第三節 ルーセント傭兵団

1.3.1 第一項 拒絶する世界

初稿:2018.04.21 更新:2018.05.10





 記憶を失ってから初めての朝。 



 目が覚めると、再び美しいシルの顔が目の前にあった。

 目が合うと、彼女は慌てて向こうを向いてしまった。


 なんだろう。俺が寝ている様子を見ていたのだろうか。


「お、おはよう、レイジ」

「おはよう、シル。どうかしたのかい」

「な、なんでもない」


 横を向いたまま、少し赤らめてバツが悪そうに彼女はそう答えた。

 朝から驚いたが、美少女の顔で目覚めるというのは悪くない。


 彼女は朝食だと言って、昨日レストランで購入した紙袋を出した。そのなかにはパンが二つ入っていて、そのうち一つをくれた。

 部屋のテーブルに座り、それを二人で摂る。


「朝食のあと、さっそく傭兵団ギルドに行ってみよう」

「ありがとう。でもその前に、バッグの中身を確認して置きたいな」

「それは私も興味がある。レイジのこと、何か解るといいな」


 興味があると言ったのは、珍しい魔道具でも現れると思っているのだろう。

 鞄をひっくり返す前に顔を洗いたい。しっかりと脳を目覚めさせておきたいのだ。


「シル、水道はあるかな」

「スイドウとはなんだ」


 水道という言葉は無いようだ。そう言えば、生活用の上水は井戸のようだし、ここは水道管が通っていないのだろう。


「えっと、水場だ。顔を洗いたいんだ」

「なるほど、顔を水で洗うのか。井戸が宿屋の外にある」


 彼女に礼を言ってから宿屋の外へ出る。すぐ隣にあった井戸から水を汲み上げ、てのひらで水をすくい顔を洗った。タオルは無い。

 彼女は来なかった。朝、目覚めたとき、顔を洗う習慣が無いのかもしれない。



 部屋に戻ると、彼女は既に白銀鎧をまとっていた。


「レイジがどうなるか分からないが、もう一晩ここを借りることにしよう」


 笑顔でそう言う彼女。

 彼女の笑顔は、優しくて魅力的で本当に素敵だ。



 俺はタンスからビジネスバッグを取り出すと、中身を全てベッドの上にぶちまけた。彼女はベッドの隅に腰掛け、その様子を見ている。


 出てきたものは、書類の入ったクリアファイル・財布・ジッポライター用オイルと替え石・赤と黒の一体型ボールペン・電卓、それと宇宙雑誌に付いていた別冊写真集だ。残りは、昨晩バッグのなかへ放り投げた、スマートフォンと名刺入れ、ジッポライターである。

 オイルと替え石が入っていたから、しばらくはジッポライターを点火用に使うことができる。


 クリアファイルの書類を見てみると、何かの会議用の資料だった。『航空計測用円形計算尺の使い方』と題されている。


 これはなんだっけ……。


 しばらく考えていたが、なんとか思い出すことができた。これは腕時計に付いているアナログ式の計算機能だ。

 腕時計を確認すると午前八時ちょうど。

 この腕時計の外装は、銀色のステンレスに強化ガラス、ベルト部分もステンレスで出来ている。

 時計部分の円形の本体の周りに、その『計測用円形計算尺』が取り付けてあった。何度か回転させるだけで、様々な計算ができるというものだ。会議資料として持っていたということは、俺は腕時計関連の営業マンだったのかもしれない。

