「覚え売りの商隊長」


 

 『覚え売りの商隊長』

 



 旧式の、鉄籠のような鈍い色をしたストーブの中で、薪が跳ねる音を聞いていた。

 ぱちぱちと時折響くだけのそれは、しかし不思議と、しんしんとした雨の音を思い出させる。誰かの語る声を遠く聞きながら目を閉じ、椅子を軋ませて一口、とろりと濃い、きつい酒をあおる。雨に自然と脳裏に浮かぶ、もういつのことだったかも思い出せない、若かりし日の思い出。

 急な雨だった。雨具のひとつも持っていなかった――正確には、それ以前の道程で穴をあけたり何だりと使い物にならなくしてしまっていた――から、がちゃがちゃと邪魔な荷物の上から羽織った外套だけが頼りだった。そのたった一枚がぐっしょりと重くなる頃、濡れた前髪の隙間から、暗い夜道にキャラバンを見た。



 キャラバン。

 野盗による略奪や万一の災害等、輸送中のトラブルから商品、商売人自身を守るために、隊長を中心に共同出資して結成される、隊商。規模に差異こそあれ、平地ではラクダ、高地ではラバを主に率いると聞く。当時はさして珍しくもなかったそれだが、そのキャラバンは、異質だった。

 人伝に聞いたことはあったのだ。「見たこともない立派な馬がゆっくりとただ一頭で歩いていたら、蹄を見なさい。もしも蹄鉄をはいていて、それが水晶のように輝くようなら、首を垂れて道をあけなさい。」と。

 ちらちらと目に入る雨粒に邪魔されながら見たのは、泥に汚れることもなく輝く透明な蹄。まさかと辿って上げた視界に入ったのは、自分の身の丈よりもはるかに大きい、影か闇かのような美しい毛並みをした立派な黒馬だった。圧倒され、呆けたようにその馬を、その金に輝く双眸を見上げていた。

 「もし、すみません。」

 その時どこからともなく聞こえた声に、私は肩を跳ねさせた。

 ああ、道をあけなければ。と、どこかで私や誰やも分からぬ声が聞こえると同時、はっとして私は声の主を探した。

 「とても、濡れていますね。旅に支障は出ないのですか。」

 高いところから聞こえた気がしたその声につられて一歩後ずさり視線を上げると、黒馬に騎手がいるならば丁度その辺りだろうと推察される高さに、雨粒の跳ねるのが見えた。ぎょっとした。視界の隅にも、同じように跳ねる白が見えた。慌てて見たのは、ずらりと並ぶ人影だった。姿はまるで見えず、ただ雨粒の跳ねるのに輪郭を縁取られた、大小様々な――とはいえ、私よりは皆立派な身体をしているようだ――人影。

 「……あ、なた、方も、濡れている、でしょうに。」

 やっとのことで絞り出した声は震えていた。見上げる視界は、きっと雨のせいだけではなくぼやけていた。揺れていた。相手のシルエットも自分と同じように、荷物の上に外套一枚。そんなふうに見えた。と、混乱しているくせに妙に冷えた頭からこぼれた言葉だった。

 表情もうかがえない、彼か彼女かも分からない相手が何かを言った気がしたし、黒馬が足踏みをしたのを見た気がした。しかしそれを確認する前に、ぼんやりと重い身体は傾ぎ、揺れていた視界はすべてが幻か残像かのように滲み、尾を引いていった。


 雨音がした。ばたばたと打ち付けるような音。遠くにはざあざあと、何もかもを流していってしまうような音もした。母が死んだ時その身体を攫っていった、谷底の激流を思い出す。


 慌てて母の身体に手を伸ばそうとしたそこで、存外に手が、手を伸ばした先があたたかいことに気づく。目を開けていなかったことに気づく。わずかな光に誘われてゆっくりと開けた視界は、何やらテントのような、薄汚れた空間だった。手の先には何もない。ただ、何かに触れているような感覚と、ほんのりとしたあたたかさだけがある。

 「もうすこしで、芋が炊けますよ。」

 熱に触れていた手のひら、そこから覆われるように手の甲にまであたたかさが広がり、はっとして顔を上げた。相変わらずそこには何も見えなかったが、目が合ったのが分かった。彼は微笑んだ。

