第31話 エピローグにはまだ早い

「ごめんなさい」


 それは完膚なきまでの謝罪だった。綺麗に頭を下げる卯崎に、俺だけでなく謝られた当人である奥沢先輩も驚いて固まってしまった。


「ええっと、卯崎ちゃん? 私、あなたに謝られるような事をされた覚えはないんだけど……」


「いえ、私は奥沢先輩に頭を下げなければならないほどの不義理をしました。……少なくとも、私はそう思っています」


「それってどういう……」


 戸惑う奥沢先輩に対して卯崎は一度軽く息を吸うと、ゆっくりと、罪の告白をするように言葉を並べ始めた。


「奥沢先輩が私たちに依頼を持ってきたとき、私はそれが奥沢先輩の本意でない事に気づいていました。気づいていながら、見て見ぬふりをしたんです。奥沢先輩の恋心を利用したんです。ただ私の私利私欲のためだけに。……それは決して許される事ではありません。許して欲しいとも言いません。ですが、どうかこの謝罪だけは受け取ってください」


 そう言って再び深く頭を下げる卯崎。

 恐らく、これは贖罪なんかじゃない。ここで、卯崎は変わろうとしているのだ。

 今までのやり方で傷つけた奥沢先輩に対して心から謝罪をするという行為が、きっと今までのやり方ではない方法で、先に進むために必要な儀式なのだ。


 頭を下げられた奥沢先輩はというと、しばらく状況に頭が追いついていなかったのか固まったままだったが、やがて動く事無く頭を下げ続ける卯崎に頭を上げて、と優しい声で言った。


