1.2.2 第二項 覚えの無い世界
初稿:2018.04.21 更新:2018.05.10
宿屋から出ると外はすっかり暗くなっていた。
周りの木造の建物からは、柔らかい灯りが漏れている。
「サンドウィッチでいいか」
俺に対して言った言葉では無いようだ。
彼女はそう呟くと、メイン通りへ出て、シンボルの石橋を渡り、三軒目の左のレストランへ入って行った。
このレストランは、軽食屋という雰囲気である。
五十ほどの席が用意され、帯刀した軽装の男女が四組、十五名ほど食事をしている。カウンターで酒を飲む客もいるので、夜はバーもやっているようだ。
彼女は窓際のテーブル席に座ったので、俺はその向かいに座る。
若いウエイトレスが、メニューとグラスに入った水を持って来るが、例のごとく読める文字は無い。
「ミールのサンドウィッチを二つ、それとネールも二つくれ」
彼女はメニューを見ずに注文を済ませる。
「シル、俺の国の文字が読める人には、どこにいけば会えるかな」
ここがどこだか分からない以上、会社の住所が分かる人に帰る手段を訊くしかない。だが、俺なかの膨れ上がっていく、ある違和感がどうしても拭えないでいる。
「分からぬ、『ザルツ』の賢者ならば解る者がいるかもしれないが、『ザルツ』は遠い。いずれ私も旅の途中で行くことになるが、馬車でも一節、五十日はかかるだろう。明日傭兵団ギルドに行って尋ねてみよう」
……馬車で移動するのか。
この街に入ったとき厩舎を見て、まさかと思ったが、やはり自動車は無いようだ。電気すら無いのだから、馬車の移動が当たり前なのだろう。それならば、この街まで歩いた五時間という距離は、感覚的に近いのかもしれない。
馬車の移動距離が判らない俺には、『ザルツ』という場所までの五十日という距離が判断できないが、彼女の言い方だと相当な距離があるということだけは判る。
俺のなかで、止めどなく膨れていく違和感。
この街の様子を見る限り、その違和感に納得せざるを得ない。
過去へ時間旅行をしてしまったのか、あるいは、まったく別の世界に来てしまったのか。マナという物質がある以上、俺が知っている世界では無いのかもしれない。万が一そうだとすれば、帰ることは絶望的だ。
いつまでも彼女の世話になるわけにはいかないし、ここで仕事を探さなければならないことを覚悟していた。
間もなく、皿に盛ってあるワンプレートのサンドウッチが運ばれてきた。サンドウィッチの横に、不気味な紫色の煉ったものが盛り付けてある。
ようやくの食事である。見た目がどうだろうと関係無い。サンドウィッチを手に取り、一気にかぶりついた。
サンドウィッチは、
食べ方がひどかったのか、彼女は笑って見ていた。
「これは?」
紫色の煉りものを指して訊いた。
「それは、川魚をガッシュナーという液体につけて、発酵させてすり潰したものだ。ガッシュと呼ばれている。おいしいぞ」
その不気味なガッシュという物体を、フォークに取りおそるおそる食べてみる。
生臭さと塩辛さで、吐き出しそうになるのを
俺は目を
「ガッシュはダメか。塩分が高く肉体労働に非常に良い。傭兵には特に人気がある。栄養もあるんだぞ」
口のなかのガッシュを飲み込み、グラスの水を飲み干す。
あっという間に食事が終わってしまった。正直、同じものをあと三皿食べたい気分だ。
ウエイトレスが、大きめの黒い液体が入ったカップを持ってきた。目の前に置かれたカップからは、良く知っている香りがする。
飲んでみると、これは香りも味も珈琲そのものだった。
「これはよく飲んでいたよ。豆を挽いてよく入れてもらっていたんだ」
そうは言ったが、一体誰に入れてもらっていたのだろうか。何故か少し懐かしい気持ちになった。
「レイジの国にも、ネールがあるのだな」
彼女は優しく微笑む。
俺がネールと呼ばれる珈琲を飲む様子も、ずっと微笑んで見ていた。
彼女はウエイトレスを呼んで何かを伝えると、ウエイトレスはすぐに紙袋を持って来て彼女に渡す。
彼女は少し大きめの銅貨六枚を出しテーブルに置いた。
「さぁ、公衆浴場に行こうか」
風呂までご馳走になるのは悪い気がしたが、『分かつ森』を全力で走り、そのあと五時間以上も歩いたのだ。自分でも汗臭いので素直に甘えることにした。
レストランを出ると、石橋を渡ってすぐの五差路を左へ入る。川沿いの
「あれだ」
公衆浴場はかなり立派な建物である。石造りの壁が城壁を連想させ、まるで小さな城というような雰囲気だ。入口は二か所あり男女別々に入るようだ。
「風呂から上がったら、そこの公園で待ち合わせよう。あんまり長いのはゴメンだぞ」
彼女は俺に銅貨を一枚渡し、女性用入口の扉を開け入っていった。続けて俺も男性用入口の扉を開ける。