 「すみません。あなたはあまり驚かないから、助けてしまいました。」

 話し相手が欲しかったのだと、彼は言う。柔らかい声で、すみません、申し訳ない、と何度も謝っては、困ったように笑う。自分と同じか、すこし上くらいの歳だと思えた。


 「食べ物は僕らにとってはとても貴重なので、ほんとうは、こんな状況になっても助けてはいけないんです。ほら、一人を助けてしまうと、みんなを助けなければいけないでしょう?……そうやっているほどの食べ物はないんです。でも、あなたは僕と会話をしようとしてくれたから、特別に扱う理由ができました。身勝手ですみません。……でも、僕はほんとうに、嬉しい。」

 よかったあ、とはにかむように笑った彼は、炊けた頃でしょうから、と行って、テントの薄い布をめくって、雨の中へ出て行った。なぜ彼は見えないのだろうか。彼以外にいた人影はどこへ、黒馬は。混乱し続けた頭が繰り返すのは、なぜ、どうして、とそればかりで、結局彼が帰ってくるまで、私はその場から微動だにできなかった。

 彼が帰ってきたときはまた布が勝手にめくれ、ゆらゆらと陶製の鍋のようなものが漂ってやってくる、などと見世物小屋も真っ青な光景を目の当たりにしてまた卒倒しそうになった、というのは、余談だろう。


 ほんのりと塩の味、香草の香りのついたふかし芋をゆっくりと咀嚼し、口の渇きを感じて水を飲んでいた間彼はじっと黙っていたが、傍目にも――といっても姿は見えないが――そわそわしているのは明らかで、そんな様子に、私はすこしおかしくなった。


 「何か、話でもしようか。」

 と、こんな簡単な一言でぱっと喜ぶのだから、彼はよほど退屈していたのだろう。私以外の者にも姿が見えていないのかは分からないが、もしそうなら、仕方のないことだ。私など発狂して草原でも駆け回っていることだろう。そんなことを率直に伝えると、彼は大柄な身体をまるめて、からからと愉快そうに笑った。

 「草原はね、幼いころに散々走り回りました。晴れた日は草がとてもいい香りで、踏みしめる土のしっかりした感じがとてもすてきで、青い空なんてそのうちに海に思えてきたりして、今僕が跳ねれば、あそこに飛び込めるんじゃないかって。考えたりして。」

 のんびりと遠い目をして語るそれは青年のものにはとても思えなかったが、そう見えたのも一瞬のことで、今度は一転、まだ見ぬ世界に心を躍らせるような、少年のような顔をした。


 「あなたは、ねえ、海を見たことがありますか。」


 それからはしばらく、私が話をした。

 海は、と問われればその雄大さ、寄せては返す波の力強さ、離れようと耳に残り続ける潮騒の心地よさ、内海と外海で異なる香りのことを語った。私たちが陸からはうかがい知ることのできない命が、そこにたしかに息づいているのだと思えること。漂着物が静かに佇む海辺には、陸、広大な平原で一人雨に打たれるのとはまた違った寂寥感があるのだということも。

 空は、と問われれば、星の話をした。南の船乗りの道標、北の船乗りの道標。北でみる星の並びに馴染むと、南でみるそれが逆立ちをしているように見えること。それから、星にまつわるいくらかの物語も話した。私の好きなのはケンタウロスという半人半馬の怪物の名を冠したもので、これがいっとう明るく、南に行かなければ見られないものなのだというような、くだらないことまで。

 そして問われもしないのに、母のことを話した。先ほど見た夢のせいだろう。家が森の中にあったこと、切り立った崖を駆け下りてケガをした私を、泣きながら叱ったこと。そんな思い出と、それから、母と私は血がつながっていなかったことも。それを聞いた時彼は初めて、相槌以外の声を発した。「それでも、あなたがこうして、母としてその方のことを語るなら、たしかに母でいらしたんですね。」とても穏やかな声だった。

 彼と話す時間は心地よかった。彼はよく笑い、また、目をきらきらと輝かせて話を聞いていた。ころころと変わる表情が面白く、冗談を織り交ぜてみたり、時には、恐ろしげな話をしてみたりもした。いつから、彼の表情や仕草を感じ取っていたのかは定かでない。見えているようにすら感じていたが、しかし今はっと見てみると、やはり彼の姿は見えない。

 そして夜も更けきり、あとは明けるのを待つだけとなったであろう頃には、すっかり、彼が見えないことも、あの黒馬のはいていた不思議な蹄鉄のことも、彼の率いていた隊列のことも、気にならないと言えば嘘になるが、問い詰めてまで、というほどではなくなっていた。ただ、彼は海へ行ったことがないのだろうか。星の知識を伝え聞いたことは。彼の母もまた、見えなかったのだろうか。そんなことがぼんやりと、気になっていた。雨にでも打たれていなければ輪郭すら、そこにいることすら分からない彼は、今までどうしてきたのだろう。


