1.3.2 第二項 乙女の導き

初稿:2018.04.21 更新:2018.05.10





 朝。窓から差し込む日の光が眩しくて目が覚めた。



 シルは俺の腕のなかで寝ていた。とても幸せな朝だ。

 彼女もすぐに目が覚める。


「あ、おはようレイ……」


 そこまで言って彼女は、キャミソール姿のまま、俺の腕のなかにいることに気付く。


「な、な、な……」


 彼女は顔を真っ赤に染めて跳ねるように飛び起きた。


「ふ、ふ、不埒者!」


 左手で毛布を掴み身体を隠すと、右手でレイピアを素早く抜き、俺の目の前へ突きつけた。今にも襲いかかってきそうな勢いである。


「ま、待ってくれシル、誤解だ。何もしてない。昨日酔っていたのを覚えてないのか」


 何もしていないのに、こんなもので刺されたら堪らない。

 だがまぁ、彼女の身体と引き換えならば、一突きくらい許してもいいが……。


 彼女は俺の目の前に剣を突きつけたまま、動かなくなった。昨晩のことを考えているようだ。


 やがて脱力し、剣を降ろした。


「その……、すまない。記憶はあるようだ」


 顔を紅潮させたまま後ろを向く。


「朝からとても幸せな気分だったよ。ありがとう。むしろ毎日でも……」

「こ、こ、こ、こんなことは、もう無い!」


 後ろを向いていても、長い耳が真っ赤に染まっているのが判る。

 その背中に向かって、眠った後に起きる不思議な発光現象について訊いてみた。


「シルが眠ると、なんというかこう、キラキラと青く煌めくものが現れるんだが、あれは何だ」


 彼女は振り返る。


「『マナフェアリー』だ。エルフは寝ている間に、マナフェアリーへマナを分けてやるのだ。そのおかげで、フェアリーの加護を受け、古代エルフ魔法を使役することができる」

「マナフェアリーと言うのか。あれは本当に、凄く綺麗だ」


 俺の褒め言葉に、彼女はまた後ろを向いてしまった。


「そ、そんなことより、団の申請に行くのだろう。はやく用意しろバカ……」


 そう言って彼女は、床に落ちていた白い下布を拾った。


「すまないが、ちょっとあちらを向いていてほしい……」


 着替えるのだろうと思い、言われた通り反対の窓の方を向いた。

 衣擦れの音のなか、彼女はおもむろに謝罪した。


「すっかり酔ってしまって、朝食のことを忘れていた。すまない」

「大丈夫だよ」


 朝食などより、ずっと幸せな気分にさせてもらったのだ。


「もう良いぞ。傭兵団ギルド支部へ行く前に買い物もあるし、ついでに何か食べる物を調達しよう」


 振返ると、彼女はタンスから全ての荷物を出し、荷造りを始めていた。


「この宿は今日で出る。忘れ物をしないようにな」


 俺も着替えを済ませ、荷物を全て持ち部屋を後にした。

 彼女は宿屋の主人へ礼を言い、鍵を返却する。


「世話になったな」

「またお越しください」




 俺達は宿屋を出て五差路へ向かった。


 五差路を北に行くとパン屋がある。シルはそこで、チーズが載ったパンを二つ購入し、銅貨で六マールを支払った。

 店先の木製ベンチに座りその朝食を摂る。


「まずは、レイジの着替えとザックを用意しよう。そのバッグは高級だが、実戦向きでは無い。そのあと防具も調達する」


『分かつ森』で気が付いてから、ずっと同じ服を着ている。彼女は何も言わないが、自分でも分かる。いい加減臭い。




 食事が終わると近くの服屋へ入った。


 店内には、実用的な服がところ狭しと並び、棚には天井まで様々な服がびっしりと積み重ねられている。

 彼女はしばらく俺の身体を眺めると、店内を物色し適当な服を持ってきた。

 黒い革のパンツ、臙脂えんじ色の綿のシャツを三点ずつ、それと、手首まですっぽり隠れる革製のグローブと、太腿ふとももまであるロングブーツだ。


 店主に案内され、試着室の小部屋で着がえる。

 ブーツは履くのに苦労したが、一度足が入るとぴったりとフィットした。最後にグローブを嵌める。

 鏡が無いのでどんな様子なのか分からないが、彼女は俺の体格を見定めて、全てぴったりのものを選んで来たようだ。

 着替えが終わり戻ると、俺の姿を見て彼女は嬉しそうに笑顔になった。


「おぉ、良いではないか。既製品だが、いっぱしの傭兵のようだ」


 次に大きめのベルトを寄こした。


「最後にこれを腰に巻いてくれ」


 このベルトは、幅が広く非常にしっかりしたものだ。細めの革紐がぶら下がっていて、鷹をモチーフにした存在感のあるバックルが付いている。右腰の部分には革製の小物入れが三つ取り付けてあった。

