第178話 脱出
ガラガラとダンジョンの壁が崩れ落ちる。そして瓦礫のように剥がれ落ちた固い壁の破片は黒い霧となって空中に消えていく。
そしてダンジョンに一人、アニイは取り残されていた。
「⋯⋯いじわる」
ポツリとそう呟くと、その場で体育座りして蹲ってしまうアニイ。
去り際のアレクのあの目は、アニイを友好の友として認識していたそれとは明らかに違い、紛れもなくアニイを『敵』として認識するものだった。
だがアニイはそれを幾度となく見ている。
彼女の長い記憶の中で人間から向けられた視線の多くは、むじろアレクのような視線が殆どだったのだから。
だから、アニイはアレクに対しても怒りや失望の念は覚えなかった。
するとここで、コツコツと乾いた足音が聞こえてきた。
「一足遅れたか」
アニイ一人残されたダンジョンの奥底に現れたのは直人だ。
手には必要の無くなった刀が握られ、まるでバトンのようにクルクルと片手で回しながら直人はアニイに近づいていく。
「直人お⋯⋯」
するとアニイは立ち上がると直人に抱きついた。
ギュッと直人の手を握るアニイ。自身の骨身がアニイのパワーにギシギシと嫌な音を立てているのを感じた直人は、落ちつかせるようにアニイの頭を撫でた。
「置いていかれたのか? マキさんに、いや、きっと⋯⋯」
直人は脳裏で瞬時に考え、そしてここで起きたであろうことを推察する。
きっとマキと摩耶はアレクにここから連れ出されたのだろう。そしてアレクはアニイをここに置いていってしまった。その理由は、恐らく彼がアニイを救助すべき存在だと認識していなかったからに違いない。
それは彼が騎士王としてDBに情けをかけられなかったからなのか、はたまた別の理由があるのか。そこまでは直人も分からなかった。
「⋯⋯帰ろう。アレクのことは気にするな」
直人は抱きついているアニイを抱えると、アニイの腕を自身の首元に寄せる。
そして彼女の足と腰元に手を置くと、そのまま抱っこした。
「⋯⋯直人」
「どうした?」
「アニイ、もう月に帰りたくない」
そしてアニイはコトンと直人の肩に頭を預けた。
だがその言葉に直人は何と言うべきか、直人は迷った。
「一人でずっといるのは嫌なの。アニイ、もっと自由に生きたい」
直人はそれが叶わぬ話であることを知っていた。
アニイの魔力はあまりにも強力で地球環境に悪影響を与えてしまう。その影響を最小限にするために彼女は月に隔離されていたのだから。それに彼女は本来排除されるはずのものを、特例で生かしている状態だ。今のアニイに今以上の自由が与えられる可能性は皆無だということも直人は理解していた。
「⋯⋯いつか、それが叶う日が来る。だからそれまで待つんだ」
宥めるように、直人はそう言うしかなかった。
ダンジョンはすでに半壊状態になっている。あと3分もしない内にダンジョンを形成していたブラックミストは完全に消滅し、そしてダンジョンは消えるだろう。
「戻るぞ。俺たちのフォールナイトに」
そして、直人は今度は壁を立ったまま上に向かって高速で走り始めた。
直人が後にした場所から、壁がどんどん崩壊していく。重力に逆らい、壁を猛スピードで疾走する直人はダンジョンの奥から中盤、そして入口へと向かって行く。
ここで直人は自分の首元にあるアニイの腕の力が僅かに強くなった。
彼女は直人の胸元に顔を埋めている。吹き付ける向かい風で、アニイのサラサラした紫の髪の毛が直人の顔を撫でるのを、少しばかりのこそばゆさと共に直人は感じた。
「直人⋯⋯ずっと一緒にいて⋯⋯」
蚊の鳴くような小さな声でそう呟くアニイの声は確かに直人の耳に入った。
だが直人は、その声に返答は返さなかった。
いや、返せなかったという方が正確かもしれない。
そして直人の目の前に近づいてくるのは、ダンジョンの出口。
奥深いダンジョンから脱出する時が来たことを直人は悟った。
迫るのは、暗闇に慣れた目には眩しすぎるほどの外の光。
壁を走り抜け、そして直人はダンジョンの外へと大きく跳躍した。
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「おかえり。ギリギリのご到着だったね」
直人は木の香りがする床に思わず倒れ込んだ。
貴重な酒の数々が並んでいたはずの棚はダンジョンに吸い込まれ、シックな雰囲気だったはずのバーは天井が吹き飛んで半壊状態の惨状だ。
だがそれでも直人は、自分がダンジョンの外から出られたことに安堵する。
ダンジョンがあったはずの場所はまるで巨大なアリの巣のようにぽっかりと巨大な穴が空いている。これはダンジョンがあったことを示す名残だ。
だが不思議なことにこの穴は放置しておくだけですぐに塞がってしまう。なので入り口に蓋をしておくだけで応急処置としては十分だった。
「マキさん。何でアニイを置いていったんですか?」
しかし直人は直ぐに起き上がるとマキにそう言った。