 語り終えた時独特の不思議な、凪の海でも眺めているような穏やかな高揚感に浸って水を飲んでいた。「お話しをするのは、楽しいのですね。」と彼は言った。そして初めて気付いたことだが、私はどうやら、微笑んでいたらしい。「きみが、聞き上手だったからね。」そう笑ってみせると、私の前にあった鍋が、ふわりと浮いた。「帰ってきたら、僕も何か、話をしていいですか。」ぺらりと捲れた出入り口の布。彼を通してみると外はまだ雨だと分かったが、彼の表情が分からなかった。声色は、どこかで何か、大きな決断でもしたように聞こえた。「ああ、もちろんだ。」私が頷くと、彼は鍋を持ち、ゆらゆらと揺らして外へ出たのだろう。けれどやはり、表情がうかがえなかったことが気がかりだった。鍋はすっかり冷え切っていただろうに。戻ってきた彼の座ったところは、濡れて色が変わっていた。

 「きみも、倒れてしまうよ。何か身体を、」

 「いいんです。それより、話を。」

 彼は、あまり話し慣れていないので、つまらないかもしれないんですけど。と、眉を下げて笑った。


 彼が話したのは、おとぎ話のようだった。


 ――その昔。とある小さな村で、数年にわたる凶作があったんです。天候に異常もなくて、疫病が流行っていたわけでもなくて、豊作の年とも何にも変わらないのにその数年、たったひとつの作物もとれなかった。村の人々は、神に頼るほかありませんでした。

 そして、少ない備蓄を供物に必死に祈り続けて数日、とある旅の青年が、村へやってきました。青年に村の状況を話し、もてなすことはできない、と告げると、彼はひどく驚いていましたが、ふと真剣な顔をして考え込み、「それなら、」と、村の長を伴って、村中に点在する雑草や村を外から隔離するように生えていた木々について、この葉は湯通しすれば食べられる、これなら根を焼けばいい、ああこれは生でも食べられる。この木に傷をつけて樹液をとればいいし、この木が落とす小さな実は炒れば美味い。などと、知恵をもたらしていきました。

 村の人々は彼こそが神なのではと感動し、涙する者さえいましたが、そんな彼らが用意した心ばかりの芋や麦を、彼は受け取ろうとはしませんでした。「私は神ではないから、それを捧げるならば、私がここへ来るようにお導きになった、あなた方のほんとうの神に捧げるといい。」と。

 去ってしまった青年を見送り、村人たちは神へ、供物を捧げました。感謝の祈りと共に捧げたそれらはいつになっても腐ることもなく、それはまるで、「私にはこれだけの供物があれば十分だ。」という、神の心遣いのようにも思えました。

 その村はそれから先も一向に作物の実ることのない、不毛の地となってしまいましたが、村人たちは青年に教えられたものを食べて、ずっとそこに住み続けました。住み慣れた土地を離れても、またそこでも作物は実らないかもしれない。そんな不安と葛藤した結果、彼らは、住み慣れた土地で細々と、来年こそは実るかもしれない、と希望を抱きながら生きることに決めたのです。――


 私は、彼に手招きされるままに、あぐらをかいた彼の脚の中におさまるように座った。時折小さく咳き込んでいた彼は、声が出にくくなってしまって、と恥ずかしそうに言って、また、すみません、と眉を下げた。

 「いいさ、気にしないで。君の傍はとてもあたたかいし、ここの方が、よく聞こえる。」

 私がそう言うと、彼ははにかんで礼を言った。ありがとうございます。

 「話には、まだ続きがあって。もう少しかかるので、断られたらどうしようかと、思っていました。」冗談めかした彼は、照れ隠しでもするように、軽く頬をかいた。


 ――さて、どこまで話しましたっけ。……ああ、村人たちが、不毛の土地で生き続けることに決めた、まででしたよね。では、その後のお話です。

 そこで細々とした生活を続けて数代たった日の事です。ひとりの女が、子を産みました。けれどその子をとりあげた産婆は、女が悪魔を産んだのだと、叫びました。

 その子は、誰の目にも見えなかったのです。

 すぐさま村の医者や、長、学者たちが講堂へ集まりました。詳しく母親に聞けば、その子は見えないだけで触れればあたたかいし、服だって着られるし、乳を近づければ吸いつくし、指を握らせれば離さないと言います。見えないだけの、人間の赤子でした。泣き声だって聞こえました。