 これがなんだか判らなかったが、とりあえず腰に巻いてバックルを締める。革紐はぶら下がったままだ。

 彼女はベルトの左腰部分に、付属品の革を使って細工をすると、そこへ『聖剣ガルディア』の鞘を取り出し嵌め込む。

 続けて、ぶら下がっていた革紐の中央部分にコブを作って、鞘に巻き付け固定し、そのまま背後のベルトへ留めた。最後に『聖剣ガルディア』の刀身を鞘へ納める。


 どうやらこれは帯刀用ベルトのようだ。


「完成だ」


 彼女はにっこりと微笑み、店主に会計を伝える。


「シルごめん、これもいいかな」


 俺は近くにあった小さな綿の下着用のパンツと、靴下を三枚ずつシルに渡した。


「そうか、アルデアンの民は下着を付けるのだったな。すっかり忘れていた」


 エルフが下着を着けないことは、昨晩確認済みである。


「全部で百六十六マールだ」


 店主が答えると、彼女は値引き交渉を始めた。


「高い、百マールだ」

「百五十マール」

「こんなに一度に買ったのだぞ、百二十マールだ」


 店主は少し考えたが続けた。


「百三十マールだ。それ以上はダメだ」

「分かった、それでいいだろう」


 彼女は銀貨一枚と五マール銅貨六枚を支払った。



「次はザックと雑貨だ」


 シルは服屋を出ると、五差路の石橋を渡り、雑貨屋へ入った。昨日俺は仕事探してここにも来ていた。


 雑貨屋には色々な物が売っている。ランタンからタオル・石鹸など、日用雑貨を全て取り扱うと言った感じだ。

 奥にザックのコーナーがあり、様々な種類のバッグ類が並んでいる。俺はそのなかから、革製の黒いリュックサックを選ぶことにした。


「ほう、なかなか良い目利きだな。気に入ったのならそれにしよう」

「丈夫そうだし機能的だ。それと、歯を磨くものは無いかな」

「あぁ、これがそうだ」


 彼女が持って来たものは、木の枝の樹皮を剥いた小さな棒だった。


「こ、これで磨くのか」

「そうだ。レイジの国では違うのか」

「あ、あぁ……。でもこれでやるしかないだろうな」


 ブラシなどは付いておらずただの棒である。三十本で一セットだ。そのほかにタオル三枚も一緒に彼女にお願いした。


 店の奥から可愛らしい小さな娘が出てきた。歳は十くらいだ。


「いらっしゃいませ」


 昨日雇用を断られた店主の娘であろうか、店番というような感じだ。


「これをもらえるか」


 シルは優しく微笑む。


「えっと、ひゃくがえぇと、いち、にぃ、さん……、ぜんぶで、八百四十七マールです」


 店番の少女は一生懸命計算をしていた。シルは交渉をせずに、素直に銀貨八枚と銅貨一枚を支払い、言葉を続ける。


「釣りは駄賃だ」


 小さな少女は、少し緊張気味にお辞儀をする。


「あ、ありがとうございます」


 シルは少女に笑顔を返し、店を後にした。




 次は防具屋である。昨日の仕事探しでここにも来ていたのだ。


 店内では傭兵が数人買い物をしている。昨日もそれなりに客がいたから、戦時中で店は繁盛しているようだ。奥のカウンターに髭面の店主が座っている。

 シルは近づいて話し掛けた。


「動きやすい革製の防具を一式もらいたい」

「あぁ、そっちが革製の物だ。勝手に選んでくれ」


 商品の手入れをしながら、ぶっきらぼうに店主は答えた。昨日職探しで来たときもこちらを見ようともしなかったから、俺のことは覚えていないだろう。

 彼女はこういう対応には何も感じないようだ。俺は少し不愉快だが。


「レイジは戦闘が不慣れだから、動きやすいものがいい」


 彼女はそう言うと革鎧の物色を始めた。

 同じ革製でも職人によって作り方やデザインが違う。同じものは一つとして無い。


「このレザーアーマーなんかどうだ」


 彼女が選んで来たものは、木と革の黒い複合鎧である。傷は無くまだ新しい。デザインもなかなかだ。


「合わせてみてくれ」


 そう言われても鎧など着たことは無い。どうやって着るのだろうか。


 俺はしばらく鎧を眺めて考える。

 胸のパーツと背中のパーツが、脇にあるベルトで繋がっている。肩のパーツは胸と背中のパーツへ同様にベルトで連結されている。


 ……これを外して、ここに付けるのかな。


 考え込んでいると、彼女が手伝ってくれた。

 左脇と肩のベルトを外すと、アジの開きのように鎧の前後が開いた。それを身体に合わせベルトを締める。サイズはぴったりのようだ。あとは各ベルトを調整して適度な位置へ動かす。


「キュイラスとスポールダーはぴったりだな」


 きゅ、きゅい……。まぁいいか、彼女が笑顔なのだから。


 彼女は、服も鎧もぴったりものを選んでくる。身体を見ただけで、サイズが分かるのだろうか。

 腰のパーツ、フォールドと呼ぶらしいが、ベルト式で股間の部分だけガードが取り付けてある。ベルトをバックルで固定し、ガードの下にある細いベルトを、股の間から背後へ回し、背面の腰ベルトへ連結した。

 次に、膝を守るポレインとすねを守るグリーブのセットをブーツへ取り付け、ガントレットのベルトを緩め腕を通す。彼女が各部のベルトを調整して装備完了だ。


「なかなかさまになっているじゃないか」


 彼女は満足そうである。


「後はヘルムだが、不慣れなレイジには、視界がさえぎられるフルフェイスは危険だろう。……これなんかどうだ」


 ハーフキャップの兜を持って来たので被ってみた。彼女はその姿を見て噴き出してしまった。


「こ、これはやめよう。レイジの男前が台無しだ」


 笑いながらハーフキャップを戻す。

 どうやら彼女は、俺を男前だと思っているらしい。こんな美少女にそう思われるのは悪い気はしない。


「少し心配だが、これにしよう」


 彼女が持って来たのは革製の額金だ。頭に巻くタイプで、額の部分に大きめの革と木の複合製ガードが取り付けてある。上部にある革のベルトは脳天を通り、後頭部のベルトへ固定するようだ。


