第6話 Welcome To Wonderland 1
浮き沈み、もがき咽かえる。
濁流に翻弄され、身体の自由が利かない。視界は泥でつぶされ、身体の上下も解からない。口を開ければ泥水が侵入し、肺の空気を容赦なく奪っていく。
「——————ッ!」
俺は、何かを叫んでいた。
何かを叫び、右手を握りしめていた。十分よりもひと回り小さいその手を、右手で繋ぎとめていた。
大切な家族だから。可愛い妹だから。俺が、守らなければいけないから。
握った手から恐怖が伝わる。
大丈夫だと、俺がいるからと、そう言い聞かせるため、その手を引き寄せ無理に笑う。
刹那、
いままでにないほどの衝撃が身体を襲う。息が止まり、視界が一瞬白に染まる。自身の身体が、制御下から離れる。
右手から、熱が消えた。
◆◇
——………ん! 神…く…。
ぼんやりと、どこからか声が聞こえる。
呼んでいるのは俺の名前——そう知覚した瞬間、意識が闇から浮上する。泥のような重い何かが溶け崩れ、四肢が動き始める。そして、五感が情報を拾い脳へと伝える。
風が頬を撫でている。背中は柔らかく、何かに包まれているのか身体全体が温かい。甘い若草の香りが鼻腔をくすぐり、かすかに聞こえる鳥のさえずりと、すぐ近くで木材が爆ぜる音が鼓膜を震わす。
目を開ければ、空が見えた。
排気ガスなどが充満する東京では、まずお目にかかれないような澄んだ空。そのなかに、目が痛くなるほど白い雲が所々浮かんでいる。
「神谷くん。解る? 神谷くん」
突然、視界いっぱいに知った顔が映った。先ほどまで会話をしていた雨宮が、整った顔にわずかに涙を溜め、俺の顔を覗き込んでいた。
「……ああ。解る。大丈夫」
「よかった……。神谷くん、凄くうなされてたから。心配になっちゃって」
よかった、よかったと、雨宮はうわ言のように呟き、ぺたんと地面に腰を下ろす。ここにきてようやく、俺は周囲に視線を向ける。
まず目に入ったのは、建物の残骸と思しき何かと散らばるコンクリート塊。それが円状に横たわっており、中央にはたき火がなされている。先ほど感じた温かさは、こいつが出す熱だったのか。どうやら俺は、その近くで寝袋に入れられていたらしい。
目袋のチャックを開け、体を起こす。うっすらと汗をかいていたのか、肌に当たる風はすこし冷たい。
「俺、そんなにうなされてたか?」
「うん。なんか凄く苦しそうだったし……怖い夢でも見たの?」
「まあ、そんなとこ」
ここ年間。俺がずっと見続けている夢だ。
目覚めたときに感じる、鈍い頭痛と冷や汗と激しい動悸も健在。これも慣れたものだが、あまり……というか全く気持ちのいいものではない。あの頃から続く眠りの浅さも、この夢が原因だろう。
始まりがいつだったかは分からない。だがいつからか、眠りに落ちるといつもあそこにいた。まるで、あのときのことを……殺してしまったことを忘れるなとでも言うように。
気まずくなってしまったのか、「わたし、みんなに知らせてくる」と言い、雨宮が大きな建物の残骸へと足早に歩いていく。
とりあえず立ち上がり、伸びをして身体をほぐす。バキバキと関節を鳴らし終えたところで、辺りを見まわす。
そして、固まった。
俺たちがいたのは開けた草原地帯だった。それを囲むのは、多種多様な木々。種類が一つにそろっているわけではないため、自然林なのだろう。森が上下にも広がっていることから、ここはどうやら山の中腹らしいと推測できる。ここ以外、辺りに人工物は見当たらない。
「……は?」
訳が分からない。
記憶をひっくり返し、いまに至るまでのことをもう一度辿ってみる。
俺たちは——ARMMORPG版 《カリバー・ロンド》——βテストのチケットを譲ってもらい、テストを行う実験施設にやってきた。そこで今回のテストについて禁止事項などの説明を受け、実験用作業着に着替えた。実験場へと移動したところで、バーチャル・ホークをつけて電源を入れ——、
現在に至る。
テストを開始するまでに、記憶には不自然な欠損などはない。ということは、いま俺がいるこの場所がテストフィールドと考えるのが最も自然なのだろう。
だが、そう考えてしまうとおかしな点がある。
βテスト前に知らされていたフィールドは洞窟。どう解釈しても、ここが洞窟内であるとは言い難い。
しかも、フィールドマップを知らされたのはテスト開始二十分前。この段階で運営側にフィールドを変えるメリットはなく、変更していたとしてもその情報が末端まで伝わっていなかったと考えるのも無理がある。だとすれば、これはバグであるとするのが一番可能性が高いだろうか。