 ひと通り使ってみると、簡単な使い方は思い出した。ソーラー電池式のこの腕時計は、日の光がある限り止まることは無い。


 ソーラーといえば、ソーラー式電卓が入っていた。

 電卓を手に取ると、窓際に持って行ってパワーボタンを押してみる。無事液晶画面に〇の数字が現れた。問題無く使えるようだ。


 シルは宇宙雑誌の付録の写真集に見入っている。


 俺は構わず、赤と黒の一体型ボールペンを手に取り、会議資料の裏面へぐるぐると丸を書いてみた。こちらも赤、黒、両方とも問題無いようだ。


「レイジ……、この青く美しい球は何だ」


 写真集を見ていた彼女が尋ねた。地球の写真が分からないということは、エルフには天文学の知識がほとんど無いのだろう。


「うんと、そうだな……、それがこの世界の姿なんだ」


 きょとんとする彼女に、俺は知っているかもしれないと思いながら説明をする。


「その青く丸い物が俺達の大地だ。俺もシルもその上に立っている」


 少しむくれて怒った顔をする彼女。


「レイジ、揶揄からかうな。それでは、下にいるものは落ちてしまうではないか」

「えぇと、重力はその球の中心に向かっているから落ちないんだよ」

「ジュウリョクとは何だ」

「俺達は地面に立っているだろう。それはこの球の中心に向かって引っ張られているからなんだ」


 そう言って、ちょうど手に持っていたボールペンを落として見せた。ボールペンは落下し床へ転がる。当たり前だが……。


「これが重力だ」


 彼女は、その様子を見て大笑いだ。


「レイジ、下にモノが落ちるのは当たり前では無いか。この球が我々の大地だと言うのなら、なぜ中心にそれが向かうのだ。モノは下に落ちる、これは普遍の事実だ」


 質量が……、と言いかけて辞めた。

 たぶん、シルにいくら説明しても分かってもらえないだろう。それに、重力については、俺の世界でも未だによく分かっていないのだ。彼女に説明するのは無理だと思い、諦めて笑わたままになることにした。


「しかし、レイジの持ち物の文字はどれも読めぬ。レイジもアルデアンの文字は読めていないのか」

「うん、そうなんだ」

「それは気づかなかった。不便を掛けたな。気になる文字があれば、私が読むから言ってくれ。必要なら文字も教えよう。アルデアン語はエルフ語とは違うのだがな」


 彼女はそう言って笑顔をくれた。


「ありがとう、助かる」


 俺は礼を言うと腕時計を嵌めなおし、名刺入れを上着のポケットに戻した。

 他の物は全てバッグのなかへ放り込む。


「レイジ、それは何だ」


 彼女は俺の腕時計を見て尋ねた。


「これは時を正確に測るモノだ。それと、この周りについている円形のものは、複雑な計算ができる装置だ。まだ俺も不慣れなんだけどね」


 彼女は、腕時計の秒針が動くのをまじまじと見ている。


「どうやって動いているのだ」

「日の光りを……、その……、マナに変えて、そのマナをこのなかに蓄えて動くんだ。だから日の光りがある限り止まらない」


 太陽光発電で電気を作り……、なんて言ってもまた笑われるだけだと思い、マナという言葉で誤魔化した。


 彼女の目が輝く。


「新しい魔道具か」

「ま、まぁそんなところだ」


 マナという言葉は本当に便利だ。俺は彼女に、腕時計の見方を簡単に説明すると、とても感心していた。


「とても正確に動いている。凄いものだな」

「そうだな。それじゃあその……、傭兵団ギルドだっけ。そこに案内を頼む」

「分かった」


 彼女はレイピアを脇に差した。俺も再び『聖剣ガルディア』を持たされ、ベルトに差す。再びのスーツ剣士である。語呂だけだといつぞやの時代の企業戦士のようだが、見た目はまったく別物である。