 医者には原因の見当もつかず、長も、このような子には会ったことがないと匙を投げました。学者連中も頭をひねる中、ひとりの男が言いました。「これは、進化なのではないか。」その場にいた全員が耳を疑いました。男を睨む者や、罵声をあげる者さえいましたが、男は怯むことなく続けます。

 

 「もし、この子が私たちの遺伝子が選んだ進化の結晶ならば、今後産まれる子供の中にも、同じように、見えない子がいるかもしれない。彼らはきっと、光を反射することをやめたのだろう。私たちがここで生きていくうえで、食事は草木に頼るしかない。およそ人間的な生活を送るには、ずいぶんとエネルギーが足りないのだ。だからこの子たちは、光を反射するために使うエネルギーを、生きるために使うことにしたのではないか。」

 

 男の言葉は突飛で、講堂にいた面々の頭を悩ませました。見えないのがこの子ひとりなら、悪魔の子として排除してしまったほうが、村のためになる。皆が安心する。そんな意見も度々ありました。しかし、この男の意見は、結局のところ村の総意となるのです。なぜなら見えない彼が生まれて数日後、長の娘が産んだ子が、また、見えなかったからです。

 長の娘が悪魔の子など、産むはずがないでしょう?

 結局その年に生まれた子の半数は、誰にも見えませんでした。子育ては難航しましたが、どの子も餓えることもなく、一歳の誕生日を迎えることができました。それからというもの、生まれる子供の中でも、“見えない子”はどんどんと増えていきました。見える子を産んでしまった親は、その子が餓死してしまうことを考えて、精神を病むことさえありました。見えない子を産んだ親は、その子が決して餓死しないことを知っていましたから、神の加護だ、と喜びました。


 そして、見えない子の数が50を超えた次の年、村を、ひどい日照りが襲います。

 日照りのために、村に残っていたわずかな草木は枯れ果てました。村に生きていたわずかな大人たち、子供たちも皆死に絶えました。屍は草木と見紛うほどに細く、それが先日まで生きていたのだということすら忘れるような、有様でした。それを超えて生き残ったのは、見えない子供たちだけでした。

 見えない彼らは、幼い頃こそ食事を摂りましたが、15歳前後になると、ぱったりと食事をやめてしまいました。彼らはそれでも生きられたのです。だから彼らは、生き残ったのです。

 生き残った彼らは、村を墓へと変えました。

 道に打ち捨てられた屍を、家の中で苦しみ悶えていたのであろう屍を、すべて丁寧に、埋葬しました。それは彼らへの感謝と、自分たちの命への感謝でした。


 そうして子供たちが少年たちへ、少年たちが青年たちへと変わる月日が流れ、彼らは、どこからか迷い込んだ一頭の黒馬を連れて、旅に出ました。草木を編んだ籠に、自分たちの髪、爪などを煮崩したものを原料に作った、透明な工芸品を携えて。


 彼らは今日も、この大陸のどこかを歩いていることでしょう。

 「客が来ない。」と嘆きながら。――


 話し終えた彼は、「ほんとう、誰にも、見つけてもらえないんですよねえ。」とはにかんだ。それなら私が買おうじゃないか。と言うと、そのはにかみがぱっと驚きに変わり、そして次の瞬間には、至極嬉しそうな、いっそ間の抜けたとでも言えるような笑顔に変わった。

 「すこし、待っていてくださいね!」

 と言ってテントを出て行った彼越しに見ると、空はすっかり夜明けの色をしていた。私はすっかり調子も戻っていたし、彼に続いてテントを出た。また倒れてしまいますよ!と慌てて駆け寄る彼に空を指さし、「これを見ない手はないだろう。」と笑いかけた。早朝、底冷えのする空気はあったが、不思議と寒さは感じなかった。ただ心地よかった。



 その時彼が持ってきたのは、透明な羽飾りだった。私は彼に、櫛を渡した。

 たしかその時、彼は言ったのだ。


 「お代は結構ですから、僕らのキャラバンのことを、色々な人に広めてくれませんか。」


 先ほどまで話していた者の番が終わったのだろう、激しい雨音に似た拍手の音を聞きながら、ぎい、と鳴く木製の椅子から立ち上がる。次は、私が話してもいいかね。

 鮮明に思い出されたその出来事を、彼のはにかみを脳裏に、ゆっくりと語る。


 「私の手に今載っているものが、君たちには見えるかね。」

 今目の前にいる彼らと同じく、ただ一晩を共にしただけの親友の話。

 今もどこかを放浪し、淋しいと嘆いているかもしれない彼らの話を。




―――


2015年10月

 Webアンソロジー企画

  「宿語りのシーガル」寄稿

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