第158話 父の過去
深夜、夜が深くなった時間。
その一室にて目をぱっちりと開けて夜の街の景色を眺める人影が一人。
「胸騒ぎがする」
そう呟くのは、暗闇の中で立つ少年。
その手には黒の日本刀が握られている。
葉島直人。彼には長年の戦いの中で培った第六感があった。
虫の知らせのように、自分の胸中を何かが搔きむしるような感覚。
それはいつも決まって何か重大な危機が迫る時に感じる感覚だった。
そんな時にはいつも、彼は自分の愛刀を手に取る。今まで数多の危機を潜り抜け、邪悪を葬り去って来たこの愛刀こそ自分の信じられる唯一無二の相棒だからだ。
その時、直人の端末が赤い警告画面と共に発光した。
自分の第六感の予兆がまたも的中したことをすぐに理解する直人。
「⋯⋯⋯」
直人の端末が受信したのは、緊急事態発生を知らせる救命ブザーの電波。
画面には、ホテルからそう離れていない場所に存在するビルの座標が示されている。
そして発信源が自分が素性を偽ってブザーを渡したあの少女であろうことを、直人は既に理解していた。
刀を手に取り、足を踏み出そうとする直人。
しかしここで思わぬ事態が起きた。
「⋯⋯スーツがない」
直人がもう一つの顔に変身するには、あの強化スーツが必要だ。
体の身を護るのは自身のマトイがあればどうとでもなる。だが彼自身の素性を隠すのは、あのスーツが無ければ難しい。
と、その時である。
ホテルの部屋目掛けて何かが近づいてくるのを気配で感じた直人。
直人は窓に近づくと、鍵を解除して窓を開けた。
すると待ってましたとばかりに、空から砲弾のようにコンパクトな形に変形された対DB用強化スーツが飛んできた。小型ジェットブースターを推進力として夜の空を飛んできたそれを送ってきたのは恐らくマキだろう。
直径50センチ、長さは1.5 メートルほどの筒のようなそれを見下ろした直人は、その中央にある赤いボタンを押した。
『飛行モード解除、戦闘モードへ移行します』
するとスーツは、その場で見る見るうちに変形していく。
腕、足、そして胴体とさながらキリングマシーンを想起させるような黒染めのパワードスーツが自動で組み立てられていく。
余計なパーツは無く、細身で忍者を思わせるようなスマートボディ。それでいて強度はA級DBの牙をも跳ね返す強靭さと、耐熱、防音、ブースターによる加速装置まで搭載された専用スーツ。マキが技術の真髄を凝縮して作り上げた至高の逸品。
それらは全てこの男、葉島直人のポテンシャルを引き出すためのものだった。
直人はそのスーツに手を当てる。すると所有者の存在をスーツも感じたのか、まるでスーツそのものが生きているかのようにパーツが自動で直人の体を包んでいく。
そしてその全てが直人の体を覆ったその瞬間に、一人の怪物が誕生した。
身長は長身へと変貌し、感覚が極限まで研ぎ澄まされる。
五大体術の一つ、サグリの感覚が極まったことで全ての人の気配はこの男の前には僅かな呼吸すら手に取るように鋭敏に感じられる。
また全ての幻術はハライによって無効化され、マトイは万物を圧倒する。
黒刀を手に帯びる。
まるで刀も真の姿を見せた主との再会を喜んでいるように思えた。
『往くぞ』
ドンッ!という鈍い音は彼が上空100メートルのホテルの一室から飛び降りる音。
そして重力を超える彼の疾走は、彼がホテルの地面に垂直の壁を平然と走り下ることを許した。
だが人智を越えたその一連の行動も、彼にとっては何ら特別なことではない。
そして男は、遠く見える目的地のビルを確かに目で捉える。
最強のDH、臥龍が遂に始動した。
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ザラキエルの全身が、氷塊に包まれた。
もし常人なら体中の血管が凍り付き、氷の氷像のような状態になってしまうだろう。
そして二度と動くことなくそのまま死亡してしまうはずだ。
が、すぐに表面を覆う氷は粉砕された。