 部屋を出て鍵を掛け、一階へ降りて行くと、彼女が主人に伝えた。


「もう一泊する。そのままの部屋を頼む」

「かしこまりました。同じく百十六マールでございます」


 シルは銀貨一枚と、大小の銅貨四枚を支払った。

 銀貨が一枚百マールであることは確信できた。




 傭兵団ギルド支部は、石橋を渡ってすぐ右側の建物だった。

 さっそく看板の文字をシルに読んでもらうと、正式名称は『神聖アリアフィール帝国傭兵団ギルドベイリンガル支部』と言うようだ。


 受付へ行くと、彼女が尋ねてくれた。


「すまない。言語、特に文字の読解に長けた者は、このギルドにいるか」

「はい、少々お待ちくださいね」


 受付の若い女性は、笑顔でシルにそう言うと、後ろの扉を開け奥へ入って行った。

 すぐにその女性に続き、濃紺のローブを着た男が出て来た。


「支部長代理のクレモンドと申します。文字の読解をご希望とか」

「あぁそうだ。レイジあの紙を見せてくれ」


 彼女に言われ、上着のポケットから名刺入れを出して、クレモンドに一枚渡した。渡したときに、軽くお辞儀をしてしまったのは、営業マンとしての染みついたクセだろう。

 クレモンドは名刺をしばらく観察していた。


「これは、とても見事な印ですね……。この紙も丈夫です、素晴らしい製紙技術だ。切り口も正確で非常に真っ直ぐだ。あなたは変わった服装をしていますが、どちらの方なのでしょうか」


 再び、名刺の製紙技術と印刷技術で感心された。クレモンドの問いには、シルが答える。


「それがそこに書いてあるのだ。読めるか」


 クレモンドは、再び名刺を眺める。


「正直申しまして、私には理解できません。ただ、ザルツにいたときに見たことがある文字です。あぁ、私はザルツ出身の学士なのです。言語を専攻しておりまして、この世界の言葉は大概理解可能なのですが、これは……、古代文字の類ではないでしょうか。考古学は残念ながら専門外です」


