第179話 記憶のズレ
目を覚ます直人。そして部屋の時計を見る。
時刻は午前6時。遠くから聞こえる小鳥のさえずりが心地よい。
横を見る直人。
眠りに落ちた時には確かにいたはずのアニイはいない。
しかし、耳を澄ませるとバーの方からトンカンと木槌を打つ音が聞こえてきた。
また、マキとアニイの声も同じく聞こえてくる。どうやら彼女らは朝早くから破壊されたバーの修繕を頑張っていたようだ。
「⋯⋯シャワー浴びにいこう」
そんなことを言いながら身をベッドから起こすと、制服に付いた埃をポンポンと掃う直人。見ると彼の制服には黒い煤のようなものが付いている。
これはダンジョンに潜ることで付着するブラックミストの名残だ。見るとベッドのシーツも少し汚れてしまっている。
「洗濯しないとな」
直人はシーツを剥がして掛け布団も回収した後に、それらを持ってバスルームへと向かう。ダンジョン探索から続く昨晩の汚れも落とそうという直人の考えだろう。
相変わらず広々としているバスルームも、ダンジョンによる被害を免れたラッキースポットだ。更衣室で早速服を脱ぐと直人は自動洗濯システムを作動する。これはバスケットに入れた服をそのまま自動で洗浄、乾燥してくれる便利なもので、直人もよくこれを利用していた。
続いて少し大きめのバスケットにシーツと布団を入れると同じように洗濯を始める。
それが終わるまで待つ間、直人は入浴で身を清めることにした。
腰元にタオルを巻き、浴場へと向かう直人。
そして直人は、その足で浴場へと足を踏み入れた。
まさかそこに先客がいるとも知らずに。
「あっ⋯⋯」
湯けむりに隠れる何かを、直人の超人的な視力が捉える。
思えば耳を澄ますと、バスルームの中から先客の存在を知らせる流れる水の音がずっと聞こえていたのだが、それに直人ともあろう者が気付かなかったのは痛恨だった。
昨夜ダンジョンに潜り、その汚れを落とそうと考える人間は他にもいたのである。
艶のある黒髪が床まで伸び、泡を纏った白い肢体を湯が流れ落ちている。
そして上から下へと泡が流されていき、彼女の胸元から何まで露になりつつあるところで、ふとそんな彼女の大きな瞳が音もなく現れた直人の方へと向き⋯⋯
「イヤーーーッ!!」
「申し訳ない!」
飛んできた桶を見事な反射神経で受け止めて退散する直人。
彼は一足早く湯浴びしていた摩耶とブッキングしてしまっていた。
「⋯⋯見ましたか?」
「⋯⋯⋯」
「その⋯⋯あの⋯⋯」
「見てない。俺は神に誓って何も見てないです」
そう言って直人は、バスルームの敷居越しに摩耶にそう話しかける。
そして彼女の湯浴びが終わるまでひたすら待ち続けた。
「もう大丈夫です。入っても⋯⋯」
その摩耶の声を聞いた直人は、恐る恐る再度浴場に行く。
すると摩耶は広大な大浴場の中央にバスタオルで体を覆って身を沈めていた。
「⋯⋯えっ」
だがここで、摩耶はチラッと直人を見てそう呟いた。
そしてまじまじと食い入るように彼女は直人を見つめている。
「どうかしましたか?」
そう尋ねる直人。すると摩耶は感嘆するように言った。
「凄い⋯⋯」
小さくそんなことを言う摩耶と、同時に自分の体を見回す直人。
そして彼は摩耶が驚いた物の正体に気が付いた。
直人の体は誰が見てもそれと分かるほどの頑強な肉体だ。細身で服の上からでは分かりにくいが、アスリートのそれと見比べても勝るほどである。
摩耶は超常的なオーラすら感じさせる直人の肉体に驚いていたのだ。
「体を鍛えるのが趣味なんです」
簡素にそう応える直人は、手早く体を流して微小なブラックミストの名残を落とす。
そして二分もかからず体を洗い終えるとそのまま湯船に浸かった。
「⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯」
お互い、交わす言葉がない。
直人はあまり口を開くタイプではないが、それは摩耶も同様だ。
お互い肩まで温かい湯に浸かり、そしてこれ以上気まずくなることを避けるかのように視線すら合わせない時間が続く。
だが暫くした後、摩耶が口を開いた。
「葉島君は、あの子がDBだって知ってたの?」
あの子とはアニイのことだろう。
「知らなかったです」
嘘である。だが、直人はそう答えた。
