飛ばない龍はただの蛇だ

木村凌和

飛ばない龍はただの蛇だ

 ほら、あそこです。

 真くらい池の水面を、懐中電灯が丸く切り抜く。池はみどりいろに濁って魚も見えない。水面に浮かぶ葉も多い。身を乗り出すが、そもそもどこまでが地面かも分からなかった。

 眼をこらすと、水面の奥にしろい帯状のものが見えるような気がした。蛇の腹に似ている。

「ああ、あの、蛇のお腹みたいな」

 それです。応える及弥のみの声はどこか柔らかく聞こえた。

「生きては、いないんですよね?」

 ええ。だが今度の返答は素っ気ない。生きてはいないが朽ちない龍の身体。死んでいるのとは違うらしい。世にはばかる保護団体によればそうだ。海に住むほ乳類と同じくらい、この生き物には色々な利害や幻想が入り乱れている。取材目的の『舞』に関する重要な要素ではあるが、記事としては触れたくない題材だった。

「もう飛べませんから。ただの蛇です」

 及弥は冷たく言い放つ。

 地元の者にとってはその程度の存在なのかもしれない。だが、彼女は舞の唯一の後継者だ。それも龍のための舞の。

「これ、どういう記事にするつもりですか」

 取材を始めて、最初の言葉がこれだった。今日の昼のことだ。

 どういうって。実の所、安直にまとめるつもりだった。龍を祀る舞。その最後の継承者。神秘を取り上げてもいいし、地方の文化継承者が減っていることを前面に出してもいい。美しすぎる舞い手、は無礼だろうか。

「おとしめるような書き方はしません。記事は出来上がったら確認していただきますので」

 そうですか。及弥億野のみ はかるのはそれきり口を閉ざした。日本人にしては全体的に色の薄い女性だ。ほっそりとして背が高く、華奢かと思えばそうでもない。二の腕のあたりはがっしりと太そうだし、座り姿も背筋が伸びてぴんとしている。身体と精神の鍛錬が舞の基本なのかもしれない。こういったギャップに観点を置いて記事にするのも面白いかもしれなかった。

 簡単な質問から始めた。少し調べれば分かるようなことから。舞の起源、意味。興亡と衰勢。

 龍は本当にいるんですか。

 とは、聞く勇気が無かった。これが聞きたくて、ここまで苦労して来たと言っても過言ではないのに。

 山間部の奥地。日本にまだこんな場所が残っていたとは、こんな山奥に、人間が住んでいたとは。驚くばかりだった。この集落が世間に知れたときの、報道の加熱ぶりが理解できる。

 舗装された道などひとつもない。どことなく雑草の切れ間になっているような、木の無いような筋を辿ってたどり着く小さな村がここだった。フリーライターだからできる冒険だ。

 夜中にこうして部屋を抜け出し、龍を見に来るなどと馬鹿げた行いもそうだ。池に着いた途端、及弥に声を掛けられて心臓が飛び出るかと思った。

「神聖なものだと聞いていましたが」

 ただの蛇だと言った及弥はじっと動かない。懐中電灯も、池の中の龍を照らしたままだ。

「神聖であることと、私が信仰することは違います」

 それでいいのか。唯一残る舞い手が信仰していない。しかもそれを、たまたま居合わせた外の人間に言ってしまうことも。

「もう信仰している人は残っていません。舞い手がひとりだけになってしまったことが、なによりの証拠です」

 彼女は淡々と続けた。声には悔しさも悲壮さもない。ただの事実だ。とっくに諦めを通り過ぎたらしい。

 意外な事実だった。これは、後継者不足を題材にするのはお門違いだ。もっと調べてから来れば良かった。取材はいつもこうだ。

「それなら、どうして舞を続けるんですか? 無礼に当たるのでは?」

「仲間のために」

 仲間。思わず繰り返した。及弥の声はとたんにかたく、しっかりする。

「新藤さん、今回取材を受けたのはこのためです。明日の舞を、出ていった仲間たちに届けて下さい」

 真っ暗で見えないが、彼女はこちらへ向いたようだ。ああ、なるほど。この話をするために、彼女はここまで追って来ていたのだ。村人は池に近寄らない。人を近寄らせもしない。話を誰にも聞かれない場所というわけだ。

「ええ、まあ、それは、努力はしますが」

 取材をしていると、こういった種の期待を与えてしまうことが多々ある。こちらはただのしがないフリーライターだ。旬を過ぎたネタの取材をしている、無計画な。記事が必ずしも雑誌に載るとは限らない。載ったとして、三流雑誌はそこまで流通もしない。こういったときは約束しないに限る。

「もうこんな山奥まで来る物好きは、あの蛇だか龍だかの保護団体くらいのもので、もうこんな機会なさそうですから」

 言わせたこちらも、言っている本人にも苦しい言葉だ。お互い消去法だった。ほぼ形だけの記者だということは了解済みらしい。

 及弥は稽古場へ案内した。道場然とした板張りの、一間ぶち抜きの建物だ。十人も入れないだろう。所々白くなった床はぎしぎしと軋みをあげる。壁に物掛けだけが連なっていた。