ジャンヌの異能力で凍らされたはずのザラキエル。
しかしその攻撃は足止めにもならなかった。
その瞬間、ザラキエルは動いた。
いや果たしてそれを二人は気づいたのだろうか。
何故ならザラキエルが動いたことを、目の前にいる二人は目で追うことすら出来なかったのだから。
ジャンヌと炎龍風、二人の体が吹き飛ばされる。
それが目の前のザラキエルの魔力による風圧であるとは、認識する間もなかった。
そして倒れ伏す二人。だがすぐに二人共に立ち上がる。しかしそれも彼らが身を護るマトイを体得していたからその程度で済んでいるに過ぎない。もし、無防備に魔力の風を受けていれば、邪悪な魔力によって体が爆散していただろう。
『強い⋯⋯何だこのガキは』
焔麒麟を握り締める炎龍風。
銃口をザラキエルに向け、彼は異能を発動した。
『中炎!!』
爆炎が焔麒麟から放たれる。
しかしそれを見たザラキエルに動揺は全く見られない。
むしろ見慣れない異能を楽しむような様子だ。
右手を前に突き出す。
そしてザラキエルは炎を真正面から受け止めた。
「冷えた体にストーブは最高だね♡」
ギリッと炎龍風の歯が噛みしめられる。
それは自分の炎が目の前の怪物にまるで通用していないことを目の当たりにしたからか。
『貴様何者だ。一体何処で生まれ、何処でそれほどの力を手に入れた?』
だがそれには何も応えないザラキエル。
彼女はニヤッと笑うと二人に言った。
「でも二人共、”素質”は悪くないね♡ ねえ、二人共ウチの組織に来ない?」
それを聞いた炎龍風とジャンヌ。
ザラキエルは爆炎に包まれ、喪服のような黒染めの服の裾がヒラヒラと揺れている。
それがまるで彼女を怪物たらしめる演出にすら感じられた。
「君たちならすぐに”開花”すると思うよ♡ そしたらすぐにアタシたちの見ている景色も、他の人間の弱さもぜーんぶ分かるようになるから」
するとジャンヌはザラキエルに言う。
「笑わせないで。誰が貴方なんかに付いていくものですか」
するとジャンヌは部屋の隅にいる椿に視線を送った。
椿は先程からピクリとも動かない。腹部はザラキエルの貫手で貫かれ、失血は多量。
彼女が命の危機に瀕しているのは明白だった。
だが椿に治癒異能を掛けに行く時間も余裕もなかった。
もし一瞬でもザラキエルに背を向ければ命はない。そう思わせるほどザラキエルから発せられる強さの鼓動は強烈だったのだ。
すると、ザラキエルの笑みを浮かべる表情に一瞬だけ影がよぎった。
「面白いことを言うねジャンヌ。まるでアタシたちが化物みたいな言い方じゃん」
「違うの? 私の知る人間は、人を簡単に刺し貫くことなんて出来ないわ」
だがここで、後ろから炎龍風がジャンヌに言う。
『あまりアレと話しすぎるな。相手の術中に嵌るぞ』
しかし、ジャンヌは彼の言葉を無視して続ける。
「私のパパは何処? 私の愛するパパを何処にやったの!?」
と、その時だった。
突然ザラキエルはクスっと笑うと、肩を震わせる。
「愛するパパ? へえ、もしかしてジャンヌは知らないんだ?」
それは、まるでジャンヌを無知を笑うかのようなザラキエルの行動だった。
押し殺すように、それでいて憐れむような黒い笑いはそれを向けられるジャンヌの心の中に黒い影を落としていく。
「じゃあ⋯⋯教えちゃおっかな♡」
ザラキエルの口角が上がる。
そして彼女は言った。
「君の愛するドン・ファーザーはね、昔はアタシたちと同じ組織の一員だったの♡
一緒に沢山悪いことをしたし、だから今も世界中でお尋ね者でしょ?」
一瞬、ジャンヌの顔が引きつる。
ジャンヌはその事実を知らなかった。
ドン・ファーザーはジャンヌに、自分の過去を殆ど話さなかったからだ。
「⋯⋯それでも、今は貴方達の仲間じゃないんでしょ。それにパパはDBに襲われていた私を助けてくれた命の恩人なの!」
その時だった。
いよいよ我慢できないとばかりにプッと吹きだすと、ザラキエルは突然腹を抱えて笑い出した。
