第3話
穴に落ちて、顔から床に叩きつけられた。
気絶する程の衝撃だったのに、今はもう痛はない。
右手で鼻をさすり、左手に謎のペンダントを持って、話の続きを聞いた。
「近所の魔道士さんから、翻訳魔法のかけられたペンダントを、一つ買ったんです」
これがさっきの、金貨十五枚ってやつか。
彼女は、話してる内に緊張が解けてきたのか、続けて喋りだした。
「簡単な単語なら伝わると聞いたんですけど、会話も出来るなんて凄いですね! よっぽど腕の良い魔道士さんが作ったか、相性が良かったのでしょうか。あ! あと、血がついた服は脱がしちゃって……」
一気に知らない情報が増えて、頭が混乱してきた。
話を遮ってでも、一番聞ききたい事を聞いておこう。
「待った! それで君は誰? 俺は、元の場所に戻れるの?」
そういえば、という顔をして、彼女は立ったままで姿勢をただす。
「わたしは、魔術師のルクレツィア・リコットと言います。この街よりずっと北の、リコル村の生まれです。ルシィと呼ばれてるので、そう呼んでください!」
ルクレティアと言う名前の魔術師。
それが彼女の自己紹介だった。
元気一杯の自己紹介と、期待を込めて見つめる目から、どうして欲しいかよく分かる。
「えっと、ルシー……さん?」
「ルシィです」
「じゃあルシィ、ここから、来たところに帰れるかな? それと、僕の名前は、高寺サガヤって言います」
高寺サガヤ、男性、日本人。
ネットの情報だけでやれる気になって、妹の為にと思っていた虎の子を、暗号通貨に注ぎ込んでしまった間抜けだ。
損切りも覚悟で売ろうとした時に、突然開いた穴に落ちた。
その穴は彼女が作ったと言うが、にわかには信じ難い。
魔法とかサグレサ国に付き合うよりも、帰れるものならさっさと帰りたいのだが。
直ぐにでも、やらないといけない事がある。
「元のところに、帰れるかな?」
こちらの方が大事な要件だから、もう一度聞いた。
「たぶん、戻れると思いますけど、すぐに帰られます?」
それを早く言ってくれ。
一方通行でもう帰れません、貴方は見知らぬ世界で生きていきましょう、なんて言われたらどうしようかと。
「良かった。今すぐにでも頼む」
「そうですか……それでは、ついてきて下さい」
彼女は少し残念そうだが、見知らぬ男と一緒に居るほうが嫌だろう。
きっと嫌だと思うんだが……そう言えばここまで、医者とこの翻訳ペンダントやらを売った人、それ以外に、誰も出てこない。
この家には、彼女以外は誰も居ないのだろうか。
部屋にあったランプを片手に、彼女はとことこと先導してくれる。
廊下に出ると、幾つも扉があって、邸宅と呼べるほど大きな家だとわかった。
この長い廊下の天井や壁にも、照明器具らしいものは無く、こんな家は見たことない。
本当に、中世にでも迷いこんだのかな。
ここですと彼女が止まったのは、一際立派で大きな扉の前。
右手を上げただけで、音もなく扉が開く。
モーションセンサー? いや、違うんだろうなあ。
そこは、俺の部屋ほどの広さがある一室だった。
四隅には、丸太を一本使った立派な柱が伸びて、アーチ状の天井を支えている。
ここにも本棚と書物が、寝ていた部屋の三倍はあった。
他にも、大きな暖炉とその上に大釜、奥には巨大な骨まで転がり、光る石や謎の木の根、怪しい草の詰まった箱、鋤やくわや斧と言った農具まである。
そして、中央には光を放つ魔法陣が並ぶ。
これを見せられると、彼女が魔術師だと信じる気持ちになってくる。
「この二つ並んだ魔法陣の、こちらが貴方の居た場所に繋がってます」
直径は1メートルくらいかな、もうひとつは更に小さい。
よくこんなの通ったものだ、近頃少し太ったんだけど。
「なら、これをくぐれば?」
「はい、たぶん」
ゆっくりと近づいて、魔法陣に手を置いた。
一見、蛍光塗料のようにも見えるが、LEDライトのように明るい。
厚みもないし、よく見ても何も埋め込んでない。
そっと押してみると、手が吸い込まれた。
腕だけを床の中に突っ込んでいると、凄い違和感と恐怖感すらある。
引き抜いて足からと思ったが、来た時のことを思い出した。
上下が逆転していて、足から行くと、また顔から落ちることになる。
ならば覚悟を決めて、今度は頭からいこう。
慎重に、バランスを崩さぬよう、床にキスする形で顔を近づける。
床と触れそうになって、思わず目をつぶる。
何の感触もないが、思い切って頭を押し込み、そして目を開けると、そこは見慣れたワンルームだった。
このまま這いずり出れば、帰れそうだ。
やった、よかった、心の底から安堵する。
大声で叫びたいが、床から首だけで叫ぶとか安っぽいホラーだ。
床から頭を引っこ抜いて、ルシィの方に振り返った。
色々と言いたい事はあるけど、心配そうに見つめる瞳に文句を言う気が失せた。
「ここから、帰れるみたい」
「ほんとうですか! 良かったぁ!」
君が作ったものじゃないのか……。
「実は、人が魔法陣を使って行き来するなんて、聞いたことも読んだこともなくて、何でこうなったのかもさっぱり分からず、途方に暮れてたんです」
さらっと怖いことを言うなあ……。
色々と惜しい気がするが、帰れなくなっても困るので、今は急ごう。
上半身が裸のままだが、上着は諦めて、ズボンには、何も入れてなかったはず。
首の翻訳ペンダントを外して、ルシィに渡した。
『・・・・・・・・・・・・・・!』
ルシィが何か言ったが、まったく分からなかった。
聞いたこともない不思議な言葉で、本当に翻訳していたんだ。
あのペンダントを量産して持ち帰れるなら、良い値で売れるかもしれないな。
魔法陣の前に膝をついて、体勢を整える。
振り返って、バイバイと手を振ってみると、ルシィも笑顔で振り返してくれた。
この世界にも、バイバイの挨拶はあるのかな。
いくぞ! えいっ!
両腕から魔法陣に飛び込む、頭が通過したとこで腕を広げる。
がっちりと床を掴み、あとは這い出るのみ。
テレビや鏡ならともかく、床の穴から出てくるなんて聞いたことがない。
最後に、よいしょと足を引き抜いて、住み慣れた一室に戻った。
すぐにパソコンを点けたが、もう日付も変わる時間で、暗号通貨の取引所はとっくの昔に閉まっていた。
急激に疲れと眠気が、一緒になってやってきた。
そう言えば血を失って、メシも食ってない。
今は寝よう、やることは明日でいいや……布団を被って、目を閉じた。
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