第二節 ベイリンガルの街
1.2.1 第一項 湧き上がる違和感
初稿:2018.04.21 更新:2018.05.10
空は、
「見えてきたぞ。ベイリンガルの街だ」
腕時計は午後六時四十六分、ルミブライトの針が僅かに光っている。
今日一日、シルがくれたパン一切れしか摂っていない。彼女は街まですぐだと言ったが、既に五時間以上歩いている。エルフの距離感はまったく理解できない。
昨晩は、『
入口には、街の案内看板らしきものが立っているが、見たことの無い文字だ。
やはり知らない異国の地なんだと思った次の瞬間、街の様子を見て愕然とした。
メイン通りには、商店らしき建物が立ち並んでいるが、舗装されておらず街灯も無い。電気そのものが無いようだ。
綺麗に人の手は入っているが、その姿はまるで、中世ヨーロッパの田舎町そのものである。
……おかしい。
俺は違和感を感じ始めていた。
「今日はもう、日が暮れるから宿を取ろう」
街に入ってすぐ左手には馬屋があり、奥に厩舎が見える。自動車を見ていないが、まさか馬が交通手段なのだろうか。
彼女はメイン通りを真っ直ぐ進み、石造りの建物が並ぶなかを歩いて行く。様々な店舗があるようだが、俺にはやはり、どの店の看板も読むことはできない。
途中、甲冑を着た男女数人とすれ違う。姿がさまざまなので傭兵だと判断する。
街の中央には、南北を分断するように川が流れている。その川を渡るための石造りの大きめの立派な橋梁は、この街のシンボル的存在のようだ。
街の住人達は、現代人のファッションとは大きくかけ離れた服装である。綿製の簡素な物で、ファッションなどとはとても縁遠い服を着ている。
彼女はシンボルの石橋を渡り、すぐの五差路を斜め左へ入って行った。
左手には公園のような人口の緑地がある。木製のベンチがいくつか置いてあり、カップルが数組座っていた。
彼女は一本目を右へ曲がり裏路地へ入ると、三軒目の店の前で立ち止まる。
「ここが良さそうだ」
ここが宿なのだろうか。看板の文字が読めないため判断がつかない。
彼女が選んだ宿は、木造でとても簡素な造りだった。
「すまないが、手持ちが心配でな。ここで勘弁してもらいたい」
その言葉を聞いて俺は、支払いができるのか不安になり、慌ててバッグのなかから財布を出した。大きめの黒いチャック付きの財布だ。
「なんだ、それは」
「あぁ、財布だよ。ここいくらかな」
そうは言ってみたものの、ここに入っている俺の国の通貨は『円』だ、おそらく使えないだろう。だが、どこかで両替ができるはずだ。
一応、そのなかから一万円札を一枚を出し、彼女に見せる。
「あの……、さ、これ使えるか」
「なんだその紙は」
やはり使えないようだ。それなりの金額が入っているが、これが使えないのならば、両替をするまで一文無しということになる。
「俺の国の紙幣なんだが……。やっぱりこれは使えないみたいだな」
「シヘイとは何だ」
紙幣が無いのか。それともエルフだから知らないだけなのか。
「おカネのことだ。ここには通貨が無いのか?」
「通貨はもちろんある。だが、そんな紙切れなど無い。なぜそんなもので買い物ができるのだ」
「国がこの紙切れを、
紙幣の説明を簡単にすると、彼女はしばらく考えていた。
「なるほど、約束手形のようなものか……。だがレイジ、アルデアン大陸のどの国にも、そのような手形を作る国は存在しない。せいぜい業者同士で交わされるくらいだ」
彼女の言葉をそのまま取れば、両替すらできないということだ。紙幣を発行しない国など無い。やはり何かおかしい。
俺のなかで膨れていく違和感。加え、両替ができなければ、帰るための旅費どころか、今夜の食事代すら無いという事実。
空腹感と睡眠不足が、不安を余計に助長する。
「レイジ?」
考え込む俺の顔を、彼女が覗き込んだ。
「支払いを心配しているのか? レイジの分は、私が持つから安心してくれ」
彼女は笑顔でそう言ってくれた。野宿の心配に加え、食料を買うことができないという不安感からは、ひとまず解放されることになった。
「本当に助かる。ありがとう」
彼女の好意に、思わず涙が溢れそうになる。
相手はエルフとは言え、いかにも年下の、しかも女の子の世話になることになろうとは……、自分が本当に情けなくなってくる。
「一泊頼みたい。いくらだ」
宿屋の主人はシルを見て、少し驚いた表情をしたが、すぐに俺を見てから彼女に目線を戻した。
「お二人様ですね。お一人様五十八マール、合計百十六マールです」
この国の通貨はマールという単位のようだ。
彼女は、ザックから小袋を取り出し、銀貨一枚と銅貨四枚を出した。銅貨は大きさの違うものを二種類払っていた。
この国の通貨は、鉱物をそのまま鋳造して使用されているようだ。
「こちらです」
主人は鍵を持つと、俺達を二階へ案内する。
「ごゆっくりどうぞ」
主人はシルに鍵を渡すと、行ってしまった。
あれ、俺の部屋は……。
「レイジ、どうした。少し休もう」
一瞬考えたが、すぐに同室であることを理解する。
「あ、あの……さ」
動揺したのが分かったのか、彼女はすぐに答える。
「あまり手持ちに余裕が無いのだ。同室ですまないがよいか」
「も、もちろんだ。ありがとう」
俺はそう答える以外無いだろう。
部屋に入ると、彼女は顔を真っ赤に紅潮させた。
「あっ、あの主人、私達を夫婦だと思ったようだ」