 装備が完了すると彼女は店主に伝える。


「主人、この一式をくれ」

「お嬢ちゃん、なかなかの目利きだな。どれも『首都アリア』の『アリッシュ』って一流革職人の仕事だ、装飾もなかなかだろう。全部で、二千四百六十五マールだ」


 防具は凄く高いものだった。命が資本の傭兵だ、身を守る防具にカネをかけるのは当然だろう。


「高いな。中古品だろう、千五百マールだ」


 彼女は値引き交渉を始めた。いきなり千マール引くのには驚いた。


「勘弁してくれ、二千二百マールだ」

「千八百マールだ」

「アリアの一級品だと言っただろう。二千マールだ。それ以上は負けられねぇ」

「分かった。それでいいだろう」


 彼女は今まで見たことの無い、大きい銀貨四枚を支払った。四枚で二千だから今のは五百マール銀貨だ。


「まったく、まいったぜ。可愛い顔して恐ろしいな、あんたは」

「誉め言葉として受け取っておこう」

「それよりあんたの防具、ミスリル銀か」


 防具屋の店主だけに、彼女の防具に興味があるようだ。


「そうだが」

「傷物みたいだが、いい鎧だ。いくらなら売ってもらえる?」


 唐突に店主は商売を持ちかけてきた。


「主人にこれは買えないだろうな」


 ……買えないって。


 中古の革鎧でも高額なのだ。シルのミスリル鎧は一体いくらするのだろうか。


「そうか、しかしミスリル銀を切り裂くとは、凄まじい手練れがいたもんだ。よかったら『帝都アリア』の鍛冶職人を紹介するが」

「アリアにミスリル職人がいるのか」

「あぁ、『エマ』って名の腕の良いドワーフだ。性格に難があるがな」


 しばらく考えていたが彼女は答える。


「この先アリアにも行くことになるだろう。よろしく頼む」

「ちょっと待っていろ」


 店主は一旦奥へ引っ込んだ。


 しばらくして戻ってくると、小さく丸めた蝋印の付いた紙を持ってきた。クレモンドがくれた紹介状とよく似ている。どうやら紹介状には、ある程度決まった様式があるようだ。


「俺の名はグリーシュだ。これが紹介状だ。これを見せれば、嫌でも受けてくれるだろう。あいつには借しがあるしな」

「ありがとう。礼だ」


 彼女は小さいほうの百マール銀貨を一枚渡した。クレモンドの紹介料は銀貨二枚だったから半額である。


「あんた気に入ったぜ。生き残ってまた来てくれや。あんたらに神のご加護を」


 髭面の店主グリーシュは、人差し指を額に付け祈りの言葉をくれた。

 彼女は礼を言うと防具屋を後にする。




 店を出てすぐ、彼女に尋ねる。


「クレモンドは紹介料が高いんだな」

「あぁ、学士殿だからな。当然だ」


 ザルツの学士というだけで、報酬は倍額のようだ。




 次はいよいよ傭兵団ギルド支部である。防具屋の二軒隣だ。


「レイジの荷物は、支部で預かってもらおう」

「そんなことができるのか」

「貴重品はやめたほうがいい。何かあったとき責任を取ってくれないからな。裏のギルド倉庫に入れておいてくれるのだ」

「なるほど。助かるな」



