第11話 異世界の牙 1

 空に、赤い煙が見えた。


 赤い発光体が、同じく赤い煙をまき散らしながら空高くを昇っていた。間違えようもない、あれは信号弾の光だ。

 全員が、再度固まる。


「緊急事態! キャンプに戻るぞ!」


 後藤が声を張り上げる。

 大柄の男性が青年を担ぎ、真っ先に元来た道を戻り始める。それに続いて、他の仲間たちも山を駆け下り始める。雨宮の手を引き、俺も歩き出す。

 助けには、行かない。もともとそのための信号弾だ。

 怪我や事故なら、青の信号を上げることとなっている。赤ということは、何か事故とは別の命の機器にさらされたということなのだ。そんなところに、俺たちが行ったところで何もできない。むしろ、俺たちにまで危害が加わる。赤の信号弾は、逃げろという合図なのだ。他の班からの、命を燃やした合図なのだ。それを無視できるものか。

 だが、


「————?」


 不意に、影が身体をおおった。同時に、首元を撫でられるようなあの嫌な感覚が、俺の身体を駆け抜ける。思わず、身体が動きを止める。

 木の幹が、空を舞っていた。

 いや、木の幹ではない。なぜならそれは、持ちやすいように一部分を削るといった人為的な加工が施されていたのだから。この場合、あれはこん棒と呼ぶのが正しいのではないか。

 訂正しよう。こん棒が舞っている。俺たちの身長よりも大きい——長さも、太さも、おおよそ人が扱うものではないそれが、放物線を描きながら頭上を通過していく。

 次の瞬間、ズドンという音と共に地面が揺れ、土煙が舞った。

 茶色い煙が一斉に広がる。あちこちから悲鳴が上がる。


「おえっ——えほっ、えほっ、えほっ」


 舞い上がった砂が、身体にぶつかる。とっさに顔を隠すが、すき間をぬって入り込んだ砂が肺に侵入し、大きくせき込む。

 だんだんと、砂ぼこりが晴れる。視界から、茶色い砂の幕が消えていく。

 すぐ近くに、こん棒がめり込んでいた。


「「…………………」」


 共に言葉を失う。状況が理解できず、身体が完全に止まる。

 赤黒く塗装され、さらに真っ赤な液体が滴るこん棒。人間が扱うにはどう考えても無理な代物。それが、俺たちの道をふさいでいた。

 突然の状況に、思考が停止する。頭の中が真っ白に染まり、目の前に広がる重要証拠が脳に入って抜けていく。

 一秒、二秒、三秒、四秒…………。


「遠藤ぉぉぉぉぉおおお⁉」


 叫び声が、木霊した。その声で思考が再開し、この状況が最悪なものということをようやく理解した。

 あそこには、ついさっきまで怪我人を担いだ人がいた。そしていま、彼らのいるはずの場所には巨大なこん棒が。そして、周りには赤い液体を伴った大小さまざまな何かの塊が、そこかしこに散らばっている。

 確証はない、信じたくもない。だが、この状況から考えて、そうなのだろう。

 あの赤いものは鮮血、周りに散らばる塊は彼らの残骸。

 彼らは、ここで命を落としたのだ。



「————全員散れぇぇぇぇぇええええ‼」



 後藤の声が響き渡る。聞くや否や、俺は雨宮の手を強引に引き森の中へと飛び込む。道なんてない、だがここにいれば確実に死ぬ。

 遠くへ、遠くへ、少しでも遠くへ——!


 《ブオオオォォォォ————ッッッ!》


 人のものではない雄たけびが、知性を持つものが上げるはずのない咆哮が、すぐ後ろで木霊する。地響きと悲鳴が、鼓膜だけでなく全身に突き刺さる。ごめん、ごめんと詫びながら、ひたすら森の中を走る。

 走る雨宮が、嗚咽をこらえながら走る。零れ落ちる涙を必死にぬぐい、俺の後に続く。

 ひときわ大きい咆哮が、森中に響き渡った。


 ◇◆


「はぁ……はぁ……はぁ……」

「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」


 大樹を背もたれにし、荒く息をつく。気を抜けば胃の中のものを全部戻してしまいそうで、絞り出すように呼吸する。

 肺が悲鳴を上げている。心臓は破裂しそうなほど鼓動し、全身の細胞に酸素を送る。それでも間に合わず、身体のあちこちが酸素を求め喘ぐ。ドクリッ、ドクリッと、こめかみの血管が脈を打ち、身体中が熱い。