扉の向こうは、カウンターがある小部屋になっていて、体格の良い髭を生やした男が座っていた。
「あの……」
話しかけると、男は不愛想に答える。
「五マールだ」
銅貨を確認してから男に渡す。この銅貨は五マールということは、先ほどの軽食屋の会計では六枚置いていたから、三十マールだ。
俺はもう一つの奥の扉を開ける。
なかは脱衣所になっていた。
大きい木製の家具が並べて置いてあり、鍵の付いた小さな扉が格子状に並んでいる。ここは判断するにロッカールーム兼脱衣所のようだ。持ち物を入れて鍵を掛け、鍵は浴室へ持ち込む。
タオルは浴室の出入り口に、綺麗に畳まれて置いてある。出るときに一人一枚ずつ取って使用するようだ。
さっそく服を脱ぎ、扉へしまい鍵を掛けた。なかは奥行がかなりあって、持っている剣『聖剣ガルディア』も無事収まった。
浴室に向かう途中、素っ裸のいかつい男とすれ違った。実用的な筋肉が隆々と盛り上がり、いかにも傭兵という風体である。
浴室は屋根の無い露天風呂になっていて、高い石造りの壁で囲まれている。外から見えた城壁のような石の壁はこれだろう。
浴室の入口には、湯がたっぷりと入った大きな樽と、隣にゼリーのような石鹸が置いてある。さっそく、ゼリー状の石鹸を手に取って、身体を擦ってみたが、あまり泡立ちは良くない。
……シャンプーは、……無いだろうな。
そう思って、そのまま一気に頭まで洗った。小さな木製の桶を使い、樽の湯で身体中の石鹸を洗い流す。
プールの様な巨大な浴槽内はかなり混み合っている。風呂好きはこの国の文化なのだろう。
体格で勝てない俺は、隅っこの方で邪魔にならないよう小さくなり、遠慮がちに入浴した。
風呂は本当に気持ちいい。不安感や違和感など、嫌なことをしばし忘れさせてくれる。ここはまるで、露天風呂付の大きな銭湯のようだ。
しばらく人間観察をしていると、獣の耳を持つ男がいることに気が付いた。特徴のある耳と尻尾、体毛がやや多いことを除けば人間と変わらない。そっと近づいて見てみると、身体中に傷跡がある。おそらくこの男も傭兵なのだろう。
獣人種がいることにも驚いて、またいろいろと考えそうになったが、首を振り抑え込んだ。ようやくゆっくりできたのだ、今だけは違和感も忘れよう。
見ていたことに気づいたのか、その獣の耳を持つ男が話しかけて来た。
「よう、兄ちゃん、初めて見る顔だな。びびるこたぁないぜ、王様でも貴族様でも、裸になりゃあみんな一緒よ」
見た目は怖いが、随分と気さくな男だ。笑った口元に光る八重歯が、鋭く牙のようである。
「今日初めて来たんだ。分からないことだらけで困るよ」
「そうか。出身はどこなんだ」
いきなり困った質問をされてしまった。仕方が無く正直に答える。
「記憶を無くしたみたいで、よく分からないんだ」
「そうなのか。まぁあんまり気にするな。どうせ人の命はみじけぇんだ、特に俺達傭兵はな。今日を精一杯生きる、それだけだ」
この男が人なのかどうかはさておき、彼なりの気遣いなのであろう。
「オレの名は『ガイナック』、獣人族でも特に頑丈な人狼族だ。一匹狼の傭兵だぜ。よろしくな」
そう言って握手を求めてきた。人狼族だけに一匹狼か……。
俺は毛むくじゃらなガイナックの手を握る。
「レイジだ。よろしく」
彼は傭兵だと言った。ならばと、この世界の情報収集をしてみる。
「戦争って、どことやってるんだ」
「レイジは、ほんとに何にもしらねぇで来たんだな」
彼は驚いた顔で俺の顔を見た。
「ここ『神聖アリアフィール帝国』と、お隣さんの『アラジスタ王国』で揉めてるんだ。何で揉めてるのかは知らねぇが、俺にとっちゃメシのタネだ。
「ガイナックの
「オレ達獣人族はな、ずっと西にある大陸、『エストルーテ大陸』が出身なんだ。俺たちは、身体には自信があるからな。戦争だって聞いて、こりゃ稼げると思ってよ。結構な数の獣人族が、俺と一緒にアルデアンに入って来たんだぜ」
彼は自分の筋肉を自慢する。
『エストルーテ大陸』にも聞き覚えが無い。だが、今はひとまずスルーすることにした。
「アラジスタは傭兵を雇わねぇ。奴らは、
彼は笑いながら説明する。
「し、
「そうよ、腐った死体とか骨のバケモンとかな。やつらくせぇのなんのって。だが俺達傭兵と違って、あいつらはカネがかからねぇからな。『ザルツ』でも『
しかし、ここには騎士団なんてものがあるようだ。まるっきり中世の世界である。
三国同盟とザルツについての情報が欲しい。特にザルツには、俺の国の文字が読める者がいるかもしれないのだ。
「三国同盟ってなんだ? それと、ザルツについて教えてもらえないか」