 傭兵団ギルド支部のなかは、甲冑を着た傭兵で溢れていた。

 人間族ばかりで、ガイナックのような獣人族は見当たらない。アルデアンに多く入って来たと言っていたが、獣人族は貴重な人材なのだろう。


「手続きをする。レイジは文字が読めないから、私が全てやっておこう」

「ありがとう、頼む」


 彼女は受付の女性から、申請用紙を三枚もらってきた。紙は黄色く染まっていて、クレモンドとグリーシュがくれた紹介状と同じ素材、パピルスのようだ。あまり丈夫そうではない。

 そのうちの二枚に、近くにあった羽根ペンを使い、読めない文字でさっと記入を済ませる。これはおそらく二人分の傭兵団ギルド入隊申請書だろう。

 続けてもう一枚に記入を始める。こちらは傭兵団設立申請書のようだ。


「団の名前はどうする」


 唐突に訊かれるが、何も思いつかない。


「シルに任せるよ」


 彼女はしばらく考えていたが、やがて羽根ペンで記入を始める。記入が終わるとザックから印鑑を取り出し、親指を腰のダガーの付け根に押し当て、血で押印した。


「ルーセント傭兵団だ」


 彼女はそう言って説明を続けた。


「『ルーセント』は古代エルフ語で『草イチゴ』。私の故郷くにの冬は、積雪が多く閉ざされる。春になると、白くてとても可愛いルーセントの花が一斉に咲く。故郷くにに凄く良い場所があってな、よく姉さまに連れて行ってもらったのだ。毎年、春が来るとそこへ行くのが楽しみだったんだ」


 彼女は姉との思い出の花を思い出し、どこか懐かし気な表情だ。微笑ましくなり思わず口をついた。


「いつか、連れて行ってほしいな」

「うん。レイジもあの景色は気に入ると思う。いつか一緒に行こう。それとな、ルーセントの実は、甘酸っぱくてとても美味しいんだ」


 嬉しそうに笑顔で話す彼女。


「それじゃレイジ、荷物を預けようか」


 俺はさっき彼女に買ってもらった洋服と、スマートフォン、ジッポライターとオイルのセット、ボールペン、電卓、財布を革製のリュックサックへ詰め替えた。

 ワイシャツ、ネクタイと一緒に黒い革靴をビジネスバッグへ入れ、左肩が敗れたビジネススーツと一緒に彼女へ渡した。


 彼女は傭兵団ギルド入隊申請書・傭兵団設立申請書と一緒に、俺の荷物を受付へ預けた。


「さっそく依頼を受けようか」

「どうやって受けるんだ」

「こっちだ」


 壁にある掲示板の前へ案内されと、そこにはA4サイズほどの質の悪い黄色い紙が、いくつも貼られていた。やはり読めるものはひとつも無い。


「レイジ、戦況は分かっているか」

「ガイナック……、風呂で会った人狼族に概要は聴いた。だが、細かい戦況までは判らない」

「分かった。なら私が選ぼう。ここから選んで依頼受付へ申請するんだ」


 彼女はしばらく依頼案件を物色していたが、やがて決めた。


「初任務だから、あまり危険でないものがいいだろう。現在、主戦場はシュルツに移っている。ベイリンガル戦線は膠着こうちゃく状態だから比較的安全だろう。この『ベイリンガル戦線維持』にしよう」