「はぁ……はぁ……うぇっ」


 青い顔をして、雨宮がえづく。背中をさすりながら、俺も木にもたれかかり呼吸を整える。若いことが幸いしたのか、十分かそこらで、呼吸が安定し始める。思考に回す酸素を確保できるようになる。考えるのは、先ほどのことだ。

 さっき、人が死んだ。

 土煙で見えなかったが、間違いなく人が死んだ。さっきまで青年を担いでいた遠藤という人物が、青年と共にこん棒に潰された。

 周りに広がる肉塊と、円状に広がった血しぶき。その中心にはこん棒がめり込んでいて、そこにも鮮血が飛び散っていた。いま思えば、赤黒い塗装はこれまでに殺された誰かの血なのではないだろうか。これほどのことが起こっているのに、何もなかったというのはないだろう。それから、確信したことが一つ。

 ここは、仮想空間じゃない————。

 いまなら言える。はっきりと断言できる。なぜなら、技術的に不可能なのだから。

 VR技術は人類が到達できる進化の究極型だ。半身不随の子たちが自由に走り回れる場所となり、叶えることのできなかった夢を体験できる世界となった。一生寝たきりの人や終末医療患者にとっても、そこは自分の障害を忘れられる唯一の世界だ。究極——人類が到達したいと願い、半ば不可能と謳われていた文句だ。

 だが、究極故にその先はない。

 システムの構造上、プログラムの構造上、仮想世界の解像度を二〇四二年現在以上に上げることは不可能。それがはっきりと示されたのは、VR技術が開発されてすぐのことだった。

 これ以上の解像度は望めない。これ以上高性能の物理エンジンは搭載できない。

 二〇年かけて、人類は進化の終着点に到達してしまった。だからこそ、VR世界にはこれ以上の発展はない。

 そして、今現在において、先ほどのようなグラフィックは再現不可能。何かが飛び散る瞬間、何かが飛び散った後の残骸、この二つはそれぞれ別の演算を使用する。VR空間に接続できる回路は技術上ひとつ。グラフィック化すれば必ずラグが生まれる。あんな高解像度なものは再現できない。

 だとすれば、だとするならば、

 この世界は間違いなく————、


「さっきの、何?」


 思考を遮ったのは、雨宮の声だった。息は落ち着いたようで、肩は上下していない。体育座りで顔をうずめ、ポツリとそう呟いた。


「……解らない」

「だよね」

「…………」

「ねえ」

「ん?」

「ここ……ゲームのなかじゃないよね」

「そう、みたいだな」


 驚くほど淡々と、会話が進む。お互い、たいしたリアクションもしない。というより、俺の方はできないだけだが。喜怒哀楽、すべて含んではいるのだろうが、どう表現すればいいのかが解らない。感情が麻痺しているというのはこのことを言うのか。


「後藤さんたち、無事かな?」

「無事だ」

「?」

「無事だ、きっと……」


 気が付けば、むきになるようにそう答えていた。その答え方に、雨宮が目を丸くしている。自分でも驚く。一瞬の後、その理由がなんとなく解った。

 おそらく、俺がそう信じたいのだろう。あの人たちは生きていて、ちゃんとキャンプに戻っている。あれが最善の方法だったのだ、俺がいなくても何とかなった、そう確信したかったのだ。

 俺が逃げたことを、正当化するために。

 もしかしたら、自分の思考を一番客観視できるのはこんな状況なのだろうか。驚くほどすんなりと、自身の思考を観察できる。ああ、つくづく自分が嫌になる。


「そう、だよね」


 その思いには気づくはずもなく、雨宮はなんとか笑みを浮かべる。その笑みは弱々しい。顔は青いし少し震えてもいる。だが、あきらめた人間のする表情ではなかった。


「じゃあ、わたしたちもできることやろうよ」


 よしっ、という掛け声と共に立ち上がり服についた泥を掃う。その図太さに驚愕する。

 まだ顔は青い。声が少し震えていることからも、万全ではないことが伝わってくる。それでも、雨宮は立ち止まらなかった、前に進むことを選んだ。本当に、何が雨宮をそうまでさせるのか。

 割り切ったというのが本当なのだと、場違いにもこの場で実感した。


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