「命の恩人? バッカみたい! アイツが!? 君の本当のお父さんとお母さんを殺した犯人のアイツが、命の恩人!?」
時間が停止したような、そんな錯覚をジャンヌは感じていた。
ドン・ファーザーが自分の父と母を殺した張本人。彼女はそう言ったのだ。
だがすぐに我に返るとザラキエルに言い返す。
「私は確かにDBがパパとママを消したのを見たの! 嘘を言わないで!」
すると、ザラキエルは言った。
不敵な笑みを浮かべながら。
「じゃあ、そのDBを操っていたのがドン・ファーザーだってことを知ってるの?」
ジャンヌの表情が凍り付く。
「アイツは組織の力を借りて、どんな人間の異能でもコピーできる力を手に入れた。
そしてアイツはいろんな人から異能をコピーして奪ったけど、その中には『DBを操る異能』も入ってたのよ♡」
絶句するジャンヌ。
そんなの嘘だと言いたい。ザラキエルの言葉を遮りたい。
だが何故か、彼女の口からはそれが出てこなかった。
「そしてアイツは組織に命じられて、組織の仲間の一人を捕まえていた君のパパとママをDBを使って始末したの♡ 君のパパとママはすっごく強いDHだったから、一番警戒心が弱まるタイミング、つまり君が居るタイミングを狙ったってわけ♡」
その時、ジャンヌの脳裏にある記憶が呼び覚まされた。
それは自分が無意識に封じていた昔の記憶。
自分の両親が目の前で消えた時の記憶だ。
『エリー! ジャンヌを連れて逃げろ!』
父がそう言って異能具を取り出そうとした。
だが目の前に迫るDBは父にも母にも目をくれず、ただひたすらにジャンヌを狙い続けていた。
『どうなっているんだ!? DBは魔力の強い人間を狙うんじゃなかったのか!? このバケモノめ! 狙うなら俺を狙え!!』
当時幼かったジャンヌは、両親よりも遥かに力で劣っていた。
なのにDBはジャンヌを狙い続ける。まるで、誰かに操られているかのように。
だがその時、ジャンヌの目の前で何かが光った。
『グアアッッ!!』
気が付いたとき、血飛沫と共に父が倒れていた。
何かが煌めき、続いてジャンヌを守るように覆いかぶさっていた母を囲むようにして銀色の閃光が闇の中で光る。
一流のDHだったジャンヌの両親の命を奪ったのは、幼いジャンヌを狙ったことによって生まれたごく僅かな隙を突いた何者かの不意打ちだったのだ。
『ジャ⋯ンヌ』
ズタズタにされ、バタリと倒れる母。
今の今までそれは、DBの攻撃によるものだと信じて疑っていなかった。
しかし今のジャンヌは、それに酷似した異能を知っている。
「影の⋯⋯三銃士」
そしてジャンヌは思い出した。
闇の向こうに誰かが立っているのを。
マントを着た誰かと、小さな女。そしてもう一人。
「パパ⋯⋯」
そして、父と母はDBによって消滅した。
それと時を同じくして銀の光が今度はDBを包み、目の前のDBは霧散した。
彼女はその光景のみでドン・ファーザーが命の恩人だと思っていたのだ。
ジャンヌの頬を涙が伝う。昔の記憶を彼女は全て思い出していた。
「私のパパとママを殺したのは⋯⋯」
「ぜーんぶ、ドン・ファーザーだよ♡」
勝ち誇るような笑いと共に、ジャンヌに手を伸ばすザラキエル。
そして彼女はジャンヌに向かって手招きした。
「もう楽になろうよ♡ アタシたちと一緒に世界を変えてみない? 君にはその権利があるんだよ♡」
耐えがたい絶望を受けたことにより遂に心が折れたか。
ジャンヌはフラフラとザラキエルに向かって歩き始めた。
『娘! 正気になれ!』
「君もジャンヌと一緒に仲間になろうよ。開花すれば、君たちはアタシ以上に強くなれるかもしれないよ♡」
『地獄に落ちろ。この汚らわしいクソガキが』
そう叫ぶ炎龍風。
するとザラキエルはまるで豚を屠るかの如き目付きで炎龍風を睨む。
「じゃあ死んで」
吹き飛ばされる炎龍風。
回避不能のザラキエルのローキックは常軌を逸した威力で炎龍風の背骨を砕いた。
「サヨナラ」
壁に激突し、ピクピクと痙攣した後に動かなくなる炎龍風。