 戦況まではガイナックに訊く時間が無かった。『出会い酒』とやらも断ってしまったし、現状彼女に任せるしかない。

 俺が頷くと、彼女は掲示板から依頼案件の用紙を取り、受付に持って行った。


 戻って来た彼女に概要を説明してもらう。


「ベイリンガル戦線の前線支援任務を七日間行うものだ。具体的には、前線の支援任務を担っている傭兵団駐屯地の警備と運営だな。襲われなければ戦闘行為は無いだろう。夕刻までに駐屯地へ移動して現地の隊長から指示を受ける。実際の任務は明日からになるな」


 戦闘が無いのは助かる。正直まだ怖いのだ。


「分かった。それなら俺にも出来そうだな」

「そうだな。徐々に慣れてくれ。前線までの移動で、傭兵団の送迎馬車を利用することも出来るが、せっかくだから馬屋で馬を見てみよう」


 ユニコーンのレスフィーから落馬したことを思い出し、僅かに不安感が襲う。




 ギルド支部の外へ出ると、事務員らしき男が追いかけてきた。


「お待ちください」


 駆け寄ってきた男が、胸に手を添える。


「ベイリンガル傭兵団ギルド支部長のクレウと申します。あの印をお持ちということは、あなたは……」


 シルはクレウの言葉を途中でさえぎった。


「目立つことは控えて頂きたい」

「わ、分かりました。では、何かありましたら、受付でクレモンドという男をお呼びください。私の代理でご対応させて頂きます」


 ギルド支部長のクレウは彼女にお辞儀をして去って行った。


「クレモンドか、あの学士殿だな。しかし……、印をしたのは失敗だったか」


 彼女は呟いた。支部長があの態度だ、彼女はやはり、貴族か良家のお嬢様なのだろう。




 最後は馬の調達だ。街の入口へ行き馬屋に入った。


「いらっしゃいませ。預け入れですか、購入ですか」


 馬屋の主人は、愛想の良い営業用の笑顔でシルに話しかけた。


「購入だ。馬を見せてくれ」


 彼女がそう言うと、主人は厩舎へ案内してくれた。


 厩舎に入ると彼女は熱心に馬を見ていた。時折話しかけているように見える。一通り見て回ったところで彼女が主人に尋ねる。


「向こうの厩舎は?」

「あちらは、お預かりしている馬の厩舎でございます」

「そうか。ならばこの子にしよう」


 彼女が選んだのは艶の良い葦毛牝馬あしげひんばだった。


「お客様お目が高い。ウチの馬のなかでも最高級品でございます」


 ここでも彼女の目利きは褒められた。服のときも革鎧のときもそうだが、彼女の鑑定眼は確かなようだ。


「いや、この子が私を選んだのだ」


 不思議そうな顔をする主人だが、彼女の姿を見て納得した。


「純粋種のエルフの方でしたか。ならば納得が行きます。馬達と話されましたか」

「あぁ、少しな。いくらだ」

「最高級品ですので、九万千マールになります」


 俺はその金額に驚いた。


 パンが二マールということを考えれば、物価は俺の国の通貨に換算して約六十倍。この馬は五百万円以上するということになる。高級自動車が買える値段だ。

 彼女は値引き交渉をせずに、大きい金貨を一枚と小さめの金貨四枚を支払った。金貨は初めて見た。


 ずっと彼女の支払いを見て来たが、金・銀・銅三種類の硬貨には、それぞれ大中小の三種類ある。銅貨が一、五、五十マールで、銀貨は百、五百、五千マール、金貨は一万、五万、そしておそらく五十万マールとなるのだろう。


