「亜の花」

亜の花

もとは写真だったと思われるコピー資料に写っていたのはシロツメクサの、花かんむり。しかしその名に反して、花は赤かった。いっそ哀れなほどだった。光沢のある、重く暗い色。


錫原がその資料を手にしたのは、事件の捜査開始から約二日経ってのこと。錫原の耳に概要が入ってから一日の半分経とうかという頃だった。急ぎの職務も特になかったために部下たちにも何も告げず、組織の人間としてではなくあくまでも一個人として。という曖昧な免罪符をふりかざしてアポイントメントも取らなかった彼女に飛んだ、元同僚の一喝。

「一時間後にまた来い馬鹿野郎!」

そしてきっかり一時間。ようやく手にしたのが、趣味の悪いオブジェのような写真を載せた件のコピー資料。数年来変わらない冷ややかな目を細め、意図せず不機嫌そうに、数枚にまとめられた資料を精読する。

「進捗は。」平淡で、無感動な声。

「お察しの通り、だよ。」応えるのは、わずかな苛立ちをみせるかたい声。

「マルヒは。」

「否認。知らないの一転張り。」

「こっちに流れてくる見込みは。」

「むしろ引き取ってほしいぐらいだが、お互い残念だったな。」

そう。と、機械的にすら思えるようなリズムを保っていた端的な問答を、一言で打ち切った彼女は、ふと、被害者に目を留める。

「見たことあるだろ、そのガイシャ。」

「身内の、捜索願を出してたかしら。」

「弟のな。」補足した彼の視線と、手元の資料から顔を上げた彼女の視線が、ふと交差する。

「……マルヒ、あとどのくらい引っ張っておけそう?」

「公妨取るのは無理だな。」

「そう。それならそれでいいわ。」

視線とともに、水面下で幾言かが交わされた。そしてそれは、前触れもなくふっと切れる。彼の目の前に差し出された紙束。

「珍しいな。」

「ある程度はうちにもあるから。」

再び交わされる、無音の言葉。

「少しの間よ。色も知れないマルヒと、お喋りでもして楽しんでればいいわ。」背を向けた彼女の、真一文字に引き結ばれた口元。

「……なんでもいいが、早くしろよ。いつまでも腕一本じゃあガイシャが浮かばれねえ。さっさと戻してやらねえと。」溜息を落とした彼の、真摯な言葉。


それ以降言葉はまるでなく、示し合わせたではないが、どちらからともなく歩き出す。二津崎剣は、聴取の最中である気に食わない容疑者の元へ。錫原凉子は、己の手足であり武器であり盾である部下たちの元へ。


「あーもー、僕いつまでここにおらなあかんのん?僕なんも知らへんって、何回言うたら分かってくれんのよお……。」

「少し質問を変える。正直に答えろよ。」

あまりに間抜けな顔をした、向かいに座る、容疑者である男。食えないというのか、それともただ単に適当なだけなのか、彼の聴取を始めてから、二津崎剣は始終、このオーバーなリアクションや言動に苛立たされていた。何度こぼしたかもわからない溜息。

「……うん。ちゃんと答えとったら、出してくれるんやろ?」

先ほどまでの駄々っ子のような態度とは打って変わって、高架下に捨てられた段ボール箱の犬のような目、のつもりなのだろう視線と殊勝な態度で見上げてくる彼は、どこからどう見てもただの一般人。元同僚の彼女のカン、なのか。彼が事件に絡んでいるというその見解は、もしかするとに、第三者にとってはわかには信じがたいものなのかもしれない。ただ、目の前の彼が〈アカ〉なのかもしれない、という疑念は二津崎自身も持っていた。それが彼女の一言で芯を持ったとでも言えばいいのだろうか。

「……赤い髪の男を知ってるか。身体と顔に火傷の痕がある。」彼の表情を、それとなく注視する。わずかな乱れのうかがえた、その後。

「…………思い出したくないわあ。あの子のせいで、僕えらいめに遭うたんやもん……。」うかがえた乱れは、嫌悪感によるものだったのか。そんな風にも思えるような結末だった。

「詳しく聞かせてもらおう。」

「……えええ…。」

それから、ぽつりぽつりと語り始めた彼の話にふと出た、きっつい顔の女刑事と、その部下のようなどんぐり目のかわいい女刑事。心当たりしかないその二人を想像して、思わず舌打ちが出た。

「……そういうことかよ。」



「あっ、リョーコさん。」

「おかえり!リョーコ!!」

帰るなり彼女を出迎えたのは、本来そこにあるはずのない、にぎやかな声。定時の外回りの間に訪れる客人。ティータイム限定の、賑やかし。

「もうそんな時間なの。」溜息を吐き、コーヒーと、甘いカフェオレを淹れて彼らの前に置く。

「リョーコ、何か悩み事?」

すかさず覗き込んでくる、無遠慮で無邪気な瞳。彼の頭にぽんと手を置いて視線を下げさせ、「しばらく来ないで。」と言い置いて、自分のためのコーヒーを持って、デスクに座る。

「……なんでだろう?」

「俺が知るかよ。」

なんやかんやと相変わらずに賑やかで騒がしい彼らの声は、すべて聞こえないことにする。彼らが来ることで部下たちの間の空気が和むのは事実だし、自分がもたらすことのできないその効果を期待して、来訪を黙認していたということもある。

「岡野に謝っといてくれる?しばらく、暇がないかもしれないから。」適当なことを言って流すつもりだったが、その背後にひょっこりと二人が現れたらしい。液晶に落ちた影は雄弁だった。

「やっていいおふざけと悪いおふざけの区別もつかないの、あんたたち。」

一瞬にして冷え切った彼女の目と口調、突きつけられた銃口。何を見た?何も見てないわね?という、無言の圧力。日頃は彼女をからかいたおす、少なくとも錫原はそう感じているのだったが、そんな彼らも、仕事の話となれば対応は変わるらしい。

「そうっすね。余計な仕事はごめんですしね。」

「あっ、そーだギンジロ、帰ったらケーキ焼いて!!」

「……気楽なものね。」


夜の闇に、まばゆい街灯。気の遠くなるほどの距離を隔てた星の光をかすませる喧噪。それらから隠れるように、背の高い建物の間のじっとりと重い闇をすり抜ける、短い赤毛。スキップでもしているような軽快な足取り。言葉を聞き取ることは誰も困難だろうが、ぽろりぽろりとこぼれる鼻歌のような、調子の外れた音。


「♪~♪~~」


寒空の下を跳ね回る彼の肌は薄汚く、半身を爛れた痕に覆われて、タンクトップの裾はふわりと広がる。へその下で結ばれた紐のような平たい布がひらりと舞う。異様にふくらんだズボンは、風をはらんだせいなのか。

彼のうたは誰にも聞かれることなく、ビルの壁に拒まれて、風に攫われ、闇に呑まれた。



―――


2015年4月

 創作異能アンソロジー寄稿

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