日本人すべてがこんなゴリラ並みの知能を持ったアホだと……
ひとまず、足元に転がっている小石を、守田は蹴り飛ばしてみた。気の遠くなるほどの間をおいて小さな衝撃音が耳に届く。落ちれば確実に死ぬことをその間が物語っていた。守田は怯えもせず断崖ギリギリの所から身を乗り出して覗き込む須賀理に向かってこう問いかける。
「こりゃあ、とっととウチに帰ってメシ食ってフロ入って歯磨きして寝ろってことだな、違うか須賀理?」
「そこに宿題が抜けるところが君とボクとの埋めがたい差なのだよモルダー捜査官。にしてもどうやって降りるかだよねこれ」
守田は改めて崖下を覗き込んだ。当初は壮大な景色に圧倒されて気づかなかったが、壁面をよく観察すると所々足場にできそうな岩が突き出ていた。また完全な絶壁ではなく、下に向かっていくほど傾斜がついているのが確認できる。
「最初の足場にできそうなあの岩までぱっと見5メートルってとこか。ヒマラヤでフリークライミングかませるようなクソ度胸がねぇ限り無理だな、で、どうすんだ瓶底」
「フッ、もちつけ凡人よ。こんなこともあろうかと、スペシャルアイテムを用意している……ジャン! どう? これで降りられるっしょ」
須賀理が自慢げにリュックから取り出したのはたしかに便利な物ではあった。心もとないポリプロピレン繊維で出来た百円ショップのビニールロープである。この状況に適しているとは決して言い難い代物である。
守田がプレアの肩にそっと手を置き深い溜息をつく。
「プレアよ、お前はいま日本人の中でも極めて稀な人種を目にしている。お前はいずれロシアに帰国する身だ。そのときはくれぐれも日本人すべてがこんなゴリラ並みの知能を持ったアホだと……」
「見たまえ、丈夫で長持ちって書いてある。しかも日本製。お分かりいただけたと思うが、ボクレベルの天才になってくると、所持道具にもこだわりが滲み出るのだよモルダー捜査官」
「バカかお前は、こんなのに命託すバカいねぇっつの! たとえそれ使ってあそこに降りられたとしてもその後どーすンだ、アン!」
「それについては私が補足する」
二人は同時にプレアを見た。彼女は二人の視線をまともに受けて怖気づくも、崖下の足場となりそうな岩を指で差しながら的確に下降ルートを説明した。言うまでもないが、プレアは崖下を観察する際に下降成功率80パーセント以上を叩き出せるルートを五つも割り出していたのだ。
「やけに詳しいじゃねえか。今流行りのスポーツクライミングとかやってンのか?」
「小さい頃……じいやに、教えてもらったの」
銀河警察の特殊諜報員育成課程で、高さ千メートルの絶壁を装備品なしで登りきるという訓練を乗り切り、検定に一発で合格したことは口が裂けても言えない。
「ま、何事も物は試しだ。プレ子の意見は採用するとして、とりあえずロープ縛る所探そ」
「ちょっと待て、試しも何も言われた通りホイホイ出来りゃ世話ねぇっての。だいたい習いごとレベルを信じろってのが無理すぎンだろ」
「それって貴方の感想ですよね? 言い出しっぺのプレ子が先に降りて安全を確かめるって言ってるんだから問題ないっしょ」
「クッ……なぜだか形容し難い怒りが込み上げてくる」
須賀理はそれを聞き流し、プレアに百均ロープを渡してこう言った。
「プレ子捜査官、正式な部員まであと一歩だ。これで口だけじゃないところを我々に見せつけたまえ。期待している」
「はい教官!」
「あほらし。もうとっくに部員だっつーの」
プレアは目を輝かせながら言い渡された任務に早速取り掛かった。洞窟内の岩にロープを括り付け、等間隔に結び目を作り、最初の足場までの実測距離5メートル20センチのところで折り返す。それを二往復させて強度を確かめ、余った分はきちんと須賀理に返し、ロープを持って岩縁に斜めに立った。そしてプレアは何も言わず笑顔のまま飛び降りるように真下へと落下した。一瞬の出来事だったので二人は追いかけるように崖下を見た。無事足場へと到達したプレアが平然としてこちらを見ながら手を振っている。
「い、意外とやるじゃねーかあいつ」
「へぇ〜、案外簡単なんだね。よし、ビビりはほっといて先に降りちゃおっと」