 埃っぽくはない。靴を脱いで歩く感触も、つるつるとして逆に転びそうだ。

 稽古場の端で、及弥が立ち止まる。

「兄弟弟子たちです」

 壁に写真が掛けられていた。額に入った集合写真から、画鋲で留められたスナップ写真まで。掲示板さながらにぎっちり写真で埋まった壁は、懐中電灯に照らされるだけでは薄気味悪い。

 写真はほとんどが色あせている。元から白黒のものもあるようだ。人が三段になっている集合写真などは、現状からは想像できない熱気がその中に封じ込められているようにも見える。

「男性も多いんですね」

 元は男性の役割だったと、及弥は説明した。後継者不足でやむなく、女性を許したと。それを機にいっとき、舞い手は増えたがすぐに減り始めたとも。確かに、一番人数がいる集合写真に映っているのはほとんどが女性だった。

 これだけ人がいたら、この稽古場で一度に入りきることはできなかっただろう。写真の中の稽古場は、開いた戸の向こうにも人の姿が見える。壁の物掛けにも木刀のようなものがずらりと並んでいた。この場を満たしていた熱はどれほどのものだったか。練習に勤しむ彼ら、彼女らの眼はどれも真剣で、ひたと前を見据えている。かつてあった熱、もう冷めてしまった熱だ。床がひんやりと冷たい。

 及弥の映っている写真を見つけた。使い捨てカメラで撮ったらしい。日付は三年前だ。若い男性が三人、女性が二人。皆笑顔だが、集合写真にしてはばらけている。そして日付は現在に近づいてきて、人が一人減り、ふたり減り、二年前にひとりきりになった。

 よくあることだ。部活とか。それでもこれは、ひとりだけ残った当事者にとっては切実な、重要なことでもある。取材で何度も見てきたことでもある。

 翌朝、舞は夜明けと共に始まった。明るい中見る池は、池と呼ぶには大きすぎる。湖かもしれなかった。その水面が全て凍り付いている。冬でもなく、寒くもない。夜のうちは水であった筈の水面がまっしろく固まっていた。じょじょに昇る陽光をしろく反射させている。

 きらり、銀色の切っ先で太陽が輝く。するり、ぬるり、空を滑る剣の刃は、細い腕が操っている。腕を覆う銀色の袖は長く、剣筋を追ってゆるやかにはためく。左右交互に弧を描く剣筋はらせんを描いた。時折舞うのは、剣先が削り取った湖面のかけらだ。

 剣筋が一直線に伸びた。剣の操り手が大きく一歩を跳んだのだ。足音はしない。裸足だ。縦方向へ、くるり宙を回る。高く横方向へ、斜め下へ、銀の筋は鋭い音をたてる。湖面を舐めるような低みをじりじりと進む。

 操り手の顔は銀の衣装に隠されている。細身だがしっかりとした手足は走り跳ね、歩き止まりながら、空を映す凍り付いた湖面を舞う。

 その足下に龍が見えた。そこだけが透けている。

 蛇のように細長い身体がとぐろを巻いていた。その中心の頭には二本の角が生え、長方形の角張った鼻面をしている。絵に描かれた龍そのものだ。すっかり色あせている。くすんだしろ。瞼はしっかり閉じ、そこにはなにがしかの意志を感じる。この龍は死んでいるのだろうか? 生きながらにして、この凍り付いた湖で眠っている。そうではないのか? それは何千、何百年前からなのだろう。この存在が発見されたのだって、この百年のことなのだ。きつく秘密にされてきたこの習わしを、あまりの美しさに漏らした者が出たことによって。

 確かにこのさまはうつくしい。

 空を飛ぶ剣。眠る竜に見せる夢。

 私が信仰していないから、龍は腐らないんでしょう。

 舞を説明した及弥の言葉を思い出す。

 この舞は、龍に空を飛ぶ夢を見させるためのものです。龍の骨を研いで作った剣が、空を裂くのを飛んでいると思わせるんですよ。人の手で池に沈められた龍が、夢でさえ本望を果たしたときあの身体は腐り落ちる。それでやっと、沈めた手をもつ人間たちは解放される。

 舞は続く。剣は空を斬り、風音を立て、舞い手は湖面上を駆け回る。跳ね、投げ、受け取り、回す。

 信じていないから届かないわけではない。信じているから届くわけでもない。

 彼女は龍など信じていない。それでも舞うのは、仲間を信じているからだ。仲間が龍を信じていたから。

 私は舞を続けます。舞の思い出が、私を私にしてくれる。だからどうかそれを、出て行った仲間たちが見てくれるように、記事にしてほしいんです。

 この舞は祈りだ。どうかお引き取り下さい。いいや、まだ離してなどやらない。そういう、祈りの応酬だ。だからこれに自分の祈りを乗せることは間違っている。だが、祈らずにはいられない。どうかこの記事が、彼女の仲間らへ届くようにと。

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