 彼の言葉に衝撃を受け、絶望から全身の力が抜けていくのを感じた。


 ……古代文字。


 俺の国の文字が古代文字だなんて、そんな馬鹿なことがあるか……。ここは遥か未来だとでも言うのか。

 頭のなかによぎったことは、俺の知っている文明が滅亡したのちの世だ。未来への時間旅行の線が今のところ濃厚となった。

 帰還は半分諦めかけていたが、これでほぼ絶望的となった。


 シルが続ける。


「ザルツの学士殿であったか。その学士殿が解らぬのでは、お手上げだな」

「ザルツ本国へ行けば、考古学専攻の者がおりますので、解するものがいると思うのですが。ご紹介いたしましょうか」


 彼女は少し考えてから俺に尋ねる。


「レイジ、どうする」


 首を横に振り、絶望感を振り払い考える。

 ザルツまでは馬車で一か月と言っていた。一文無しの今の俺には旅費が無い。到底たどり着け無いだろう。やはり仕事を探して旅費を稼がなければならない。

 いずれにしても、ザルツに行けば何か手がかりが掴めるのだ。行くしかないだろう。


「た、頼みたい……」


 俺はようやくそう答えた。


「分かりました。少々お待ちください」


 クレモンドは一度奥へ戻って行った。


「シ、シル、俺は……、すぐには帰れないことが解った。というか、帰れるのかどうかすら判らない。だから仕事を探さないと……。手伝ってもらえないか」


 今の俺には、このエルフの少女しか頼れる者がいないのだ。


「ならばレイジ。私と共にいて欲しい。ここで傭兵団を設立しよう」


 シルは懇願するような眼で俺を見つめた。


 ……ダメだ、戦争なんて俺には無理だ。人を殺すのも殺されるのもいやだ。


「む、無理だよ。俺に傭兵なんて出来ないよ」


 クレモンドが奥から再び現れた。手には筒状に丸めた、蝋印した黄色い紙を持っている。


「こちらが紹介状になります」

「すまぬ、ありがとう」


 シルは銀貨十枚をカウンターに置いた。


「今回は読解できませんでしたので、紹介状の分だけで結構でございます」


 クレモンドはそう言うと、銀貨二枚をそこから拾った。


「すまないな。ありがとう」


 その様子を見て俺は、自分の愚かさを痛感する。紹介状をもらうのにもカネがかかるのだ。それをまた、彼女に払わせてしまった。


 クレモンドは一礼して奥へ消えて行った。


 シルが呟く。


「レイジに仕事は無い。傭兵以外はな」


 どういう意味だろうか……。


「レイジはアルデアンの民では無いのだろう? だから、雇ってくれるところは傭兵団しか無いのだ。特に今は戦時中だ。聖騎士団は容赦しないぞ」


 余所者には仕事を与えてもらえない、ということだろうか……。


「だけど、俺に人殺しはできない。なんとか頼むしか無い……」


 彼女は呆れた顔だ。


「解らないのであれば、やってみればいいことだ」


 居ても立っても居られなくなり、傭兵団ギルド支部を飛び出した。


 ひとまず、昨日彼女に連れて行ってもらった、軽食屋へ向かう。

 学生時代にホールでウエイターをやった経験がある。働いた場所や店の名前などは、やはり記憶に無い。


 斜め向かいの軽食屋へ飛び込む。彼女は後ろから着いて来ていた。


「いらっしゃいませ」


 昨日の若いウエイトレスが出迎えてくれた。


「あの、仕事を探しているんですが……」

「あ、はい。少々お待ちくださいね」


 ウエイトレスは笑顔で答えた。すぐに奥から、白いコック服を着た男が出て来た。


「仕事を探しているって?」

「はい、昔ウエイターをやっていた経験があります。皿洗いでも注文取りでも、何でもやりますので」

「そうか、経験者なら助かるな。キミは爽やかだし、ホールに出てもらおうか」


 一軒目から凄く良い反応だ。雇ってもらえるかもしれない。シルは俺を傭兵にしたくて脅かしただけだったのだろか。


「それじゃ戸籍を見せてもらおうか」


 コック服の男は手を出した。


 ……戸籍?


 俺はこの国の人間では無い。当然戸籍なんて物、あるはずが無い。


「戸籍、ですか……。私はこの国の人間ではありません。ですから戸籍はありません。でも、どうしても仕事が必要なんです」


 コック服の男は落胆の表情を浮かべた。


「あぁ、異国の者だったのか。ごめんね、この国では戸籍が無いと人を雇えないんだ。特にいまは戦時中でしょう? 聖騎士団の目が厳しくなっててねぇ。ウチも正直人が欲しいんだけど、伯爵様に睨まれたら店潰されちゃうからさぁ……」


