第8話 この世界は…… 1

 パチパチと、目の前で薪が爆ぜる。簡易固形燃料が砕ける度に、中に配合されている何とか成分特有の青い火の粉が生まれ、暗転した夜空へとゆらゆら舞いながら吸い込まれていく。晴香はその前にうずくまりながら、生気の込もらぬ虚ろな瞳でただその様子を見つめていた。


「ほら。もらってきた」


 不意に、ほのかに湯気の立つ陶器製のマグカップを握った手がすぐ目の前へと差し出される。他でもない、いままでずっと行動を共にしてきた少年、神谷 樹のものだ。


「……ありがと」


 力のない声で礼を言い、晴香はマグカップを受け取る。そして、それが何なのかを確認すらせずに一口含み、続けてひと思いに飲み下す。


 中身は、非常用の粉ミルクだった。熱すぎず、かといってぬるすぎず、絶妙に温度調節がされた甘い乳白色の液体は、身体を内側から柔らかく温める。

 隣に樹が座る。気を使っているのだろう。後藤はあれから席を外しており、ほかの大人勢もこちらに来ることはない。


「…………」


「………………」


 沈黙が下りる。何も話す気になれない。先ほどの話は、晴香を黙らせるには十分なものだった。


「…………信じ、られないよな」


 ホットミルクをすする音が聞こえる。横から聞こえたその言葉に、晴香はこくりと小さく頷く。

 うつむきながら、自分のカバンを撫でる。 


 これがオブジェクトなら、どんなによかったことか。どんなに救われることか。


 しかし悲しいかな、一緒に足元に置かれたARデバイスが、そんな想いを残酷に打ち砕く。


「雨宮は、さ。その……聞いてたのか?」


 両ひざに顔をうずめながら無言で首を振る。そっか、という一言の後、樹はまたホットミルクをすする。


「神谷くんは……落ち着いてるね」


 言葉がこぼれた。息が詰まったような、咳を無理にこらえたような微妙な沈黙が一瞬降りた。


「————騒いでもなにもならないからな。それに、ここにいるのは俺たちだけじゃないし」


「それは、そうだけどさ」


 あまりにも予想通りな回答に、我知らず苦笑する。

 そうだった。自分の知る、神谷 樹とはこんな人だった。


 歳不相応に落ち着いていて。そうかと思えば、ちょっとしたことにこだわって、つまらないことで意地を張る。無鉄砲に見えて実は策士で、周りのことをよく見ている。いまだってそうだ。その落ち着きに、どれだけ助けてもらったか。普段よりも増して、その落ち着きがうらやましい。


 異世界。


 そんなものは、ラノベやアニメや映画といったフィクションのものだとばかり思っていた。そして、その思いは今も変わらない。いや、変えたくはない。助けが来ない、死んでしまうかもしれない。認めてしまえば、その事実を直視しなくてはならないから。


 ここはゲームの中——ここに来てからずっと、そう信じていた。ここはゲームの世界で、ここに来たのも、連絡がないのも、全て運営サイドの不手際で、もう少しすれば助けが来る、それまでこの世界を楽しめばいい、と。


 だって、普通はそんなこと考えないではないか。ワームホールを作るのだって,宇宙何個分ものエネルギーが必要と知っているのだ。異世界に飛ばされるなんてことは現実的に考えて不可能。物理法則を捻じ曲げるようなことなどできるはずもないのだ。


 だが、後藤の話を聞いて、あの傷を見て、問題はそこではないことを悟った。

 そもそも、ここが現実世界だった時に一番不都合なのは死んでしまうことなのだ。どんなに楽しいVRゲームであろうが、死の可能性があるならばそこは紛れもない現実世界だ。


 ここが現実世界だろうが、VR空間であろうがそんなことはどうだっていい。ここでは、自分たちは怪我をする。怪我をするなら痛みを伴う、感染症の心配だってある。もちろん、死んでしまうことも……。


 想像する……想像してしまう。


 傷を負ってしまった自分。現実と変わらぬ痛みが走り、しかし痛み止めも薬も医者もいない。食料が底をつき、体力が落ちる。高熱が出る。お荷物となった自分は、他が生き残るため見捨てられる。もうろうとする意識の中、去ってゆく仲間たちだけが鮮明に映る。そのうち獣にも見つかるだろう。ゲーム同様、どう猛な目を光らせながら晴香に食らいつく。悲鳴を上げてる晴香の身体をむさぼる、身体中が痛く気絶しそうな意識が痛みで覚醒させられ足が千切られ腕がちぎられ腹は食い破られ頭に牙が食い込み頭蓋にひびが入る音が直に響きパキンという乾いた音が耳に入りそして————


 ———————ッ‼


 パキリッ

 甲高い音とともに最後の固形燃料が爆ぜ、最後のあがきとばかりにひときわ大きな火柱が立ち昇る。そして、炎は急速に力を失い、気がつけば残りかすが燃えるのみ。


 動悸が収まらない。先ほど脳裏に浮かんだ光景が頭から離れない。このさき、少なからず起こる可能性があるのだ。もし、もしそのときになったら……。


「……帰れ、ないの?」


 意図せず口が動いた。

 正解なんか誰にもわかるはずがないのに。訊いても意味がないことくらい解っているのに。帰ってくる答えなんて解りきっているはずなのに。だっていまの質問には、後藤が答えを出しているようなものなのだから。それなのに、そんな意味のない問いが漏れた。


 いや、おそらくすがりたいのだろう。他でもない、神谷 樹という少年に。

 いままで、その持ち前の分析力と実力で、幾度となく高難易度クエストを攻略してきた樹なら。現実世界でも、晴香の持ちかける様々な依頼を、嫌がりながらも解決してきた樹なら。もしかしたら、この状況を打開できる何かを見つけ、後藤の話を、雨宮 晴香の不安を否定してくれる、そう思ったのだ。