ザラキエルは地面に転がった焔麒麟を拾い上げると、まるで卵でも潰すのようにバキバキと片手で鋼鉄製の銃を握り潰した。
「じゃあ、一緒にこよっか。でもその前に⋯⋯」
するとザラキエルは、両目の魔眼を光らせた。
目を見れば最後、ゾンビとして永久に服従させられる悪魔の魔眼である。
「アタシの眼をしっかり見て♡」
ザラキエルは、ハナからジャンヌを仲間にする気などなかった。
奴隷として最高級の素材を使ったゾンビを作りたい。ジャンヌに接触したのはただそれだけの理由なのだから。
ザラキエルの魔眼に囚われれば人間はゾンビに変貌する。
あとはジャンヌが赤と青の魔眼をジッと見つめさえすれば、それが叶う。
だが、その時だった。
ジャンヌは突然ザラキエルの腕を掴んだ。
「思い出した。全部」
「ジャンヌ、どうしたの⋯⋯」
その瞬間、ザラキエルの体を冷気が走り抜けた。
まるで体の血と骨を全て氷にされたかのような強烈な冷気。
それが本気で相手を氷漬けにするために発動された異能だとザラキエルはその瞬間に悟った。
「全部、嘘でしょ?」
ジャンヌは全てを思い出していた。
遠い日の、父と母が消されたあの日に起きたことの全てを。
確かにあの日、ザラキエルとドン・ファーザーは共にいた。
そして父と母はジャンヌの目の前でドン・ファーザーの持つ異能、影の三銃士によって殺害された後に、DBの餌食とされた。
だが、あの時の記憶をジャンヌは詳細に思い出していた。
「パパは昔のことを全然話してくれなかった。でも一つだけ聞いたことがあるの」
それは、胸の奥に湧き上がりつつある強い感情を無理矢理押し殺すかのような、そんな声だった。
「私が小さい頃にこんな話を聞いたわ、姿は小さな女の子だけど人を奴隷にする力を持った人がいるって。私のもう一人の父から」
もう一人の父とはドン・ファーザーのことか。
するとジャンヌは続けた。
「パパは言ってたわ。自分はかつて、その人の支配下に置かれていたことがある。でもお前と会ったその日から、自分はその支配下から抜け出したって」
それを聞いた瞬間、明らかのザラキエルの様子が変わった。
ニヤニヤと笑みを浮かべていた顔が明らかに強張る。
「あの時私のパパ、ドン・ファーザーに向けて誰かが何かを言ってたのを私思い出したの。そう、こんなことを言ってたわ」
そして、ジャンヌは静かに告げた。
「『次はあの子を殺しなさい♡』って」
それはずっと忘れていた記憶。
ドン・ファーザーの横にいた小さな人影が発したその言葉。
「あの時の声、貴方の声にそっくりだったわ⋯⋯」
ザラキエルは目の前の人物が自分にとって不都合なことに気付いたことを理解した。
そして膨張し始める魔力。それを発しているのは真実に気づいたジャンヌ。
「ねえ教えて。私のもう一人の父、ドン・ファーザーは”本当に”自分の意志で”両親を殺したの? だって彼は貴方が殺そうとしたはずの私を助けてくれたのよ?」
もし、ドン・ファーザーが一家を亡き者にしようとしたのなら、何故彼はジャンヌを助けたのか。それは言うならば、横で指示を出していたもう一人の人物の命令に、ドン・ファーザーが抗ったからなのではないのか。
「パパが言っていた人を操る子供って、貴方のことでしょ?」
その声には、いよいよ隠しきれなくなった怒気が含まれている。
「もしかして貴方は、私の両親が殺された時にパパを操っていたんじゃないの? でもパパはあの時に、貴方の支配から逃れた。だからパパは私を助けてくれた」
その瞬間、ザラキエルからバチン!という音が聞こえた。
見るとザラキエルは、自らの人差し指の爪を真っ二つに引き千切っている。
まるで強い動揺を抑えるかのように。強い感情を抑えるように。
「ということは、パパに私の両親を殺させたのは⋯⋯!!」
その言葉と、ザラキエルが動いたのは同時だった。
それはジャンヌの怒りの問いに肯定するも同然の行動。
ジャンヌを生かす気の無くなったザラキエルの無慈悲の貫手が振り上げられた。
