自称画家と似非の自殺願望-2

「はい、ここが俺の部屋」


 フランツが自室の扉を開けると、きい、と蝶番が甲高く鳴いた。

 まだ部屋には入らず、狭い廊下の中後ろについてきている筈の少女に肩越しに振り返る。


「ちなみにお前の部屋はこの隣。流石にいつまでもソファで寝起きは可哀想だから、今日からはこっち使ってね」

「ええっと、おじゃまします」

「お前……話訊いてる?」


 自室の左側を指差して説明したはいいが、それには答えず部屋に入っていく少女にフランツは顔を顰める。

 お邪魔します、と礼儀正しいのは結構だが、せめて話を聞いてほしい。今までの態度からして悪戯好きではなさそうだから、ただはしゃいでいるだけなのだろうが。

 これでは、口頭で何の絵を描いているか説明しても分かって貰えなかっただろうなぁ、と他人事のように思う。

 室内に足を踏み入れた少女が二、三歩だけ進む。やれやれと肩を竦めて、フランツも後に続いた。

 明かりのない室内は、ほぼ真っ暗に等しかった。照明を点けた廊下から光が少しだけ差し込んではいるが、扉の形に照らされた床と転がった私物以外の輪郭は殆ど見えない。


「今電気点けるから、あんまり歩き回らないで。ちょっと危ない」


 あまり大した効果はないだろうが、一応言うことは言っておく。

 部屋の出入り口で足を止めて、扉の脇の壁に指先を這わす。いつも使っている電気のスイッチを探り当てて、二つあるうちの両方を取り敢えず押し込んでおく。何で二つあるんだろう、とどうでもいいことを考えながら。

 ぱちぱち、と何度か明滅してから、蛍光灯が白い光を灯した。しかし数秒後、まるでノイズが走るように軽く速く光が瞬く。


「あー……あとで蛍光灯買わないとなぁ」


 というか、買ってくればよかった。後悔と共にぼやくフランツの足が、こつん、と、床に転がっていた汚れたパレットを蹴飛ばした。

 先に部屋の中に入っていた少女は、フランツの傍で手で目を覆って何度か瞬きを繰り返していた。すぐに目が慣れたらしく、おずおずといった風に腕を下ろす。

 そうして部屋の内装を視界に入れた少女が、「わあ」と感嘆の声を漏らした。

 部屋にはクローゼットやベッドなどの必要最低限の家具があるだけで、娯楽の為の電子機器などは一切ない。せいぜい本棚が一つあるだけだが、中にはぎっしりと絵の資料や写真などが詰め込まれていた。窓にかけられたカーテンは色褪せて、上の部分には薄っすらと埃を被っていた。

 そしてそれらの下、絵の具がこびり付いた床には絵の具の容器や絵筆を初めとした画材が転がっていた。ついでに、何を形作っているのかも分からないような小さなオブジェが、床に置かれた紙類や乱立するキャンバス達の間で倒れている。

 元の広さはそう狭くはなく、むしろ一人で使うには少々広い程の筈の部屋は、随分と狭苦しく物で埋め尽くされていた。


「すごい、すごい! ほんとに絵描きさんの部屋みたい!」

「ほんとにって、信じてなかったの?」


 近くにあったキャンバスへと駆け寄っていく少女の背中に、フランツは独り言のように呟く。


「ああ、触らないで。昨日のだし、多分絵の具乾いてないから」


 自分でも一瞬驚くほど鋭い声が出た。恐る恐る手を伸ばしていた少女が、図星だったのかすぐに手を引っ込める。

 まあこのくらいの歳の子供ならば仕方ないが、無断で作品に触られるのは不快だ。絵の具が乾いているか完成しているかいないかに限らず、自分が許していない他人の指が作品を掠めていくのは、どうしても受け入れ難い。少しきつめに釘をさすくらいは許されるだろう。

 フランツは部屋の中を見回す少女の背後に立って、軽く屈んだ。


「まあ、俺は基本的にこういう絵を描いてる。戯画って聞いたことあるかい」

「ぎが?」

「ああ」


 フランツは頷いて、屈んでいた腰を上げた。乱雑に置かれた石膏像達や資料の間を縫い、壁面に足を向ける。

 そこにかかっていた一枚の絵を手に取り、表面に薄く積もった埃を手で払う。


「はい、これなら見ていいよ」


 掌にまとわりつく埃を無造作にシャツに拭いながら、端にまだ汚れの残る額縁を少女に手渡す。


「“カリカチュア”とも言う、面白可笑しく描いたような絵だよ。よく風刺画にもなるんだけど、つまり――あー……何て言うんだろうな……」


 頑張って分かりやすく説明してみようと思ったが、無理だ。次に続ける言葉も思いつかず、フランツは視線を泳がせる。

 案の定、いまいちぴんと来ないらしい少女は未だに首を傾げていた。当たり前だ、余程聡い子供でない限り、風刺も何も通じるわけがない。

 しかし子供向けの語彙などないフランツには、彼女の疑問を解消してやれる話など思いつかなかった。うーん、と唸って、頭を掻く。

 互いに言葉を失ってしばらく、首を捻りながら自分の手元にある絵と悩むフランツの顔を交互に見ていた少女が、ふと顔を上げた。


「フランツ、他にも絵は描けるの?」

「え? あ、ああ。一応普通に風景画とか人物画とかも描けるっちゃあ描けるけど……」


 肯定すると、少女の瞳が思い出したかのように再び輝いた。


「じゃあ、じゃあいつか私の絵を描いて欲しいわ!」


 少女の桃色の唇が紡いだ願いに、フランツは凍り付く。それを躊躇と捉えたか、少女が眉を下げた。


「……だめ?」


 やっぱり、駄目だっただろうか。そんな不安に沈んだ声音だった。

 たった二文字の問いかけは、自分に手を差し伸べ、毛布と雨風を凌げる所と綺麗な洋服と温かい料理をくれた人間相手に自分の絵を描いてくれと口走ってしまった罪悪感に満ちていた。

 少女がおずおずとフランツを見る。先程期待に輝いたばかりの目が、今は別の感情で揺れていた。


「駄目、っていうか……別に俺はいいんだけど、ねえ」


 何か言わなければという思いだけで歯切れ悪く言って、フランツも少女と同じように表情を曇らせた。


「お前、死にたいの?」

「え?」


 そんな、突拍子もない問いが口をついて出た。

 唐突に投げかけられた質問に、少女は間の抜けた声を上げる。

 死にたいのか、なんて問われるとは思っていなかったのだろう。それでもすぐ首を振って否定する少女に、フランツは少しだけ苦笑する。

 思わず尋ねてしまったとはいえ、我ながら馬鹿な質問をしてしまった。ここにいる時点で、彼女は死にたいわけがないというのに。

 彼女は、自分がどうやって絵を描いているか知らない。自分の絵に死がまとわりついていることを知らない。だから純粋に、絵を描いてほしいと口にした。そして自分はそれを、殺してほしいという意味かと一瞬錯覚した。“そういうこと”をしてきたから。

 ただ互いの認識がすれ違っただけだ、珍しくはない。よくあることだ。


「まあ、お前が死にたいかどうかはどうでもいいや。俺も絵を描けるなら描きたいからね」


 怪しまれないように――逆効果な気もしたが、努めて明るい声で話を切り上げる。


「……いつか描いてあげるから、待ってな」


 フランツがぽんぽん、と頭を撫でると、少女はしっかりと頷いた。

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小雨と少女と少しだけ 咳屋キエル @sekiel

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