アルトレイラル(中)

第22話 異世界生活開始 1

 寝起きがあまりよくない、そのことは自覚している。毎朝そうなのだ。他の人よりもエンジンがかかるのが遅く、どれだけ眠っても完全に目が覚めるまで三十分はかかる。ベッドの上で起き上がり、そのまま壁に寄りかかってぼーっと過ごす。血圧が低いのか何なのかは良く解らないが、この体質のせいで同年代の女の子よりも身支度に使える時間がかなり短い。無理やり確保するのなら、早く眠って早く起きるしかない。全く、損な体質だ。

 いまもそうだ、彼方で黒電話の音が鳴り響き、晴香の意識がぼんやりと覚醒する。寝起き特有の力が入らない身体を酷使し、手探りで携帯を探す。音は身体よりも下方から聞こえるような気がするため、ベッドから腕をはみ出させ携帯を探る。

 不意に、身体からシーツの感触が無くなり浮遊感に包まれ、


「痛っ」


 ゴツンと、額が固いものにぶつかる。前半身が固くて冷たいものの存在を感じる。そこでようやく、自分がベッドから落ちたのだと晴香は理解する。耳元でアラームがけたたましく鳴り響き、その音がだんだんと大きくなっている。腕を向ければ、掌に小さくて硬い感触。目を開けてみれば、それはもちろん見慣れた晴香の端末だ。

 アラームを解除するため、画面を起動させる。虹彩認証機能によりロックが外れ、《目覚ましアラーム》画面が呼び出される。寝ぼけ防止用パスワードを打ち込む。ようやくアラームが止まり、ホーム画面に切り替わる。

 デジタル時計の指し示した時刻は、午前八時半。

 …………。

 ………………?

 …………………………………⁉


「…………ふぇ⁉」


 珍しく、一気に思考が覚醒した。背中にかかった毛布をはねのけ、バネの様に立ち上がる。

 寝坊どころの騒ぎではない。もう遅刻確定だ。この時間にある電車に乗って学校に行こうとすれば、かなりの賭けになる。東京ではないのだ、一本逃したら大変なことになる。

 晴香が普段使っているアラームはシロフォンだ。黒電話のアラームは、そのアラームが解除されなかったときに鳴る最後通牒のようなものと考えていい。なぜなら、その時間から身支度を始めれば、丁度電車とバスをノンストップで乗り継ぐことができるからだ。かなりぎりぎりだが、二時限目にはどうにか間に合う。

 朝食はどうしようか、いや食べている余裕なんかない。寝ぐせはどうしようか、電車とバスの時間を使えばなんとかいけるか? 化粧が禁止されていることがせめてもの救いか……。

 などと、そんなことをコンマ数秒で判断しながら毛布を乱暴にひっつかみ、強引に畳んでベッドの上に放り投げる。そのまま勢いを殺さず制服のかかっているクローゼットに直行し――、


「……あっ」


 クローゼットがない。というより、部屋そのものが晴香の見慣れた自室ではない。そのことを認識してようやく、いまの状況を飲み込むことができた。

 なんてことはない、ここは日本じゃないのだ。まことに信じられないが、ここは日本ではないどこか別の国。そしてこの部屋は、晴香が弟子入りしたミレーナと、同居人ルナたちが住む家の一室。当然、こんなところにはバスも電車も学校もない。存在しない場所に行くことなどできない。


「――――ふうぅぅ……びっくりした」


 なんだか拍子抜けし、身体の力が抜ける。動く気になれず、へなへなとベッドに座り込む。

 端末を開いてみれば、普段かける《目覚ましアラーム》は解除してあった。そういえば、昨日寝る前に解除してしまっていたような記憶がある。だとすれば、同時解除設定となっていた黒電話アラームが解除されずに起動したのもうなずける。

 ベッドから降り、窓を開けてみる。きれいに晴れ渡った青空が広がり、小鳥のさえずりが聞こえる。心地よい風が部屋に吹き込み、よどんだ空気を入れ替えていく。部屋の中が、草原の香りに満たされる。


 ――本当に、ここは異世界なんだ。


 落ち込んでいるわけではない。悲観しているわけでもない。ただ単純に、感慨深く感じてしまったのだ。


「あ、そういえば」


 いまから起きてしまったら、朝食その他はどうするのだろう。

 一応、ミレーナにはゆっくりするようにというお達しを受けてはいる。受けてはいるのだが、それは寝坊してこいという意味に果たしてなるのだろうか。そして、この世界の人たちの活動開始時間はいつなのだろうか。答えなんて聞いてみなければ解らないが、寝坊してしまった後ろめたさからついそんなことを考えてしまう。


「……うん?」


 と、そんなことを考えていた晴香の嗅覚が、


「甘い、匂い?」


 かすかに漂う甘味の香りを知覚した。

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