だが怒りで極限まで集中力を研ぎ澄まされたジャンヌの異能の発動は、ザラキエルの攻撃のスピードを上回った。
『
バシュッ!という水気の全てが凍り付く音。
そして大気の水分までもが凍てついた音がその異能の凄まじさを表していた。
ジャンヌの十八番にして、必殺奥義『
今回は一切の手加減は無く、完全な最高出力で放たれたその奥義。
体中の血液から水分を強制的に奪い、その水を使って対象の体に無数の氷の花を咲かせるその奥義はまさに一撃必殺。
これを喰らえば最後、極度の水分不足によって相手はまるでミイラのように干からび、それを覆う氷の花が砕け散る頃には生命維持活動も完全に停止する。
「私の両親を殺したのは⋯⋯貴方ね」
凍てついた大気が、ジャンヌの金髪に霜を振らせる。
彼女の目の前には、今度こそ完全に凍り付いたであろうザラキエルがいた。
その貫手は、ジャンヌの喉元を貫通する数ミリ手前で凍てついて止まっていた。
ジャンヌは、両親の仇を自らの手で葬ったのだ。
『やった⋯⋯か?』
掠れ声が聞こえる。
見ると炎龍風がよろよろと立ち上がっていた。
ピクリとも動かないザラキエルを見て、彼はジャンヌに向けて小さく拍手をする。
そして治癒異能を自分自身に発動する炎龍風。
ザラキエルの一撃によって負った傷を癒しているのだろう。
だがジャンヌは炎龍風には目もくれず、瓦礫の前で倒れ伏す椿に駆け寄った。
脈を調べ、呼吸があるかを確認するジャンヌ。
すると彼女は驚くように叫んだ。
「⋯⋯生きてる。生きてるわ!」
ほんのごく僅かにだが呼吸がある。
またギリギリ急所を外れていたのか、脈もあった。
『退け。私がこの娘の傷を焼いて塞ぐ』
失血を止めるため、手に炎を灯す炎龍風。
それを見るジャンヌは心配そうだが、炎龍風は言った。
『人の肉を焼くのは慣れている』
そう言うと、炎龍風は椿の傷に炎を当てた。
椿はその熱さに反応しない。彼女はもう痛みに反応すらしなくなっていた。
そして炎龍風は椿から手を放す。どうやら応急処置は終わったようだ。
だが、炎龍風は手を軽く払うと唐突にジャンヌに口を開いた。
『ドン・ファーザーは、死んだのか?』
「んくっ!」と声にならない声がジャンヌから飛び出した。
辺りを見回しても、ドン・ファーザーの体はない。彼が死んだのか、はたまた生きているのかはもう誰にも分からなかった。
『ドン・ファーザーという犯罪者が欧州にいるとは噂で聞いていた。かつては私にも奴を暗殺して欲しいという話が何度も⋯⋯』
ここで、口を滑らせたことに気付いた炎龍風は口を噤む。
『⋯⋯聞かなかったことにしろ。私も少し話し過ぎた』
すると炎龍風は踵を返す。
彼は懐から『転送札』と書かれたチケットのような物を取り出した。
そしてザラキエルによって潰された焔麒麟も同時に拾う。
『依頼主も死んだ以上、ここにもう用はない。私はこれで失礼させてもらう』
炎龍風が手に持っている札が光り出す。
『さらばだ。名も知らぬ娘たちよ』
その瞬間、炎龍風の体を転送異能が覆った。
チケットに付属していた異能が発動したのだ。
「最後に名前を聞かせて!」
だが、ジャンヌの声に彼は素っ気なく返した。
『私は日陰者の
そして転送術式の光が収まったその時。
もう炎龍風の姿は消えていた。
炎龍風を見送り小さく息を吐くジャンヌ。
唐突に出会い、そして風のように去っていったその男は何者だったのか。
結局それも分からなかった。
そして自身が凍らせたザラキエルの氷像を再度見ようとした、その時だった。
「あーあ、一匹逃げられちゃった♡」
心臓が握り潰されるような極大の恐怖がジャンヌを襲った。
嘘だ、そんな訳ない。生きているはずない。そんな言葉が浮かぶ。
背後から邪悪なオーラが膨張し始めているのをジャンヌは感じた。
「そーだよ、君の両親を殺すって決めたのもぜんっぶアタシ♡ アタシはずっとアイツをペットにして組織の仕事をやらせ続けてたの♡ でもアイツは、君の両親を殺した時に突然正気に戻っちゃったんだよ。折角仲間になりたいって言うから『半奴隷』の状態にしてあげてたのにさ」