すると切り出したことで堰を切ったかのように摩耶の口が動き始めた。
「ずっと気になっていたけど、マキさんって何者なのかしら? S級DBと同居してたり、いろいろな人たちと交流が会ったり、でも私が榊原家の本邸にいた時はそんな人がいるなんて一度も聞いたことがなかった⋯⋯」
「⋯⋯⋯」
黙秘し続ける直人。
恐らく、摩耶は更なる疑問に辿り着いているであろうことを知っていた。
「葉島君⋯⋯貴方は何で今ここにいるの? ご両親は?」
それはダンジョンに飲み込まれる前に二人で話した時の摩耶の気持ちを直人が味わっているかのような構図だった。
すると直人は、ポツリと言う。
「親はいないです。生まれてから一度も見たことすらない」
「ごめんなさい。もしかして聞いちゃいけないことを⋯⋯」
「いいですよ。俺も榊原さんにいろいろ聞きましたから」
天井を見上げる直人。
「マキさんの過去は僕の口から詳しくは言えません。ただ一つ言うと、あの人は榊原さんと同じで、過去に家族に捨てられた過去があるんです」
摩耶の大きな目が、僅かに開かれる。
動揺からだろうか。少しだけ魔力の放出も起きた。
「だから、あの人は苗字を名乗らないんです。もう家族に未練はないから、きっと関わることも今後ないと割り切って今を生きているんです。でも、榊原さんにはそうなって欲しくない。だからマキさんは榊原さんを受け入れたんだと思います」
すると、ここで更衣室からピピピッと音が聞こえてきた。
制服の洗濯と乾燥が終わったサインだ。
「俺が言えることはそれだけです」
そしてザバッと音を立てて、烏の行水のように湯船から出る直人。
直人はそれ以上は口を開かなかった。ガラリと入り口のドアを開けて外に出ると、摩耶より一足早く去っていく。
「⋯⋯そんなこと言われても」
そんな中、ポツリと摩耶がそんなことを口にした。
「⋯⋯どうしたらいいかなんてまだ分からないです」
うう⋯と目を瞑って考え込む摩耶。
彼女はまだ今の現状を打開する術を思いついていないのだ。
むしろもう少し気がまぎれるまで直人と話したかった、彼女の率直な気持ちはそんなものだった。
「⋯⋯もっと話せたら良かったのに」
カラカラと更衣室の入り口が閉まる音が聞こえる。
きっと直人が更衣室を去った音だろう。
「もっと葉島君のことも聞いてみたかったのに⋯⋯」
摩耶がずっと家の話をしたがらなかったように、直人もまた自身の過去の話をしたがらない。それには何か深い理由があるのだろうか。
しかし直人の過去に関する謎は、マキから感じるそれよりも遥かに強いアンタッチャブルのオーラがあるのを摩耶は直感的に感じていた。
きっといくら聞いても彼は口を開いてはくれないだろう。そう思えるほどに。
そして長く時間が過ぎ、身も暖まってきた摩耶は静かに湯船から立ち上がると、浴場を後にした。
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「二人共行ってらっしゃい。寄り道するんじゃないよ」
カンカンとトンカチの心地よい音が響く。
破壊されたバーの修理に精を出しているマキと、そのお手伝いをしているアニイに見送られて直人と摩耶は彼らの住むフォールナイトを後にした。
なおアニイは二人並んで登校する様子を見て『手出したら殺す』と去り際に誰かに向けてボソッと言っていたのはここだけの話である。
そして直人と摩耶は表に出ると、直人は学校に向けて歩き出す。
なお摩耶はレベル5専用校舎までの直通バスに乗るため、一度直人がいる一般校舎に向かっていた。
だが暫く歩いたところで、ふと声が聞こえてきた。
「貴方は学校に行けないのですわ! だからいい加減諦めなさい!」
その甲高い声は、直人も摩耶も聞き覚えのあるものだ。
特に摩耶はそれを聞いてピクッと明確に反応する。
「そんなこと言わないでさ、僕も君が通っている学校に行きたいんだよ」
「もう⋯⋯翔太郎! 早くアレクを連れていきなさい!」
すると今度は直人がピクッと反応する。
そして朝一からやかましくしている3人の人影が現れた。
「あれは⋯⋯凜?」
現れたのは、同様に登校中とみられる櫟原凜と、赤城原翔太郎。
そしてその二人と一緒には何故かアレクの姿があった。
「突然家に来て『暫く泊めてほしい』と言ってきたと思えば⋯⋯!」