「行こうかフィーネ」


 彼女は葦毛牝馬あしげひんばに微笑む。


「ありがとうございます。またご利用ください」


 奥の厩舎には、預けられた馬がたくさんいる。馬持ちは、街に入る前に必ず馬屋の世話になるようだ。馬屋はいい商売である。




 馬屋を出ると、彼女は購入した葦毛牝馬あしげひんばに、ミスリル製の馬具を取り付ける。


「今回値引き交渉はしなかったんだな」


 不思議に思って彼女へ尋ねる。


「エルフにとって馬は物では無い、友なのだ。だから値踏みするようなことはしたくない。本来、馬を買うという行為も好きでは無いのだ」


 名前を呼んでいたことも不思議だ。


「フィーネと言うのか」

「そうだ、彼女がそう名乗ったのだ。私の好きな、白フィーネと同じなのも気に入った」


 白フィーネと聞いて、昨晩の酔ったとても艶っぽい彼女を思い出してしまった。

 笑顔で話す彼女へ、慌てて俺も笑顔を返した。


「もうちょうど昼刻だが、フィーネの足ならば夕刻には間に合うだろう。すぐに出発しよう」


 もうそんな時間か。

 何気なしに俺は、革鎧の籠手の下に付けてある腕時計に目をやる。


 午前十時? あれ……、昼刻って十二時だよな。この二時間のズレは何だろう。時計の調子が悪いのか。


「シル、今ちょうど昼刻なのか?」

「そうだ」


 不思議な違和感を覚えたが、ひとまず時計を十二時ぴったりに合わせた。


 出発しようとフィーネのあぶみへ足を掛けたが、シルがそれを止める。


「レイジ、まずはフィーネに挨拶をしてくれ。それが礼儀だ。レスフィーは適合者のことを理解していたが、フィーネは違う。特にこの子は自尊心が強いんだ」

「……どうすれば?」

「まずは身体を優しくさすって、それから気持ちを込めて、フィーネの頬に口づけをするんだ」


 俺は緊張していた。

 ユニコーンのレスフィーから落馬して以来、少しだけ馬恐怖症である。

 

 言われた通りにフィーネの白い身体に触れる。フィーネは驚いて一瞬身体を反らしたが、すぐに受け入れてくれた。そのまま優しく撫でる。

 フィーネはとても引き締まった身体をしていて、毛の艶もとても良い。近くで見るとその迫力に圧倒された。改めて見ると馬というものは迫力がある。


「レイジ、大丈夫だ」


 彼女の小さく静かな声だ。


「ゆっくりと、フィーネの前へ移動してくれ」


 フィーネの瞳は、俺の動きをずっと捉えていた。そっとフィーネの前へ移動し、頬に軽く口づけをする。

 無事にその『儀式』が終わるのを確認してから、彼女は言った。


「これでフィーネはレイジの友となった。可愛がってやってくれ」

「フィーネ、よろしく。馬の扱いは慣れてないが勘弁してくれ」


 軽くいななくフィーネ。まるで通じているかのようだ。


「さぁ出発しようか」


 今度こそあぶみへ足を掛け、一気にフィーネへ飛び乗った。


 乗馬は二度目である。前回のレスフィーの乗馬よりは上手くやれたはずだ。

 すぐに彼女も俺の後ろへ乗馬し、手綱たづなを取ると、フィーネの首を撫でながら話しかけた。


「フィーネ、よろしく頼む」


 彼女はあぶみごとフィーネの腹を軽く蹴る。見事な肉体美の葦毛牝馬あしげひんばは、ゆっくりと歩みを始めた。




 そのままベイリンガルの街の外へ出る。


 街道へ出ると、シルは手綱たづなを鳴らした。

 フィーネはそれを合図に一気に駆け出す。レスフィーには負けるがとても速い。風が身体を突き抜け、とても爽快な気分だ。

 後ろで手綱たづなを取り、俺に密着するシルへ話しかけた。


「馬って気持ちいいな」

「そうだろう」


 顔は見えないが、彼女はきっといつもの素敵な笑顔だろう。


「加速するぞ」


 彼女はそう言って、もう一度手綱たづなを鳴らした。

 さらに加速するフィーネ。



 街道の落葉樹の葉は、赤や黄色、色鮮やかに染まっている。

 俺はしばらく駆け抜ける風を楽しんでいた。

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