氷の花が砕ける音が背後から聞こえる。
それは本来なら氷の塊となったそれが水の霞となって消える音のはずだ。
「それで、アタシたちを裏切ったアイツは君を連れてあの場から消えた。十年以上もアタシたちから逃げ続けて、アタシが送ったゾンビちゃんたちもアイツは君に気付かれないように始末してた。でも真実を知らないおバカな人たちは、アイツが一般人を殺し続けていたと勘違いしてたみたい♡」
その時ジャンヌは、何故ドン・ファーザーが今まで多くの人間から犯罪者として認知され続けて来たのかを理解した。
だがそれ以上深くを考える時間はもう残されていなかった。
「でも、組織の最高機密の『ラミアの予言』を盗んだのは悪手だったね♡ だからやり過ぎたアイツを消すためにアタシが直々に送られたんだから♡」
背後を振り返るジャンヌ。
そしてそこには、災厄が立っていた。
「なん⋯⋯で!?」
「あの程度でアタシを倒せると思ってたの? バッカみたい♡」
ザラキエルが無傷で立っていた。
肩に乗った氷を手で掃ってニヤリと笑う。
いつの間にかザラキエルの髪は真っ赤になっている。
喪服をはためかせ、見開かれた魔眼は冷酷な魔力を放ち続けている。
それはまるで悪魔の化身のような悍ましいものだった。
「でね、アタシはフランスで一度アイツを殺したの。まさに予言通りにブドウ畑の真ん中で、アイツはアタシに殺された。殺されると分かって何でここに来たのって聞いたら、『ジャンヌに手を出させるくらいならここで死を選ぶ』ってさ♡」
ケラケラと笑うザラキエル。
何故笑うのかと怒りたい。だがしかし、それをさせぬほどの常軌を逸脱したオーラを目の前の怪物は放ち続けている。
「そこまでして君を大事にする理由は何かな、と思って聞いてみたの♡ そしたらアイツはこんなこと言ってた。『ジャンヌは私の娘の生まれ変わりのようだ』って」
「娘の⋯⋯生まれ変わり⋯⋯?」
「そうそう。アイツは、誰にも内緒で結婚して子供もいたんだって♡ けどアイツがお留守の時にDBに家族が殺されちゃって、アイツは人生に絶望しちゃったの♡」
それは知られざるドン・ファーザーの過去だった。
だがその後ザラキエルは、そも平然と恐ろしいことを口にした。
「ちょーどその時期に、アタシも新しいペットを探してたからさ♡ だからアイツをアタシのお人形に出来たら最高だなあ、って思っちゃったんだよね♡」
それは、最早血の通った人間とは思えぬ発言。
だがザラキエルは続けた。
「でね、アタシがアイツに会って言ってやったの♡ 『アタシたちについてくれば、家族を蘇らせられるよ』って♡ あの時のアイツの顔、最高に面白かったなあ⋯⋯『本当ですか?』って言ってあっさりアタシたちについてきちゃってさ」
そう言うや、甲高い声で笑い始めるザラキエル。
その声は聞く人の心に爪を立てるような邪悪さに満ちていた。
そしてひとしきり笑い続けた彼女。だが笑い終えた後に言った。
「そんなの嘘に決まってんじゃん♡ 」
その瞬間、ザラキエルの両目の魔眼がギラリと光った。
「で、アタシはアイツをお人形にしたの。でも君を襲ったあの時に、アイツはアタシの魔眼から逃れて自由の身になった。そしてずっと逃げ続けた末に、組織の機密、ラミアの予言を持ち逃げした⋯⋯」
この時初めて、ザラキエルに嘲るような笑い以外の感情が露になった。
それは心底胸糞悪いというような彼女の表情。
「『あの方』はそれに大変お怒りになったわ。だからこの最高幹部のアタシが直々にアイツをブッ殺して、ブドウ畑に埋めてやったのよ。なのにどんなカラクリか知らないけど、アイツはまた蘇ってこの国に逃げ込んだ」
ジリジリとジャンヌに近寄るザラキエル。
「でも、追いかけっこも今日でおしまい♡」
その時ザラキエルは、後ろ手に隠し持っていた何かをジャンヌに見せた。
それを見た瞬間、ジャンヌの碧眼が見開かれた。