次は須賀理の番だった。守田はカッコイイという理由だけでプレアと同じ降り方をしようとした須賀理を止め、慎重をきたして降りろと説得した。その後10分ほどかけて降り立つことに成功。守田に順番が回ってきた。ロープに切れ目が入っていることに気づくのはもう少し先である。
「おーい早く降りてきなよビビる守田ー。やはは、見て見てプレ子、あいつガチでびびってる」
守田は「緊張感のねえやつ」と悪態をつき、全身でロープを抱きしめるようにしてゆっくりと最初の足場に足をかけた。そこで守田は実感した。須賀理たちがすんなりと降りたように見えたのはまったくの出鱈目だったのである。
ぎち、
ロープを握りしめる手にびっしりと汗がからみ、全身の力が一部分でも欠けていたら滑り落ちてしまうように思えた。死のひと文字が頭をよぎるが、かぶりを振ってかき消し、握りつぶさんとばかりにちいさな結び目に縋った。
ぎちち、
ようやく須賀理たちの手が届きそうなところまで降りてきた。が、守田にとってまだ何十メートルも先に思える話であった。そこで突然、何かがプツンと切れる音が体内に伝わった。見上げるよりも早く一本のロープが落下してきて、握った手元で頼りなく垂れ下がる。
死の影がそこに迫っていた。
須賀理たちもそれに気付き、早く降りてこいと声を上げた。が、そうしたいと願う気持ちと行動が伴わず、あれよという間に二本目と三本目が断ち切れた。
残すはあと一本。
動けば切れる。いや、動かなくても切れる。須賀理たちが飛び降りろと囃し立ててくるがそんなことは絶対に出来ない。
そして誰もが想定していた事が訪れる。
ぷつん。
この瞬間、誰もが声にもならない悲鳴を上げ守田の死を疑わなかった。ところが彼は生きていた。ロープを抱きしめるような状態で地に足をつけ、その場で立ちつくしている。守田は額に無数の汗を垂らしながら彼女たちに引きつった笑顔を見せた。須賀理たちもそれに応え、強張った顔で愛想笑いを浮かべる。
みしり。
安堵できたのは束の間だった。一行の耳に飛び込んできたその音は、疑いの余地なく足場にヒビが入った音であった。三人は身を石にしたままブリキ人形のように下を見た。絶望した。足場となった岩の付け根に致命的ともいえる真横一直線のヒビが入っていた。泣きそうになった。二人は恨みのこもった目で守田を見た。守田は無実を訴えるような顔で静かに首を振った。そして次の瞬間、三人分の重力を支えきれなくなった岩が小気味よい音と共に砕け散り、一行は体重がゼロになる感覚を覚えながら落下を余儀なくされた。しかしプレアはこうなることも予測していた。直ぐに紋様を発動させて二人にこう叫ぶ。
「体を反転させて! 合図したら走るように足を動かして!」
冗談を言ってる場合か、と二人は思ったが、生存本能が彼女の言葉通りの行動を身体に取らせた。プレアが下を見ながらタイミングを合わせる。
「今ッ!」
その言葉が足を動かす合図だった。無茶にもほどがあったが、不思議とすぐにその状況に足が馴染み、八十度近い急斜面を踊るように駆け抜けていく。二人がこの人間離れした超人的なパフォーマンスを繰り出せているのはもちろんプレアのアシストのお陰だ。急斜面を怒涛のごとく走り抜ける。須賀理がプレアの左腕を、守田がプレアの右腕に掴み、叫びながら猛スピードで崖を駆け下る。
「わああああああああああああああああああっ!」
気づくと施設の壁が目前に迫っていた。プレアは傾斜角度が低くなっていくのをいち早く感じ取り、二人にブレーキをかけろと指示を飛ばした。ほうき星のような長い砂ぼこりの煙が斜面に描かれていく。やがて平地が訪れ、慣性を殺しきれないまま施設の壁にぶち当たり、尻もちをついて止まった。一行は何が起こったのか、落下から着地までの流れに、まるで信じられないといった顔で必死になって息を整える。
「ボークらはみーんなー生きているー生きーているから笑うんだー……やはは、誰か今の動画とってない?」
「あんなのベテラン配信者でも撮れっこねぇっての」
須賀理がたまらず笑い声をあげ、プレアがそれに続き、守田が笑いごとじゃねえと言って背中からどっと地面にくたばったが、ある視線に気づいた。施設の窓から一人の兵士にじっと見られていたのである。
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