上申し訳ございません! この降雨は想定外でした!』


「へいき、今目標地点に到着した」


 瞬間的に濡れ鼠となったプレアは、この部屋に誰もいないことを確認してからベランダに侵入してそう返した。


 ――酷い土砂降り。でも、やらなければいけない。


 決意を改め、腰からワイヤーガンを取り出して手すりを支えに向かいのビルの窓枠に照準を合わせた。濡れそぼった髪を横にかき分け、優れない視界の中で着弾点をある程度絞りこみ、そこに目掛けて引き金を絞った。だが、横殴りの雨風に煽られてしまうのか、いとも簡単にワイヤーが流されてしまう。すぐさまワイヤーの回収ボタンを押した。もう一度銃を構えなおす。次は雨風も計算した上で照準を修正し発射した。しかし今度は濡れた壁面によって銛が弾かれてしまう。


 照準器からいったん目を離した。雨脚は衰えしらずの一方で、すでに5メートル先の景色を見ることさえままならなくなってしまった。これでは照準を合わせることも出来ない。


「このままでは……」


『姉上……惜しむらくは、中止を』


 プレアは頭の中であらゆる手段と可能性の糸をたぐりよせるのに必死だった。


「ダメ、まだ中止じゃない……任務は続行する」


『ですが!』


「ルーちゃん、屋上まで行くにはどれくらいかかるか計算して」


『な、何をするおつもりで』


「いいから早く!」


『わ、わかりました! ……えー、この天候状況を加味した姉上の到達速度を……でました。ここからおよそ9分強といったところです。いかがなさるつもりかは存じませんが、このような悪況下ではいくら指折りエージェントとて任務遂行は叶いません』


 ――間に合わない。でも、やるしかない。


 プレアの額に紋様が浮かび上がる。


『姉上、英断を下すならこの時をおいて他にありますまい、直ちに作戦を中止して撤退を!』


「ダメ、絶対になんとかする。もしもの時はすぐに俊雄を回収して」


『無茶です姉――』


 すぐそこで稲妻が走った。あまりの雨量に通信が途絶える。

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