直人のその声には怒気に近い感情があり、それをマキも感じたのだろう。
「⋯⋯ごめん。アレクを止められなかったアタシに責任があるのも分かってるよ」
そんなマキの足元にはどこから持って来たのか、救助用のロープが置いてある。
もしダンジョンが消えてもなおアニイと直人が出てこなかったら、危険を承知でマキはもう一度穴の中に入るつもりだったのだろう。
「アレクは? どこにいるんですか?」
「帰ったよ。アタシが引き留めようとしても無駄だったさね。どこに行ったのかはアタシも分からない」
半壊状態になっているバーに残っている数少ない椅子に腰かけるマキ。
時間は深夜。彼らの頭上には天井が崩壊したことによって露になった満点の星空が広がり、束の間の絶景を見せている。
「⋯⋯建物の修理代、どこのどいつが払ってくれるんだろうねえ」
そう言いながら、生き残っていたウィスキーのボトルを開けようとするマキ。
だがマキはここで一度手を止めると直人に言った。
「捕獲したA級は、アタシの
「A級を捕まえた!?」
「そうか直人は知らないんだったね。あのダンジョンの主は、倒さずにウチのペットにする予定だからそのつもりでよろしく」
「待ってください。いくらなんでもそれは⋯⋯」
「直人が言いたいことも分かるさね。でも疑うなら見てもらえれば分かるだろうさ。ちょっと来ておくれよ」
マキの研究部屋は、ダンジョンの発生にも傷一つ付くことなくまるでその一帯だけバリアで守られていたかのように完璧な状態で残っていた。
彼女の研究が外部に漏れないよう強固に設計されていたのが功を奏したのだろう。
そしてマキは直人をその中に案内する。
するとそこには、透明なガラスのケージの中にキューキューと鳴く小型動物がいた。
「紹介するよ。この子がコロちゃんさ」
「これが⋯⋯A級!?」
「アタシが作ったDB捕獲装置なんだけどね、ちょっと不完全な所があったみたいなんだよ。捕獲自体は出来たんだけど、まさかあのデカい猛獣がこんなことになるなんて、やってみれば面白いことが起こるモンだよ」
呑気にそう言いながらマキは、猫じゃらしを持つとケージの中にいるコロの目の前でそれを振った。
すると小型化したコロは、それを前足で掴もうとしながらぴょんぴょん跳ねている。
「アタシらが会った時は何メートルもあるデカい猛獣だったんだけど、箱に押し込んだ時にこんなに小さくなって、そのまま戻らなくなっちゃったのさ。今のコロはジャガーじゃなくて、子猫って感じだねえ」
コロはポケットサイズくらいの大きさになっていて、まるで赤ん坊のように幼い顔立ちになっている。とても先程までA級DBだったとは思えないほどだ。
「コロの生態にも興味があるし、一先ずアタシに預からせておくれよ。バーは、おいおい直していくとするかね。それまでは休業かな」
ふと研究室に置いてある時計に目を向けるマキ。
時刻は午前4時過ぎだ。
すると、ここでマキは店の表に少しだけ目を向ける。
直人も同様に人の気配を感じ取る。
どうやらようやくダンジョンの発生を知ったDH達がやって来たようだ。
「DHの皆さんがお越しになったようだね。さてと、アイツらへの言い訳はアタシに任せて直人は宿舎で寝て来な。こんなことがあっても、ちゃんと朝になったら学校には行ってもらうんだからさ」
そう言って、マキは扉を開けると店の表に出ていった。
直人はマキの研究室の奥に持っていた刀を置くと、自室に向かう。
そして自室に戻るとそのまま直人はベッドに横になった。
「⋯⋯ん?」
しかしここで、ベッドの中に妙な感触を覚えた直人は掛け布団を捲る。
するとそこには、直人より一足早く寝付いていたアニイがいた。
「⋯⋯⋯」
何も言わず、スヤスヤと穏やかに眠るアニイを見つめる直人。
もし真実を伝えられなければ、アニイはただの可愛らしいティーンエージャーにしか見えないだろう。
「直人お⋯⋯ダメだよこんなところで⋯⋯」
寝言だろうか、そんなことを言っているアニイ。
一体彼女はどんな夢を見ているのだろうか。
「いつまで、人間のふりをしていられるか⋯⋯」
ポツリと直人はふとそんな言葉を口にした。
その言葉はアレクにダンジョンでかけられた言葉だ。
アニイは人間ではなくDB。そしてアレクにとっては倒すべき相手。
しかし力での勝負を望んでいるはずの彼が、まるでアニイを策に嵌めるようなことを口にしたことに直人は強い違和感を抱いていた。
(⋯⋯これ以上気にしても仕方ないか)
誰が厄石を送ったのかは、マキがすぐに分析して明らかにするだろう。
何より今は、それ以上考えても結論が出る気がしなかった。
腕を組み、ベッドの横で上体を起こした状態で僅かに首を下に傾ける直人。
そして目を閉じ、全身の力を抜いていく。
今は体力回復に専念することを選んだ直人。
そしてすぐに横のアニイ同様に、彼は穏やかな寝息を立て始めた。
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