第9話 この世界は…… 2
規則正しく、身体が上下する。上半身を包み込む確かな温もり。そして、頭にかかるわずかな重み。まどろみの中、ぼんやりと知覚したのはこの三つだった。
——あったかい。
覚醒前のぼんやりとした頭では、そう思うことが限界だった。
身体が、何か温かいものでおおわれている。毛布でもかぶっているのかと思ったが、それにしてはやけに温かい。熱がこもっているという感覚ではなく、熱源そのものを抱いているような——そう、湯たんぽに近い。
思わずぎゅっと抱きしめる。どこかで経験のある硬さが腕を押し返す。だが金属というには柔らかすぎる。それに、なにか嗅ぎなれない匂いがする。やっぱり湯たんぽではない。
それに、なぜだかとても安心する。まるで、天日干しした布団の上で昼寝したような、あの心地よさだ。布団というものは、なぜあれほど眠気を誘うのか。ほら、いまも自分のことを優しく抱きしめて——、
……抱きしめて?
「ん……ふぅ……?」
これ以上ないほどの安心感と言い知れぬ心地よさに、もう少しだけと再び眠りの世界へ旅立とうとする意識が、違和感に気づく。その途端、ふとこのぬくもりの正体が異様に気にかかった。
温かい、だけど柔らかい。抱き着けば、なぜか抱きしめ返してくる。湯たんぽとも違う、布団とも違う。何なのだこれは……。
段々と意識が覚醒していくが、こいつの正体が一向に解らない。なぜかそれが無性に悔しい。
ああそうか、目を開ければいいんだ。
飛び込んできたのは、視界いっぱいに広がる黒。その黒い何かは規則正しく上下を繰り返し、晴香の上半身をわずかに上へと持ち上げる。
「……?」
何だろうかこれは。
寝袋? いや、寝袋は動かない。だとすれば、抱き枕の線も薄いか……。
本当に何なのだ? これは。
眠気と格闘しながら記憶を探るが、ぼんやりとした頭にはその作業すらも難しい。そもそも、晴香の記憶には発熱し、自分から動き、それでいて柔らかいものという物体が存在しない。というか、そんなものがこの世にあるのだろうか。
記憶にないものは仕方がない。記憶漁りを早々と諦め、ゆっくりと視線を上へ持ち上げる。
目の前には、あどけない表情で眠る、神谷 樹の姿。
柔らかいもの=樹の身体。熱源=樹の身体。黒=樹の服。晴香を抱きしめてきたもの=樹の腕。
抱きしめていたもの=樹の身体。
・・・・・・=‼
「…………。ッ⁉」
一気に意識たたき起こされ、そうかと思えば次は思考が停止する。
——う、うそ⁉ なんで⁉
完全に覚醒状態となった頭に、昨日の光景が鮮明によみがえった。
樹に縋りつき、赤子のように泣く自身の姿。その頭を、樹が優しくなで続ける……。
すべて、晴香自身の行いからきた結果だった。
「あっ……あぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ!」
途端に顔が羞恥の色に染まり、訳の分からないうめき声を上げ慌てて樹の胸から離脱する。幸いにも樹の眠りは案外深かったようで、すこしうめき声を上げた後再び夢の中へと潜っていった。眠りが浅いと言って寝不足に悩んでいた樹には珍しい。これ幸いと、いまのうちに乱れた服を整える。
おそらく、ずっと樹にすがりついて泣きじゃくった後、そのまま自分は泣き疲れて寝てしまったのだろう。予想が正しければ、樹は縋りついた自分をそのままにし、ずっと頭をなでていてくれたことになる。珍しい、樹なら放り出してもおかしくないのに。わたしは放り出されないほどの信頼関係は築けていたんだ、とこんな状況にもかかわらず頬が緩む。
——そうだ、神谷くんは、こんな人だった。
神谷 樹に確かな恋心を抱いたのは、いつのことだっただろう。