「でもその代わりに、僕は君のボディーガードをすると約束したじゃないか。ならどんな時でも守れるように、君の傍にいないといけないよ」
「学校は安全だからいいのですわ! ほら、分かったら早く行きなさい!」
どうやら、アレクは凛の家に居候していたらしい。
一体どんな経緯で彼らが出会ったのか皆目見当がつかない直人と摩耶だったが、散々揉めた末に翔太郎がアレクをズルズルと引っ張って何処かへと連れて行き、そして凜は櫟原家の車に乗り込んで専用校舎へと向かって行った。
「さっきの人、もしかして昨日の夜にダンジョンに来た⋯⋯!」
「あの人は騎士王です。きっとアニイを監視するためにここに来てるんですよ」
「でも何で騎士王と凜が⋯⋯??」
それは直人も分からなかった。
恐らく彼らは何らかの縁で繋がる機会があったのだろうと考える直人。
しかしここで、アレクが直人たちに気が付いた。
すると後ろからホールドして引っ張っていた翔太郎の手を、まるで赤子の手を捻るようにあっさりと振りほどいてこちらにやってくる。
「君、可愛いね。名前は何て言うの?」
「えっ?」
アレクは摩耶にそう尋ねた。
そして摩耶はそれに対して困惑の表情を浮かべる。
「あれ? もしかして発音が悪かったかな? ええと、き、み⋯⋯」
そんな風に一音一音発音し始めるアレク。
しかし摩耶が困惑していたのはそこではない。
「もしかして、昨日のこと覚えてませんか⋯⋯?」
「昨日のこと? もしかして君と僕は一度会ったことがあったのかい?」
「ダンジョンの中で、会ったのを覚えていませんか?」
「昨日の僕はずっと映画を見ていたよ。それにこの僕が、レディーの顔を忘れるなんて絶対に起こりえないことさ」
その言葉は根拠はないが謎の説得力がある。
するとアレクは摩耶にアプローチをかけ始めた。
「今日、僕は夜にある人と戦う約束をしているんだ。もし君が応援に来てくれれば力がいつも以上に出せる気がするんだけど、応援に来てくれないかな? そして、それが終わったら一緒に食事に行こう。一昨日、美味しいレストランを見つけたんだ。ブルー・オーシャンっていうお店なんだけど、良ければそこで僕とディナーを楽しまないかい?」
それを聞く摩耶は困惑を通り越して恐怖の色すら映っている。
アレクが口にした内容は、ダンジョンで言われたそれと限りなく酷似していた。
「今日の夜8時にマーシャルアーツ・パークに来てほしい。君を待ってるよ」
そう言ってアレクは上機嫌に去っていく。
なお直人には一度も視線を合わせることすらなかった。
そして置いていかれた翔太郎は、そんなアレクのことを憎々し気に見ている。
恐らくアレクが言うことを聞いてくれないことに対する苛立ちだろう。だが同時に顔を会わせたくなかった人間二人と会ってしまったことの苛立ちもあるはずだ。
翔太郎は、直人、そして摩耶を一睨みする。
すると摩耶は彼のことを知っていたからか翔太郎に何か言おうと一瞬口を開きかけたが、それよりも早く翔太郎は踵を返すと去ってしまった。
(⋯⋯まさか、俺のことも覚えていないのか?)
直人は確かに『昨日はずっと映画を見ていた』というアレクの言葉を聞いた。
そしてダンジョンのこともアレクは覚えていない。
いやそもそも彼は覚えているかいないか以前に、存在自体を把握していなかった。
なら、二人がダンジョンで出会ったアレクとは誰なのか。
彼は間違いなくアレクで、見た目も声も全く同じだったはずだ。
「一体どうなってるの?」
そう摩耶が口にするのも無理はない。
直人も同様にそれがおかしいことを理解して首を捻る。
こんなことが起こるとするなら、それはアレクが二人いるか、アレクが数時間前のことも忘れてしまう様な鳥頭かのどちらかしかない。そして恐らく後者はない。
「きっと、スピリチュアル的な何かが原因で忘れてるんですよ」
そんなことを言って再び学校に向けて歩き出す直人。
だがそう語る直人もまたある一つのことを忘れていた。
今日の夜8時。アレクはそこで雌雄を決する試合に臨む予定になっている。
しかし、その戦いは行われないことをアレクはまだ知らない。
何故なら当の対戦相手は既に、そのことを完全に忘れてしまっていた。
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