 シルが俺に、仕事は無いといった意味を理解した。


 ……だが諦めるわけにはいかない。


 俺は軽食屋のコックに礼を言って店を出た。

 石橋を渡ったところにある、高級そうなレストランに入る。


「いらっしゃいませ」


 コック服を着た髭の男が出てきた。


「申しわけありません……。あの、仕事を探しています。雇ってもらえませんか」

「あぁ、募集はしているよ。戸籍見せてもらえるかな」


 ここでもやはり戸籍と言われる。


「戸籍は……、ありません……」


 そう答えると、髭の男は冷たく言い放った。


「無いのか。なら無理だな、傭兵にでもなりな」

「そうですか……、すいませんでした」


 俺は高級レストランを後にする。


 その後、一旦石橋を渡り酒屋にも入ってみる。棚に酒類のビンを並べていた主人らしき男に声を掛けた。


「仕事を探しています。何かやらせてもらえませんか。何でもします」

「すまねぇが無いね。他所を当たってくれ。……そっちのエルフさんには、いい仕事を紹介できるな。純粋種のエルフなら客取り放題だぜ」


 ニタニタといやらしい顔で、シルの身体を舐めるように見る。


「無礼な!」


 シルは怒鳴りつけるとレイピアを抜いて、酒屋の主人の目の前へ突き付けた。主人は驚いて後ろへひっくり返える。

 俺は慌ててシルをなだめた。


「次に無礼を言ったら斬り捨てるぞ」


 彼女は酒屋の主人を睨みつける。本当に斬り捨てそうだったので、俺は彼女の腕を掴み慌てて酒屋を出た。


 その後も厩舎、雑貨屋、服屋などを回ってみるが、やはり戸籍が無ければ雇用してもらえなかった。






 五差路へ戻り、薄暗くなった石橋の上で途方に暮れていた。

 ずっと後ろで見ていたシルが、俺の手にそっと触れ声を掛けた。


「レイジ、あなたには傭兵しか道は無い。アルデアンではそれが普通なのだ。それにアリアフィールの傭兵ならば、敵はアラジスタだ。人を斬ることはあまり無い」


 人狼族ガイナックが、風呂で教えてくれた死人しびとのことを思い出す。


 仕事探しの結果は、彼女の言う通り惨敗だった。俺は傭兵になるしかないのだろう。

 いつまでも彼女の世話になってばかりはいられないし、ザルツ行きの旅費を早く稼がなければならない。


「解ったよ……。シルの言う通り傭兵になる。どうすればいいのか教えてくれ」


 俺の言葉に、彼女の顔はぱぁっと明るくなる。そのまま意気揚々と続けた。


「この街にも傭兵団ギルド支部がある。そこでまず傭兵としての登録を済ませる。その後に傭兵団の設立申請をする。ただ受付は夕刻までなのだ、今日はもう遅くなってしまったから明日だな。一度宿へ戻ろう」


 俺の無駄な仕事探しで、彼女に余計な負担を掛けてしまった。彼女の言うことをすぐに受け入れることが出来れば、今日申請することができたのだ。

 



 部屋に戻ると彼女は、白銀鎧を脱ぎタンスにしまい白い下布姿になった。


「今日は浴場を先にして、そのあと美味しい物を食べよう」


 彼女は嬉しそうだ。やはりエルフとは言え女の子、美味しい食事は嬉しいのだろう。

 俺はまた、食事代のことが気になっていたが素直に従った。

 今日も朝食のパンしか口にしていない。昨日に続き空腹なのだ。彼女はそれで普通のようだから、この世界は一日二食なのかもしれない。




 宿屋を出て公衆浴場へ向かう。


 今日も彼女から五マール銅貨を受け取り、彼女と別れなかに入る。


 ここは相変わらずの混みようだ。

 今日はあの人狼族ガイナックはおらず、一人で静かに入った。彼は食後に来るのだろう。



 公衆浴場を出ると、ちょうど彼女も出て来たところだった。濡れた髪とほんのり赤い肌が妙に艶っぽい。


「行こうか」


 彼女はそう言って優しく微笑んだ。



 五差路に出る。


 彼女は、俺が冷たく雇用を断られた、あの高級レストランに入って行った。

 店に入ると、綺麗な若いウエイトレスが迎えてくれる。昼間対応した髭の男は奥の調理場にいるようだ。


「いらっしゃいませ」


 ウエイトレスはシルを一度見たが、すぐに窓際の席へ案内してくれた。俺は彼女の向かい側へ座る。

 ウエイトレスはメニューを配り、水入りのグラスを二つ置いた。

 彼女はメニューを見ずにすぐに注文を始める。


「オルニアンのパスタを二人分、それとネールマータを二つ、サプリンも二つもらおうか。それと食前に白フィーネのいいやつをくれ」

「かしこまりました」


 ウエイトレスが戻ると、シルは嬉しそうに微笑む。


「ちょっと奮発するぞ。今日はお祝いだからな」


 一体なんのお祝いかと思っていると、間もなくウエイトレスが、カートを大事そうに運んで来た。

 カートの上には、水がたっぷりと入った木製の樽が置いてあり、そのなかに深い緑色をしたボトルが沈めてある。氷が無いのだろうか、水で冷やしているようだ。

 ウエイトレスは、細長いグラスをテーブルに二つ置き、ボトルの封を解いた。


 爽やかな炭酸が鳴る。


 ウエイトレスがグラスへ優しく注ぐと、ボトルから透き通った金色の液体が流れ出し、小さな泡を弾かせた。どうやらこれはスパークリングワインのようだ。

 ウエイトレスは二人分注ぎ、再びボトルを静かに水の底へ沈めた。


「レイジ、明日は我が傭兵団の設立記念日。この白フィーネはその前祝いだ。乾杯しよう」


 微笑む彼女。お祝いの意味がようやく解った。


 俺は帰ることを完全に諦めたわけでは無い。傭兵になることを承諾したのは、日銭とザルツ行きの旅費を稼ぐためだ。だが、彼女にとっては、旅の目的がひとつ達成されたということなのだろう。