第一印象は、はっきり言って最悪だった。あの頃の樹は、いまとはほとんど正反対。不真面目で無口。人と関わることを極端に嫌い、すべてに無関心な視線を向けていたあの頃の樹は、常に他者と距離を置いていた。
晴香が面倒ごとを持ち込んだ時もそうだった。目的を達成するために、その他のすべてをめちゃくちゃにする。言うなれば、安眠を確保するために周りをすべて焼け野原にしてしまうような戦法。そうすれば誰も頼っては来なくなる。樹は言外にそうほのめかしているようだった。
そんな中、ぶつかり、怒り、失望しながらも、不意にあることに気が付いた。
何かに怯えているからこその行動なのだと。
あの頃の樹が何を恐れていたのか、どうしてあのような行動をとるようになったのか、晴香は卑怯な手段で知ってしまった。そして、そのことを樹はまだ知らない。
樹の過去を知ってからは、晴香の気持ちは急速に変化していった。
最初は、気に掛けるだけだった。
いつしかそれは消極的なものから、話しかけ、デートに誘い、文化祭に巻き込んだりと、積極的になった。
気が付けば、樹だけを見ていた。樹だけに見てほしかった。
いつの間にか、樹のことが大好きになっていた。
なぜ過去を知っただけでそうなっていったのか、晴香自身にもよく解らない。だが、きっかけとなる想いははっきりと解る。
——わたしは……君のことをもっと知って、そして、力になってあげたかったんだ。
その気持ちにだけは、うそ偽りはない。
もう十分泣いた、十分困らせた、十分元気をもらった。
「もう……くよくよしてても仕方ないよね」
普段はとても頼もしいのに、不思議と年齢不相応な幼さの感じられる寝顔に微笑みながら、跳ね飛ばしてしまったブランケットを優しく被せる。
「樹、ありがと。もう大丈夫だから」
いまはまだ、苗字読みだが。いまはまだ、名前で呼ぶのは気恥ずかしいから。これが精一杯。
心なしか、樹の表情が、少しだけほころんだような気がした。
◆◇ ◆◇ ◆◇
この訳の分からない世界に飛ばされて二日目。幸運にも、天気は快晴で湿度もそれほど高くない。日本の都会ならば、年に一度あるかないかの絶妙な気候。
朝食を済ませた後、用事がないなら辺りを散歩するのもやぶさかではない。現に、普段の俺ならば勝手にやっていただろう。都会の喧騒から逃れ、若草のじゅうたんに身体をうずめ、鳥のさえずりをBGMに雲を数える。
『普通ならば』の話だが……。
「……………………」
「…………」
沈黙が、痛い。
俺たちは壁片をはさむようにして向かい合ってにしゃがみ、ひたすら無言でマグカップを乾燥洗剤で磨く。お互いの姿は壁片にさえぎられて見えない。
そもそもこの役割だって、一人でやるつもりだった。
キャンプに残っている人数分ごみは出る。彼らが使ったマグカップと食器も、誰かが後片付けをしなければならない。そうすれば、残りの人員はキャンプの探索に回せる。
だからこそ、自ら志願した————心を落ち着けるために。昨日のことを、忘れるために。
なのに、なぜか雨宮が付いてきてしまった。その真意は解らない、話そうとしないのだ。付いてきたはいいものの、それからかれこれ十数分、作業を始めてから一言も発していない。その理由として思い当たるのはひとつしかない。
昨日のことがフラッシュバックする。いまさらになって羞恥心に襲われる。
あのときの表情も目の裏に浮かぶ。
突然身に降りかかった理不尽な運命に対しての困惑と怒り、同時にどうにもならないことを悟り、深い絶望にとらわれたあの表情も。必死に感情を押し殺そうとするも、どうしても抑えきれずに頬を伝ったあの涙も。
その姿は、もろく今にも崩れてしまいそうなその表情は、言い知れぬ衝動となって、俺の心を締め付けた。
そして、気が付けば雨宮を抱きしめていた。
——我ながらないだろ……あれは。
あのイタイ行動を忘れようと、無心にカップをこする。だが、こすればこするだけあのときの行動が脳内で延々リピート再生される。
