1-小雨の日と小さな手

小雨の日と小さな手-1

 フランツがそこそこ大きく膨れた買い物袋を手に帰路につく頃には、小雨は霧雨へと変わっていた。

 ビニール傘の透明な膜越しに、やっと傘がいらない程度になった雨空を仰ぐ。これくらいの雨と家までの距離なら、少しくらい雨に当たっても大丈夫そうだ。風邪も引かないだろう。フランツは人影もまばらな大通りの往来の中、袋を手首に提げたままそっと傘を閉じた。

 レインコートを着込んで帽子を被って傘を差した人影が、すれ違いざま汚いものでも見るような目でフランツを一瞥する。背後から向かってきた別の人影が、腐乱した死骸か放置された汚物を避けるようにあからさまに離れて歩いていく。

 その全てに視線も意識も向けてやらないまま、フランツは前髪と額を濡らす水滴を拭った。

 彼等の反応は、この街の大多数の住人ならば当たり前だ。雨を媒介に人の暮らす地に落ちて、そこにいる人間の脳と精神を冒して狂わせる“雨”を避けようともしない人間など、彼等からしたらそれこそ正気の沙汰ではないのだろう。

 “狂い雨”の被害を避けたいが為に、異常なまでにそれにまつわるものを忌避する一般人。例え自分達が恐れるそれが、先の戦争が生んだ迷信にも満たぬ虚言であったとしても、一度煽られた恐怖を止められない。

 果たして本当に狂っているのはどちらか――と、言うよりも。単純に疲れやしないだろうか、目に見えぬものを恐れ逃げ惑うのは。自分なら無理だ、面倒臭い。ただでさえ雨は雨というだけで面倒臭いのに、そこに更に鬱陶しい要素を足してどうするのか。

 そろそろ洗濯もしなければいけないし、明日には上がってほしいものだ。外の湿っぽい空気を吸い、僅かばかり日の光に当たって尚眠い目をこすりながら、フランツはどこまでも暗い雲に覆われた空を見た。

 大通りから外れて歩いてしばらく。自宅の扉の前まで来て、懐から鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。回す。が、手応えがない。

 ――ああ、まただ。また鍵をかけるのを忘れてしまった。自分の困った癖に、フランツは自分自身に呆れる。

 意味を成さぬ鍵を引き抜いてポケットに戻し、フランツは何事もなかったかのように扉を開いた。


「ただいま」


 妙に間延びした声で誰に言うでもなく告げ、フランツはリビングの扉を潜る。ふー、と息を吐いて、袋を床に置いて、そして驚いた。

 ソファの上には家を出る前と変わらぬ毛布の塊。それがもぞりと動いて、少女の不思議な色合いをした目がこちらを見る。


「おかえりなさい」


 そろそろ温くなってしまっているだろうに、相変わらずカップを持ったままの少女にフランツは溜め息を吐く。


「……お前、本気で逃げなかったわけ?」

「だって、逃げるなって言ったから」

「いや……まあ、」


 その通り、彼女に逃げるなと言ったのは自分だ。だから文句を言うのは筋違いで理不尽もいいところだが、それにしても利口すぎる。


「そう、だけどさ、何で見ず知らずの人間の言うこと聞いてんの? もう少し警戒しなよ」

「……何でかなぁ、わかんない」


 少女が心底分からないとばかりの顔で首を傾げ、ぼさぼさの髪が揺れる。

 持ち前の聞き分けの良さに呆れながら、フランツはその場に屈んで買い物袋のテープを千切った。ごそごそと袋の中身――本来の目的だった青い絵の具やその他の画材、少女の服やら少女用の日用品、ついでに買ってきた食材を取り出していく。


「自分の事も分かんないの?」

「自分のことだからって、何でも分かってるわけじゃないもん」

「…………餓鬼に正論で論破されたよ」


 餓鬼、という言葉に、少女が膨れっ面になる。その仕草が子供そのものなんだよ、とフランツは袋の中身を仕分けながら内心でごちた。

 しかし正論は正論だ、相手が子供だからと受け入れずに突っぱねるのは大人気ない。余裕を持って受け入れるのが大人というものだろう、今更悪足搔きかもしれないが。

 中身を全て出し終えた袋を細く伸ばし、適当に結んで部屋の隅にある紙袋に投げる。


「――っていうか」


 冷蔵庫に食品を突っ込みながら、フランツは少女に話しかける。


「なに?」

「お前、結構喋るんだね。知らなかった」


 彼女曰く、喋らなかったのは自分が彼女を遮っていたせいらしいが。それでも、傍目には大人しく落ち着いて見える少女がここまで饒舌に話すというのは、少し意外だった。

 食品をしまい終え、フランツは薄い桃色の袋を手に取る。それを手に少女の所へ行き、袋を軽く放った。


「だって喋らせて貰えなかっ」

「分かってるよ、聞くの二回目だし」


 ぽすっ、と放られた袋の所為で少女の言葉が途切れる。カップを持ったままの少女が慌てるのを見て、フランツは彼女の手からそっとカップを取った。

 中身に視線を落とすと、もう冷たくなってしまったホットミルクがまだ半分は残っていた。

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