序章-1

 ぱたぱた、と雨粒が窓を叩く音が聞こえる。

 耳障りなほどに音を立てて降り注ぐ大雨ではないが、無視する事も出来そうにない、その程度の雨だ。

 いっそ思い切り降ってしまえばいいと思うような鬱陶しい小雨は、起きたときからずっと続いていた。この様子では午後になっても降り続けそうだ。季節を問わず一日中続く雨などこの街では珍しいことではないが、いちいち耳につく雨音が煩わしいことに変わりはない。

 静かに溜め息をついてから、フランツは二つのカップを持ってテーブルへと近付いた。厳密にはその傍にあるソファに。

 ソファの上には子供が一人座っていた。与えられた毛布にくるまって、ただでさえ小さな体を更に小さくして座る子供に、フランツは笑う。


「――どうぞ」


 二つあるうちの一方、温められた牛乳が湯気を立てるカップをテーブルに置く。ことん、という微かな物音に、毛布を巻き込んだ膝を抱える子供が顔を上げた。だがそれだけで、手に取ろうとはしない。

 まあ、警戒するのは当たり前か。肩を竦めて、フランツは手でカップを示す。


「お前の分だよ」


 飲んでいいよと促すと、子供がようやく動いた。毛布と、本人が纏うぼろ切れに等しい衣服の隙間から、汚れてかさついた指先が覗く。

 恐る恐る細い手を伸ばして、温かな湯気を立てるカップを両手で持つ。しばし数秒、何かを躊躇うような、そんな逡巡した様子の後に口を付けた。

 子供の一挙一動を見守りながら、フランツも自分のカップに口を付ける。ずず、と啜ると、安っぽい紅茶の味が口に広がった。


「……隣、座ってもいいかな?」


 尋ねると、こく、と子供の首が小さく動いた。よかったと呟いてからソファに腰を下ろして、フランツは息を吐く。

 子供にしては随分と静かだ。口を閉ざして何も言わず、時折ホットミルクを舐めるだけの子供を横目で見て思う。

 正確な年齢は分からないが、恐らく十歳に届くか届かないかといった年齢だろう。同年代の友達と外を走り回っては日が暮れるまで遊び続けて、門限を知らせる鐘が鳴っても家に帰らず叱られて、それを懲りずに何度も繰り返す頃だ。

 もっとも、この子供はそんな経験などしたことはないのだろう。あったとしてもすっかり忘れているか、あるいは路上で生活する現実と対照的すぎる幸福さを忌避して思い出さないようにしているのだろう。

 走り回る時は盗みを働くか拾ったゴミや金品を守って逃げるときだけで、日が暮れるまで街を彷徨うのは生き抜く為で、同年代の子供と奪い合うのは遊具ではなく残飯や金目の何か。生きる為の行いに、怒号を向ける者は居ても叱る者は居ない。そんな毎日を送っているのであろうことは、想像に難くない。

 この子供は孤児だ。

 昨夜、夜の散歩から家に帰るとき、フランツは普段とは違う道を通って帰ろうと路地裏に足を運んだ。その時に見付けた孤児だ。

 配管や粗大ゴミの隙間に座り込んで、布と呼ぶことさえ憚られるようなぼろ布を手繰り寄せて、秋が終わる寒さから逃れようとする幼子。

 特にこちらに興味も示さず物乞いもしない子供に、フランツは何故だか妙に惹かれた。

 これも何かの縁かと気紛れに手を伸ばして、さしたる抵抗がなかったこともあって自宅に案内して、夜も遅かったので毛布を一枚渡してソファで寝かせた。そして短い眠りを経て、今だ。

 それにしても、とフランツは思う。一度寝て目が覚めて、拾ったその瞬間よりは気分も変わった今考えても、何故惹かれたのかよく分からなかった。

 再び紅茶を啜りながらちらりと子供を見ると、丁度こちらを見上げていた双眸と目が合った。

 不思議な色をした瞳だった。桃色と言うにはどこか違う、橙と言うにも何かが違う。桃色と橙色が同居したような、夕焼けか朝焼けにも似たその瞳は、この時になって明確にフランツの興味を惹いた。

 この子供を拾った理由も、惹かれた理由も、もしかすればこの目のせいなのかもしれない。こんな色を自分は知らない。だから、未知の色彩の片鱗を感じ取っていたのかもしれない。そう感じながら目をじっと見つめていると、気恥ずかしくなったのか子供の方が先に目を逸らした。