それはドン・ファーザーの頭。ただし、首から下がない。
まるでトマトを潰すかのように、ザラキエルはそれを片手で握り潰した。
「君の愛しいパパは死にました♡」
その瞬間、ジャンヌの魔力が”変質”した。
激情に支配されたことで澄んでいた魔力が黒く染まる。
怒りが理性を上回り、魔力がザラキエルと同様の真っ黒なオーラに変貌した。
「⋯⋯⋯」
ジャンヌが何かを口走る。
恐らくフランス語で、ザラキエルに対して何かを言った。
だがそれは聞き取れない。しかし口で語られずとも、彼女が何をしようとしているかが明白だった。それはザラキエルに向けられた極大の魔力が如実に示している。
「いいね♡ 君が”そうなるのを”待っていたよ♡」
それをまるで望んでいたかのようにペロッと舌を出すザラキエル。
黒い魔力の暴風をまるで楽しんでいるかのようだ。
「⋯⋯す」
ジャンヌの碧眼が、黒く染まっている。
それだけでなく、豊かな金髪までもが黒に変わっていく。
暴走した怒りが体全体を侵していくかのように。
「いいね、いいね、いいね♡」
ザラキエルは、魔眼を光らせた。
その視線の先にいるのは黒い魔力を纏うジャンヌ。
「その状態の君をペットにしたいっ♡ さあ、アタシの眼を見て!!」
赤と青の光が空間を照らす。
満面の笑みのザラキエルと、黒い異能を唱えんとするジャンヌ。
その両者が交わんとしたその時だった。
『止めろ』
ストン、と音がする。
同時にジャンヌの眼から光彩が消えた。
『もういい。十分だ』
グラッと倒れるジャンヌ。
体を纏っていた黒い魔力が霧散していき、黒に染まっていた眼と髪が戻っていく。
そして倒れるジャンヌを受け止める長身の人間が一人居た。
その人影は受け止めたジャンヌをその場で優しく寝かせる。
対して自分のゾンビづくりが土壇場で邪魔されたザラキエル。
彼女は不愉快な様子で突如現れた姿に話しかける。
「誰、キミ?」
その時だった。
『太刀落とし 第五式』
その瞬間、ザラキエルの姿が消えた。
いや、正確にはザラキエルの体がその場から吹き飛ばされた。
スクリュー状の斬撃が彼女を襲い、一瞬の合間に斬撃の暴風が吹き荒れる。
現れたのは、黒いアーマーを着た一人の剣士。
その体は暗闇の中でもボンヤリと見える魔力の装甲で覆われている。
そして剣士はいつの間にザラキエルに向けて長い黒刀を向けていた。
斬撃は壁をも切り刻み、螺旋状の一撃は彼らがいる建物をそのまま貫通する。
そして壁が破られたことで露になった夜空をバックにした小さな人影がその人間の遥か前方に立つ。
だが剣士が放った斬撃を受けてもなお、ザラキエルは立っていた。
ここで現れた人影をはっきりと認識するザラキエル。
それを見るや放つオーラの質が変わる。
「なーるほど。ドン・ファーザーが日本に逃げ込んだのは、キミがこの国にいるのを知ってたからね」
ザラキエルは笑っていない。
それは目の前にいるそれが余裕で対応できる存在ではないことを知っているからか。
はたまた、今の一撃でそれを思い知らされたからか。
「キミがあの有名な最強クンだね? 一度キミとは戦って見たかっ⋯⋯」
『太刀落とし 第六式』
ズバッッ!と何かが暗闇の中で断ち切られる音がする。
そして暗闇の中を白い何かが飛んだ。
そしてボトリと音を立てて地に落ちる。
『第六式は遅延斬撃だ。五式に乗せて放った六式は、体に遅れて到達する』
目の前に落ちているそれが、自身の左腕だという事実。
ザラキエルはその事実を飲み込むのに数秒の時間を有した。
『法の裁きは必要ない。もう、その段階はとうに過ぎた』
刀を構え、その切っ先をザラキエルに向けるその男。
その刃に慈悲の念はない。
『ここで斬る』
その男、臥龍が放ったその一言に込められた感情はない。
目の前の邪悪を消す。男が考えていることはただそれだけだった。
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