意味が判らず部屋を見渡すと、すぐにその理由が解った。部屋に設置されていたベッドは、大きなダブルベッドだったのだ。
「お、俺は床でも大丈夫だ」
「いや……、レイジも戦闘をしたのだ、疲れただろう。し、仕方ない……、今日は一緒に寝よう」
本音を言うと、寝不足と歩き疲れで、今すぐにでもベッドに倒れ込みたいくらいだったのだ。
「す、すまない。な、何もしないから安心してくれ」
彼女は微笑みを返してくれた。
恩人に手を出すほど俺は馬鹿じゃない。礼儀は知っているつもりだ。
彼女は廊下の
彼女はミスリル製の白銀鎧を脱ぎ、白い下布だけになると、大きな鍵付きのタンスへ馬具と一緒に入れた。
俺はベッドに倒れ込みたい衝動を抑え、左肩に穴の開いたビジネススーツから、ポケットの中身を全てテーブルに出した。持ち物を確認すれば、記憶が戻るかもしれないと思ったからだ。
上着には名刺入れのほかに、スマートフォン、ジッポライターが入っていた。
「何をしているのだ」
「記憶を思い出すものがあるかなって思ってね」
指紋認証のスマートフォンを起動し、電話帳を検索してみるが、覚えの無い名前が延々と続く。自宅と登録されていた番号を見つけ、掛けてみようと思ったが、電波が無い。それどころかキャリアも検索できていない。
通話は諦め、保存してある写真を見てみる。
どこかへ旅行に行ったのだろうか。海を背景にした写真が数枚記録されていた。女性は映っていない。友人だろうか、三人の覚えの無い男性が、自撮りで肩を組み笑顔で映っていた。他に写真は記録されていない。
俺に子供はいないようだ。いれば真っ先に出て来るだろう。
女性の写真は一切見当たらない。嫁どころか、恋人すらいなかったようだ……。
「なんだそれは」
隣で見ていた彼女が声を上げる。
「携帯電話……。判らないのか?」
「ケイタイデンワ?」
街灯も無い場所だ。それに彼女はエルフ。
携帯電話を知らない彼女には、説明しても分からないだろうと判断し、適当に誤魔化すことにした。
「うぅんと、そうだな、俺の国で使える、家族や友人と話しができる……、装置……、かな。でも、ここでは使えないようだ」
「なんだと……、そんな魔道具など聞いたことが無い。先ほどの手形の話しと言い、紙の製造技術といい、レイジの国は、随分と魔術と文明の発達した国だな」
……魔道具か。俺は苦笑いを返す。
部屋に鏡は無い。
自分の顔が思い出せない俺は、記録してあった写真に、俺が映っているかもしれないと思い、彼女に写真を見てもらう。
「このなかに、俺はいるか」
写真を見てさらに驚く彼女。
「な、なぜレイジの姿がここにあるのだ……」
「これはカメラという機能で撮影した……、いやそれはいい、俺はどれだ」
「ま、真ん中だ」
これが俺か……。
至って平凡な感じの男だ。ハンサムでも無いしブサイクでも無い。可もなく不可もない。
続けて発着履歴を参照するが、覚えのない会社名や部署の名前ばかりだ。俺はスマートフォンを、仕事でしか使っていなかったようだ。
なんとも言えない寂しい気持ちになった。
履歴に『
開いてみると、高校の制服だろうか、制服を着た黒髪ロングの、可愛いらしい女性の写真がプロフィールに添付されていた。
苗字が同じだからこれは俺の妹だろう。制服を着ているのだから、嫁であるはずがない。
念のため、試しにカメラも起動してみるが問題は無いようだ。そのままシルをフォーカスし一枚撮影した。シャッターの音にも彼女は驚いていた。
美しい少女の写真が一枚、記録された。
ここには電気が無いようだから、あまりいたずらに使うのはまずい。スマートフォンの電源は落とした。
ジッポライターについて考えてみたが、あの森で気が付いてから、タバコを吸いたくなったことは無い。タバコを持っていないし、これは俺が吸うためのライターでは無いだろう。名刺の肩書が営業部だったのだから、取引先相手のタバコに火を点けるときに使っていたものだと判断するのが妥当だ。
試しに点けてみるが、無事に火は点いた。
「レイジは炎のマナを持っているのか」
彼女は再び驚いた表情で尋ねた。
「あ、いや違うんだ。これもその……、マナが封印されている……、装置だ」
適当なことを言って誤魔化した。
「ほう、マナジュエルのようなものか。しかし、それは宝石では無いが……」
ジッポライターのオイルは、補充しなければすぐに飛んでしまうだろう。バッグにオイルが入っていると助かる。
バッグを開けようとしたところで彼女に止められた。
「レイジ、あなたの持ち物には、私も興味はあるが、とりあえず食事と公衆浴場へ行かないか。私はお腹が減った」
「そうだな。シルの世話になる、すまない」
自分の姿と妹がいるということは分かったが、結局記憶に変化は無かった。
スマートフォンの操作であるとか、ジッポライターの扱いとか、そういった『モノ』の知識に問題は無いようだ。
持ち物を全てバッグへ放り投げタンスへ入れ、彼女が鍵を掛ける。
彼女は、白い下布にレイピアだけ腰に差した。俺も『聖剣ガルディア』と呼ばれるあの剣を持たされ、腰のベルトへ鞘ごと差した。
ビジネススーツに剣というのは、なんともシュールな姿である。
部屋の鍵を閉め、一階へ降りていき、主人に鍵を預ける。
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