「……そういえば、名前は?」


 俯く子供が、ぴたりと動きを止めた。

 訊いてはいけないことを訊いてしまったか、とフランツは自らの白髪を掻き上げるように頭を掻いた。


「言いづらい? っていうか、分からない?」


 肯定を示す首の動き。フランツはううん、と唸る。


「じゃあせめて、男か女かだけでも教えてよ。昨日から一言も喋らないじゃん、声での判断もできないし」


 けらけらと笑ったフランツに、子供がきょとんとした顔になる。


「あぁでも、見た感じ女の子かな?」


 首肯。自らの予想が当たっていたことに、フランツは嬉しそうに唇を歪めた。


「やっぱり。そうだと思った」

「…………じゃあ、どうして訊いたの?」


 カップの中に満たされた乳白色の液体を一口飲み込んだ子供が、ぽつりと呟いた。

 小さな唇が年相応の声を漏らしたのが何だかおかしくて、フランツは肩を揺らして笑った。


「やっと喋ってくれたね、お前。昨日から一言も話さないから、話せないのかと思った」

「だって、話す暇もなかったから……」

「ええ? そんな事ないでしょ」

「私話そうと思っても、いつも言えなかったもの」

「そう?」


 ぷく、と頬を膨らませる少女に言われてフランツは小首を傾げる。さて、そんな事実はあっただろうか?

 物陰で体を丸める少女を見付けて、何となく手を差し伸べて、手を取ってくれたから引っ張って家に連れていって――ああ、確かに何か、彼女が口を開いたタイミングで自分が何かを話していた気がしなくもない。言われてみれば。

 まあでも、それは仕方がない事だろう。寒かったし、眠かったし、早く彼女を寝かせて自分も寝たかった。こうしてゆっくり言葉を交わす為にも仕方がなかった、そういうことにしておこう。

 そう自分自身に言い訳して、フランツは笑って誤魔化すことにした。


「美味しいかい? それ」


 自分が昨日のことを思い返している間、ずっと黙ってホットミルクを飲んでいた少女に訊いてみる。

 大事そうに両手でカップを包み、少女は小さく頷いた。


「それならよかった」


 満足げにフランツも頷き返して、紅茶を口に含む。ぬるくなった紅茶を飲み込んで、息を吐いた。

 相変わらずホットミルクを飲み続ける少女を横目でちらちらと見ながら、フランツは内心で呆れる。

 餓鬼なんだから仕方がないのかもしれないが、それでも孤児だ。生きていく術として、他人を容易に信用しないという事くらいは無意識にでも身につけている筈だ。カップを手に取ったとき垣間見せた警戒心を、もう少しくらいは維持すればいいものを。

 毛布にくるまって寝ている間に殺されるんじゃないかとか。このホットミルクに毒が盛られているんじゃないかとか。今こうして話して少し油断したところで犯されるんじゃないかとか。そういう予想は立てていないのだろうか。

 実際の所、殺す気はないし、毒は盛っていないしそもそも盛る毒もないし、幼女性愛の気は欠片ほどもないから、ひとまず彼女は“安全”と言えば安全なのだが。

 飲み終えた紅茶のカップをテーブルに置いて、フランツは窓の外を見た。

 未だに空は曇り、弱々しい朝日を必死に取り込む窓には小雨が当たって音を立てている。相変わらず、部屋から一歩も出ずにシーツでも被ってだらだら過ごしていたくなる天気だ。

 しかし生憎と、今日は少し出掛けなければいけなかった。それこそ仕方がない、腹を括ろう。フランツは欠伸をして、浮かんだ涙を指で拭った。


「……ねえお前」

「なに?」

「俺これから出掛けるけど、ここで待っている事って出来る?」


 訊くと、彼女は再び頷いた。

 できれば少女も連れて行きたいが、流石に何も着ていないに等しい少女を連れていては自分の社会的認識が危うい。いや、もう危ういどころか粉々に砕けているようなものだが――まあ、いい。


「どこに行くの?」

「ちょっと買い物。あとお前の服とか、そういうの。流石にそんなぼろ布っていうか布とも言えないようなもの着てたらアレでしょうよ。……何より俺が困る」


 どっこいしょ、とソファから立ち上がり、フランツは大きく伸びをしてから少女を見下ろす。


「この部屋からは出ないで。あと色々弄くらないで欲しいな。少し危ないものとか、お前にとってよろしくないものとかがあるから。

 あと言う必要はないだろうけど――盗んで逃げるような真似はやめてね。俺、今日はあんまり“そういう気分”じゃないんだ」


 言い聞かせるようにゆっくりと口にして、最後に「いいね?」と確認する。

 少女は分かったと言ってまた頷いてから、ホットミルクのカップを傾けた。

 それならいいと、フランツは少女の頭に手を載せ、汚れた髪をくしゃくしゃと撫でる。


「俺が帰ってきたら、取り敢えず風呂に入ろうか。昨日は眠くてそこまで気が回らなくてごめんね」

「ううん、大丈夫」

「そっか」


 少女の頭から手を離し、フランツは扉へと向かう。

 近くの床に適当に投げてあった黒いスーツの上着を取り、袖を通す。一応襟を正して、欠伸を噛み殺してから肩越しに振り返った。


「それじゃ、行ってきます」

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