 ゆっくりと頭を上げた卯崎に対して、奥沢先輩は同じく優しく言った。


「……分かった。卯崎ちゃんの事は許して上げない」


 奥沢先輩の言葉に俺は驚いて軽く目を見開く。

 奥沢先輩はそんな俺に構う事無く言葉を続ける。


「だから、代わりに罪を償って貰おうと思うの。いい?」


「……ええ、それが奥沢先輩の望みだというのでしたら」


 固い声の卯崎に軽く頷くと、奥沢先輩はその償いの内容を口にした。


「じゃあ、卯崎ちゃんには古木君と一緒に私のお手伝いをして欲しいな」


「……え?」


「私、今のままじゃ勝ち目薄いからさ、卯崎ちゃんも私の事を手伝ってくれたら百人力だと思うんだ。どうかな?」


 そう言って首をかしげる奥沢先輩に卯崎はなにも返せないでいた。驚きで固まっていた。


 何故なら、それは、奥沢先輩の言った償いは、全然償いなんかじゃなかったから。

 奥沢先輩は卯崎に、もう一度やり直すチャンスを与えてくれているのだ。変わるチャンスを与えてくれているのだ。


 それに気づいていたから、卯崎は驚いていたのだ。


「……良いんですか」


「ま、そもそも私が最初にあんな相談をしなければこんなことにはならなかったわけだしね。そう考えたら悪いのはむしろ私の方だし」


「そんなことは……」


 ない、と言おうとした卯崎の口が止まる。それは恐らく、奥沢先輩の眼差しがこれ以上の問答はやめようと柔らかく語りかけていたからだ。


「……分かりました」


 卯崎は、出しかけた言葉を引っ込めて、代わりに奥沢先輩にそう言うと、もう一度ゆっくりと頭を下げた。


「ありがとうございます」


 ***


 帰りの電車はそれほど混んではいなかった。

 卯崎と並んで席に座っていると、ぽつりと、卯崎が言葉を漏らした。


「……先輩は凄いですね」


「急になんだよ」


 急に褒められて胡乱な表情になっている俺を無視して卯崎は続ける。


「先輩はいろんな人を助けて、いろんな人を変えています。自分の事だけで精一杯の私とは全然違います」


「……そんな事ないだろ。俺だって自分の事で精一杯だ。今までの事も、全部俺自身のためにやって来た事だ」


「いいえ、違いますよ。先輩は自分のためと言いながら結局他人のために動いてるんです。奥沢先輩だって先輩のおかげであんなに前向きになりましたし……私もそうです」


 そう言って優しく微笑む卯崎。卯崎がなにを言おうとしているのかいまいち掴めない俺は、黙って続きを促す。


「私はもしかしたら、先輩に今の私を変えて欲しかったのかも知れません。……あの時のように」


「……え、なに、どういうこと? あの時?」


 黙って聞いていたらいきなり知らない情報が飛び込んできたんですけど。


「……やっぱり覚えていなかったんですね」


 呆れ半分、落胆半分の調子で卯崎が言う。「別に言うつもりもなかったから良いんですけど」とどこか拗ねたような様子で呟くと、俺に向かってこう告げた。


「私と先輩が初めて会ったのは、今から一年前くらいです」


「……まじで?」


「まじです」


「……まじかー」


 どうやら俺と卯崎が初めて会ったのはあの学校の屋上ではないらしい。全然覚えてないんだけど。


「夏の夕暮れに、公園で私にアイスをくれました」


「アイス? …………あっ!」


 瞬間、俺の脳内にある記憶がよみがえる。


 あれは今から約一年前。七月の夏休み前の事。いつものように桃と帰っていたら、桃が突然アイスを食べたいと言い出して、じゃんけんの末に俺が遠くのコンビニまで買いに行かされた時の事だ。

 アイスの入ったコンビニ袋を手に持って、通り道の公園を突っ切って桃の元に戻ろうとしていたら、行きの時にはいなかった中学生くらいの女の子が虚ろな瞳でブランコに座っていたのだ。夏で日が短くなっているとはいえすでに太陽は半分沈みかけて暗くなってきていたし、何よりそんな時間帯に自分より年下らしき女の子が帰ろうとする素振りもなくただぼーっとしていたのが気になって、俺は声をかけたのだ。

 その後その女の子と少し言葉を交わして、最後に持っていたアイスを袋ごと押しつけて家に帰らせたのは覚えている。何故ならその後桃に怒られてもう一度アイスを買いに行く羽目になったから……。


 ただ、俺がその時なにを話したかなんて覚えていないし、ましてやその女の子が卯崎桜だったとは思いもよらなかった。


「まあ、あの時は大分暗かったですし、私の顔もよく見えなかったと思うので、仕方が無いですね」


 卯崎が自分を納得させるように言う。


「……すまんが卯崎さんや。その時俺がなんて言っていたのか教えて貰っても?」


「……いやです」


 そう言ってふいとそっぽをむく卯崎。


「だめかー」


 せめて自分が言った事くらいは覚えておこうと思ったんだが……ほら、自分の知らない黒歴史って怖いじゃん?


「先輩がなにを言ったのかは言いませんが」


 そんな事を思っていると、卯崎が再びこちらを向いて、口を開いていた。


「両親が同時にいなくなってどうしたら良いか分からなかった私が、その時の先輩の言葉に救われた事は確かなんです。その時の言葉で私は変われたんです。……ですから」


 そこまで言ってから、卯崎は柔らかく微笑んだ。


「ですから、先輩はあの時から、私にとっての『正義のヒーロー』だったんですよ」


 そう言って、微笑んでくれた。


「……」


 俺はなにも言えなかった。なにを言ったら良いのか分からなかった。


 諦めていたはずの憧れに、諦めた後になってからなれてしまっていて、しかもそれに気づかされたのはたった今。どう反応したら良いのか分からなかった。本当、人生とはままならないものだ。


 ただ、まだ諦めなくても良いんだと言われた気がして、胸の内からこみ上げてくるものをこらえるので精一杯だった。




 ***


 ――もし、これが一つの物語だとしたら。ここで終われば間違いなくハッピーエンドだっただろう。


 ――だがこれは現実だ。終わりは存在しないし、そもそも現実はそんな簡単にハッピーエンドを迎えさせてくれるほど甘くも優しくもないのだ。


 ***




「……お帰りなさい。そして……ただいま、桜」


「…………………………ぁ、え? おかあ、さん? おとう、さん?」

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