 しかし彼女は、無駄だと解っていた俺の仕事探しに、一日中付き合ってくれたのだ。今、彼女をがっかりさせることは無い。


「シル、今日一日ありがとう。まだもう少し世話になることになったけど、よろしく頼む」

「良いのだ。それが私の旅なのだから……。乾杯、レイジ」


 彼女は笑顔でグラスを少しだけ上げたので、俺もそれに応える。


 一口含むと、口のなかでよく冷えた炭酸が弾ける。汲みたての井戸水は、水道水とは違ってよく冷えているものだ。


「シルはその……、『ガルディアの騎士』を、どうして傭兵にしたかったんだ」

「『ガルディアの騎士』は『赤子のように舞い降りる』のだ。大きな戦いが待っているから、戦闘を覚えてもらわねばならない。まぁ、それだけではないのだがな」


 俺は正直今も傭兵なんて怖いし、一昨日のような恐ろしい目に合うのかと思うと気が滅入る。

 人狼族ガイナックも言っていたが、アラジスタ軍の大部分は人では無く、死人しびとやゴブリンらしい。そんな化け物と、俺は本当に戦えるのだろうか。死人がどんなものか良く解らないけれど、ゾンビ物のホラー映画でさえ、怖くて見ることはできなかったくらいなのだ。

 それに、もしも、アラジスタ軍の騎士と対峙することになってしまい、相手を殺してしまったとき、俺はもう元の生活に戻れなくなる気がする。

 人は殺したくない。人殺しはいやだ。


 しかし、彼女には既に借りが出来てしまった。それは返さなければならない。


「俺がここにいる間は、シルの役に立てるよう頑張るよ」


 俺の言葉に彼女は笑顔で答える。


「それは逆なのだがな。私はレイジのために存在しているのだ」

「そうなのか」

「あぁそうだ。そのために幼い頃から英知を継承して来たのだ」


『ガルディアの騎士』のために、彼女は存在している。幼いころからと言っていたから、そのための教育をずっと受けて来たのだろう。



 ウエイトレスが、パスタと生野菜の皿を運んで来た。パスタは俺がよく知っているナポリタンだった。


「オルニアンのパスタだ。オルニアンは、真っ赤な野菜で酸味が強いのだが、熟すと甘くなるのだ」


 彼女は嬉しそうに食べ始めた。続いて俺も食べてみる。


 ……これはトマトだ。

 なるほど、オルニアンというのはトマトのことだ。ひとまず知っている味なので安心した。サプリンは生野菜サラダだった。


「これはおいしい、気に入ったよ」

「そうだろう」


 彼女は満面の笑みだ。俺が気に入ったことを喜んでいるようだ。

 先に食べ終わった彼女は、俺が食べている様子を終始笑顔で嬉しそうに眺めている。少し気恥ずかしい。昨晩もだが、俺が食べているのを見て楽しいのだろうか。


 ウエイトレスが来て、残りの白フィーネを二人のグラスに注いだ。それでボトルは空になった。

 彼女はそれを一気に飲み干す。心なしか顔が赤くなっているようだ。

 俺がちょうど食べ終わる頃、ウエイトレスがカップに入った飲み物を運んできた。中身は、ネールと呼ばれていた珈琲によく似ているが、香りが高く量が少ない。

 飲んでみると、これはエスプレッソだった。ネールより苦みが強く、芳醇な香りが口のなかに広がる。


「凄くいい香りだ」

「うんうん」


 少し顔が赤くなった彼女も、随分と満足気である。


「シル、ご機嫌だね」


 満足そうな彼女を見て、俺もつい笑顔になった。


「今日はとても重要で、大切な日になったんだ。子どもの頃からずぅっと待ってた日だったからな。それに、美味しい食事は楽しい。ネールマータは、家で食事の後よく飲んでいた。白フィーネはな、お父様のをくすねて、こっそり姉さまと飲んでいた」