「三国同盟は、ここ神聖アリアフィール帝国の東にある三国だ。『レストニア王国』・『ベラヌール王国』・『聖レナーテ王国』による同盟を三国同盟と言う。ザルツはそのもっと東にある最果ての地、魔法と学問が盛んな国家だ」
やはりどの国の名前も記憶に無い。だが、この世界の情勢は少しだけ分かった。
「そろそろ出ようぜ、長風呂は良くねぇ」
「そうだな、ガイナックありがとう、少し分かったよ」
「おう、レイジも出るか」
「そうだな」
もう少し情報が欲しかったが、シルをあまり待たせるわけにもいかない。
俺達は浴槽から上がり、樽の湯で軽く体を流し、脱衣所へ戻った。タオルを取り、荷物を預けた扉の前へ行く。
身体を拭いていると、一つ向こう側の通路から、ガイナックの声が聞こえてくる。
「あぁ、さっぱりしたぜ。なぁレイジ、『出会い酒』ってことで、良かったらこのあと一杯どうだ」
せっかく情報が得られるチャンスだが、外でシルが待っている。それに俺は一文無しだ。しかし『出会い酒』ってなんだろう……。
「すまない。そうしたいんだが、外で人が待ってるんだ」
「そうかぁ。そんじゃまただな」
着替え終わり、彼と一緒に公衆浴場を出た。
シルは公園のベンチに座り、星空を眺めていた。遠目に見ても彼女は美しい。
軽く手を挙げると、彼女はそれに気づいて歩いて来る。
ガイナックは俺を冷やかした。
「女連れかよ。おめぇも隅におけねぇなぁ」
シルを視認できる距離になると、ガイナックは驚いた表情を浮かべた。
「お、おいレイジ。おまえ、純粋種のエルフと知り合いかよ。しかも、飛び切り上玉じゃねぇか」
「純粋種のエルフは珍しいのか」
「あったりまえだろ。奴らは『レイティストアイン』からほとんど出てこねぇ。自由の民となったダークエルフでさえも、ほとんど見ることはねぇぞ」
レイティストアイン……。シルの国の名前だろうか。
そう言えば、宿屋の主人も彼女を見て驚いた顔をしていた。この世界には、ダークエルフもいるのか。
合流したシルはガイナックを軽く睨んだ。
「レ、レイジまたな」
ガイナックは彼女の視線で、逃げるように去っていった。
「獣人族と親しくなったようだな」
「あぁ、風呂で話しかけられた。気さくな良い男だったよ」
「そうか。彼は獣人族のなかでも、特に強靭な肉体を持つ人狼族だ。だが、無作法で私はあまり好きではない」
彼女は人狼族に、あまり良い印象を持っていないようだ。彼女の目には、気さくなところが無礼だと映るのであろうか。
俺達は宿屋への帰路へついた。
宿屋のカウンターで、主人から鍵を受け取り部屋へ戻る。寝るだけなのでランタンは灯していない。
彼女は、レイピアをベッドの脇へ立てかけると、静かにベッドへ入った。
俺は同じベッドだったことを思い出し、少し緊張しながら、『聖剣ガルディア』を立てかけ彼女の隣に横になった。
「隣、ごめん」
「あぁ、気にするな」
少し甘酸っぱい香りがする彼女。
気にするなと言われても、トンデモ美人のシルと異常な接近だ。やはり意識してしまう。
「レイジ、明日は傭兵団ギルド支部に行ってみよう」
「すまない。頼む」
その後静かになる部屋。
静かになった部屋の天井を見つめながら考えていた。
知識はある程度残っているようだが、自分に関する記憶が喪失している。それに、ここがどこだから分からない。極めつけは一文無しだ。俺は明日からどうなってしまうのだろうか。
そしてここは、おそらく俺の知っている世界では無い。
マナの存在、エルフやユニコーン、人狼族が実在していることから、過去への時間旅行の可能性は薄い。そういう歴史的事実を知らないからだ。認めることは難しいが、パラレルワールドのような、全く別の世界に来てしまったと考えるべきだろう。
黒騎士に差された時の激しい痛みを経験した以上、夢で無いことは明らかである。
明日、傭兵団ギルド支部というところへ行って、手がかりが無ければ、仕事を探さなければならない。彼女は俺の面倒を見てくれると言ったが、いつまでも迷惑を掛けるわけにもいかない。
彼女は静かに目を瞑っていた。
窓から差し込む月明りのなか、彼女の美しい姿が白く浮かびあがっている。
「迷惑などではないぞ」
彼女はそっと口を開く。
彼女に見とれていた俺は、慌てて天井を見た。考えていることが見透かされたかのようで驚いた。
「私はレイジに、ずっと逢いたかったのだ……」
静かな彼女の寝息だけが残った。
やがて、彼女の周りに、不思議な青く煌めく不思議な輝きが現れる。
とても小さな青い光の粉は、ゆっくりと現れては消える。
……これは、なんだろう。とても綺麗だ。
彼女の寝姿は、月明りと青い煌めきに照らされ、とても幻想的だった。
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