 答えなど、とっくに分かっているはずなのに。もしかしたらという淡い期待を捨てきれず、そう呟く。

 神谷 樹という少年に、その強さに、甘えてしまう。


「……解らない」


 無理だとは言わなかった。


「もしかしたら、いま考えてることも全部杞憂で、本当に未公開の新技術を試されてる可能性もある。空からアナウンスが流れて、あとで謝られるかも……」


 だが火に照らされた顔は、悲痛に歪んでいた。そしてその表情こそが、どんな言葉よりも如実に、真実を語っていた。


「……だけど、もしそうだとしても、どのみち異常事態だ。同意なしのフルダイブは重罪だ。そんな事すれば、会社は間違いなく潰される。それを平気でやるような会社が、まともなはずない」


 おそらく、続けられた言葉は樹自身にも向けられているのだろう。いまの状況だけを分析するために淡々と可能性だけを列挙していく。樹が落ち着くためによくする動作だ。だがそれ故その言葉は何よりも確実で、何よりも残酷。微かにすがる淡い幻想を、情け容赦なく叩き壊していく、無慈悲な宣告だ。


 最後まで言うことはなかった、それがおそらく樹なりの優しさなのだろう。だけどもその優しさは、この場では一番つらいものだった。だって、良い知らせなら隠す必要はないから。その沈黙こそが、答えなのだから。


 訊かなきゃよかった、いまさら後悔する。

 でも、訊かずにはいられなかった。それもまた事実。


 答えなんか知っている。その事実をあえて意識の外へと追い出し、ここが安全なのだと頑なに決めつけた。運営からの助けが来ると、そう信じたかった。

 認めたくなかった。いままでの生活に戻れなくなってしまうかもしれないということを。命の保証などなく、下手をしたら死ぬかもしれない世界に取り残されてしまったということを。   

 家族に、もう会えなくなってしまったのだということを。


「————解んないよ。どうして、どうして、わたしたちなの」


 解ってる。こんなこと、訊いても意味がないことくらい。

 返事はない。あったとしても気休めにもならない。もう、どんな言葉をかけられても立ち直れる気がしなかった。マグカップを握る手に力がこもる。


「わたし、何もしてないのに……どうしてこうなっちゃったの……?」


 理不尽だ、どこまでも理不尽だ。自分が何をしたというのか。


 これまで普通に生活し、それなりに充実した人間関係を築いた。法を守り、おおよそ非行少女がとるような、過度に親を失望させるような行いもしていない。


 不公平だ。これが罰だというのなら、罰が下るのならば、自分だけではなくほとんどすべての生徒、学生という立場のものがすべからく受けるべきだ。それなのに、なぜ自分だけがこんな目に合わなくてはならないのか。


 解らない、解らない、解らない。いくら考えても、その理由が分からない。

 ぽたりと、涙が頬を伝い手の甲へと落ちる。自分でもわからないほどたくさんの感情が、心の奥底で渦を巻いている。それを表に出すまいと歯を食いしばる、必死に心にふたをする。


 これ以上、樹に失望はされたくない。

 樹は、元々人付き合いが得意ではない。いや、人と接するのを恐れているというのが正しいか。そんな 中、どうにかこうにか信用してくれるポジションにまではなったのだ。そこに至るまでに、樹が他人を拒絶したことは何度かあり、それを間近で見た。


 全てを拒絶するような、冷たい視線。射られた者の言葉を強制的に凍らせるような、絶対零度の視線。一度それを向けられれば、取り返しのつかない溝ができる。そんなのは、まっぴらごめんだ。


 いま、自分が普通じゃないのはだれが見ても明白だろう。もちろん、樹も感じ取っているはずだ。そんな中で、感情を爆発させたくはない。


 泣いてもどうにもならないのに、ただただうるさいだけなのに、それをわかっていながら涙することの何と滑稽なことか。自分ですらも嫌になるのに、樹が見たらどう思うのか。


 それなのに、押し殺した感情は強まるばかり。閉じたふたをこじ開けようと、暴力的に荒れ狂う。静まれという頭の命令を、全く受け付けない。

 ダメだ、ダメだ、静まれ、静まれ、静まれ、静まれ、静まれ————、

 そのとき、


「……?」


 ふわりと、あたたかいものが頭に乗った。そしてそれはゆっくりと、優しく、頭の上を移動する。


 ——これは、樹の手。


 そう認識した瞬間。心の中で何かがはじけた。


 ぽたり……


 言葉はない。樹は無言で、頭をなでる。


 ぽたり、ぽたり……


 樹の手から頭へ、頭から全身へ、言葉では表せない何か温かなものが広がっていく。

 涙を流しているのに気が付いたとき、もう手遅れだった。


「ぅぅうっ…………ああぁぁぁぁぁああ‼」


 ふたが外れる。感情が暴発する。あふれ出た感情に理性が振り回され、身体の支配権がなくなる。


 反則だ。こんなの反則だ。

 嫌われまいと、失望されまいとこらえてきたのに。そんなことは必要ないと言われてしまえば、抑えきれないではないか。


 泣く、泣く、泣く。


 大声を出し、まるで赤子のように泣き叫ぶ。いつの間にか樹にすがりつき、胸に顔を押し付ける。この手を放してしまったら、今度は樹までもがいなくなるような気がし、言いようのない恐怖にシャツを握る手には力がこもる。その間も、頭をなでる感覚は消えない。



 ため込んでいた感情を吐き出すまで、晴香が泣き疲れて寝てしまうそのときまで、


 そのぬくもりは、消えることがなかった。

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