 彼女はちょっといたずらな顔である。


 話しの内容から、彼女はやはり良いとこのお嬢様という感じがする。エルフの貴族の娘、そんな感じだろうか。


 食事を終えると、彼女はウエイトレスを呼び会計を伝えた。

 戻って来たウエイトレスに金額を訊くと、百九十三マール。宿屋の金額が二人で百十六マール。二人分の宿賃より高かった。

 シルは銀貨二枚を受け皿へ乗せると、ウエイトレスは銅貨三枚をお釣りとして持って来た。シルは銅貨のチップを一枚その受け皿へ置いた。


「帰ろうか」


 支払が終わると、彼女はご機嫌そうに微笑んだ。




 俺達は高級レストランを出た。


 シルはほろ酔いで、店を出るときに出口の石畳につまずいてしまった。

 咄嗟とっさに彼女の腕を掴み引き寄せる。少し力が入りすぎて、俺の腕のなかに抱き締める形になってしまった。


 ふわりと甘酸っぱい香りがする。

 彼女は少し潤んだ瞳で俺を見つめる。


「す、すまない。少し酔ったようだ。支えてくれるか」

「あ、うん。大丈夫だよ」


 俺はもたれかかってきた彼女の腰を抱いて支えた。

 良く引き締まりくびれたウエスト、柔らかい肉体。白い下布越しに感じる彼女の肢体に、心臓の鼓動が早まっていた。

 甘く切ない香りがする彼女に、俺はすっかり魅了されてしまったようだ。このまま元の世界に帰らずに、このエルフの少女といるのも悪くない、そんな気にさえなっていた。




「鍵を頼む」


 俺は宿屋の主人から鍵を受け取ると、彼女を支えたまま部屋へ戻った。寝るだけだと思いランタンは点けなかった。


 彼女をベッドへ寝かせる。


「レイジ、身体が火照って怠いんだ。服を……、脱がせてくれ」

 

 その言葉には、さすがに息を呑んだ。



 窓から差し込む微かな月明りを頼りに、緊張しながら彼女の白い下布を脱がせる。更に高鳴る鼓動。


 下には薄手のキャミソールを着ていて、白く美しい素肌が透けて見えていた。

 下着は着けていない。

 程よい大きさの、柔らかそうな乳房の膨らみが分かる。彼女のプロポーションは完璧だ。どこを見ても非の打ちどころが無い。

 俺は湧き上がる衝動をこらえて、彼女の隣に横になった。 


「『ガルディアの騎士』よ……」


 彼女は潤んだ瞳で見つめ、俺を優しく抱きしめた。左腕に柔らかい乳房を感じる。



 僅かな沈黙の後、彼女のとても小さな声。



「私の願いは叶った……」


 その後すぐに、静かな寝息が聞こえる。


 彼女の周りには、再び青く煌めくものが現れた。

 あまりにも美しいシルの姿に、このまま寝込みを襲いたくなったが、そんなことをすれば、明日が俺の命日になるだろう。繰り返すが、彼女は恩人であるし、俺は礼儀をわきまえた大人の紳士なのだ。

 そう自分に言い聞かせ、首を小さく振り邪念を払った。




 明日はいよいよ傭兵団の設立だ。


 傭兵なのだから当然戦場に出るだろう。俺の記憶にある故郷は、戦争の無い平和な国だった。命のやり取りをするような戦いを俺は知らない。そんな俺が、殺し合いをする戦場にいられるのか不安だ。



 だが、この子と一緒ならきっと上手く行く、根拠は無いが、なぜかそういう気持ちになっていた。

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