雨宮の頭をなでる自分、泣きじゃくる雨宮を抱き寄せる自分。そのまま寝落ち、起きてみれば俺一人。食事中黙り続ける雨宮と、なぜかニタニタにやつく大人たち。どんなラノベ主人公なのか。
…………死にたい。
「神谷くん」
「あ、は、はい」
思考を遮るように雨宮が声を上げ、予想外の事態に声が上ずる。いまの状況で上げられる話題はかなり限られるはずだ。今後の方針について、この世界が何なのかというテーマに対する雨宮の見解、そして、昨日のこと。確率的には1/3、だが常識的に見れば最後の可能性大。
頼むから別件でいてくれ、当たってれるな、そう祈りながら言葉の続きを待つ。
「昨日のこと……、なんだけどさ」
………………。
ビンゴ、解ってはいたものの、すがすがしいほどのビンゴ。
この世界に神はいなかった。
不可抗力だ、そんなつもりはなかった、気まずさを作り出す行動の大半は普通ならそんな言い訳ができるものだろうし、本当にそうならおそらく雨宮は困った顔をしながらも許してくれるだろう。だが、昨日の行動は明らかにその範疇ではない。あれが無意識なら、病院に行った方がいい。
「ありがとう」
「?」
「わたし、すごく不安だった。帰れるかも分からない世界で、それでも生活しなきゃいけない。この先どうなるのか分からなくて、どうしていいか分からなくて、怖くて怖くて、どうにかなりそうだった」
迷惑だとか、恥ずかしいとか、そういう言葉ではない。
『謝辞』出てきたのは、俺が最も予想外としていたものだった。
「だから、ありがとう。わたしはもう大丈夫だから」
お世辞でも何でもなかった。それなりに行動を共にしてきたから解る。
思いもかけない言葉に動揺し、雨宮は雨宮で自身の言葉の気恥ずかしさからか再び沈黙が下りる。
「——じゃ、じゃあ、わたしの分終わったから」
そう言って、唐突に雨宮は立ち上がり、この場を後にした。
……。
………………。
…………………………………。
「はぁ~~」
大きくため息をつく。まだ朝にもかかわらず、とてつもない疲労感が身体を襲う。
これがどうでもいい相手なら、ここまでは思わなかっただろう。それこそ雨宮以外の現実世界の女子になら、そもそもあんなことはしなかっただろうし、こんなにも疲れはしなかったはずだ。
どうでもいい相手ならどんなに楽なことか。
どうでもよくないからこそ、切れてしまうと嫌な関係だからこそ、言葉を選ばねばならない。自身がとった行動が正解なのか疑心暗鬼になる。その結果、常人の数倍余計に疲れてしまう。その点のみでいえば、他の連中よりも雨宮の方がよっぽど扱いにくい。
「あーららー、何とも甘酸っぱいこと」
「どぅあ⁉」
突然頭上から降り注いだ声。驚愕し顔を上げてみれば、そこには壁片に肘をつき、ニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべる後藤の姿。どこから聞いてた? という問いは不要だった。この顔は、最初から聞いていたヤツの顔だ。
「ンだよ、あの初々しい会話はよ。中学生じゃあるまいし。お似合いだなぁ、おい」
「誰がっ!」
「ほんと、あんな娘とどこで知り合ったんだよ。そんなタイプじゃないだろ、お前」
「茶化さないでください」
「大事にしてやれよ、泣かすんじゃねーぞ」
「本当なにしに来たんだアンタ!」
羞恥にこらえきれず、そう怒鳴る。一瞬言い返そうとも思ったが、言っていることが図星で、なおかつ自覚しているので質が悪い。
「ちょっと集まってくれ。話したいことがある」
途端、真顔になって発せられたその言葉には、ふざけた気配が一切感じられなかった。
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