もしそうなのだとしたら、運営もご愁傷様としか言えない。いま俺が見ている景色、肌で感じる空気の流れ、コンクリートの触感からそのシミに至るまで、現実世界と大差ない……いや、ここが現実世界だと言われれば、間違いなく俺は騙されていただろう。それほどまでに完成度が高い。
これほどの技術力を終結させてお披露目するはずだったβテストで、フィードバグというまさかの初歩的なバグ。だが、専門知識に乏しいテスターはシステムそのものの欠陥だというだろう。そして、この評価はSNSを通じて瞬く間に広がる。そうなれば検査基準が厳しくなる可能性は大いにある。ここまで来たら、そうならないように祈るしかないが……。
とりあえず、運営に連絡しようと指を操作し、メニュー表示動作を行う。だが——、
メニューは、出現しなかった。
「…………?」
認識されなかったのかと、何度も同じ動作を行う。しかし、指が空を切るばかりで、どれだけやってもメニュー欄が出てくることはない。
カツンと、右の足先に何かが当たった。
下を向けば、そこには銀色に光るヘッドセット。俺がいま、頭につけているはずの機器——バーチャル・ホーク——。視界をよく見てみれば、左上に出ているはずのメニュー縮小マークがない。頭部を触ってみても、本来あるはずのものの感覚がない。ということは、俺は今バーチャル・ホークをつけていないことになる。
「…………」
無言でバーチャル・ホークを拾い上げ、装着する。しかし、視界に大きく表示されたのは、明滅する「disconnection—回線切れ—」の文字。
バーチャル・ホークは、視界から入った情報をいったん高速処理を担うサーバーへと送る。そして、処理され最適化された情報を受信し脳内に電磁パルスを通じて送り込むのだ。サーバーとの接続がなければ、その情報は送られてこない。そのときは、真っ白な実験施設の映像を見るだけだ。
では、いま俺が見ている景色は何なんだ?
外す、着ける、外す。景色が変わることはない。
「……どこだよ、ここ」
ポツリとそう呟いたその声は、静かに大気へと溶けていった。
◆◇
「人は、あまりにも衝撃的な出来事には、驚くことすらできないのである」、どこかの書籍で読んだ偉い心理学者の言葉だ。眉唾ものだと思っていたが、実際にその境地に至り、皮肉にもその言葉が的を射たものであるということを現在身をもって経験中である。
目の前に広がる、明らかに非現実的な光景。それを目にして、俺は何の言葉を紡ぐことすらできない。
湧き上がる感情は、困惑、この一語のみ。ここまでぶっ飛んだ状況だと、かえって冷静になれるのだから不思議だ。
いまの状況をもう一度整理してみる。
俺はいま、バーチャル・ホークを着けていない。それにも関わらず、いまも施設の景色ではなく見えているのは木々が生い茂る山の光景。それはつまり、ここがAR空間の中でないということを証明している。だとすれば、考えられる可能性はいくつかに絞られる。
ひとつ、ここはVR空間の中。俺たちは何らかの方法でダイブさせられ、いまこの場所で目が覚めた。もう一つ、AR技術の公開というのは建前で、実はさらに進んだVR系統の新技術を公開するために俺たちは集められた——有力な仮説はこの二つだろう。先ほども、雨宮は「みんな」と言っていた。参加者全員がこの場にいるのなら、この二つ以外と考えるには少し無理がある。だがそれにしても、なぜ運営はこんかいのように無理な方法で俺たちをダイブさせたのか。
被験者たちをだます形でダイブさせれば、間違いなく『VR法』に引っかかる。今回のテストは、禁止事項のオンパレードだ。VRを使えば洗脳を行うことも容易なので、こんなことはどう考えても警察が黙っていない。
いくら考えても、この状況を作るメリットが企業側にはない。もしくは法を犯してでも行うメリットがあるのか? だとしたらそれはいったい……
——だから放せって言ってんだよ!
突如、大きな声が廃墟側から響いた。
思わずそちらに走り出す。そこには円状に人だかりができており、真ん中では誰かが口論をしていた。雨宮も人だかりの外から中心を覗いており、こっちを振り向いたその顔には心配そうな表情を浮かんでいた。
円の中心には、ふたりの男性がいた。
両者二十代前半。一人は黒髪で高身長、少し筋肉質な青年。もう一人は、金髪にイヤリングといういかにもやんちゃしてそうな青年。黒髪の方に、金髪が食って掛かっているような図だった。
「俺たちがアンタらの言うことなんざ聞く義務はねーだろ」
「そういう問題じゃねぇんだって! もう少し様子を見ろって言ってんだ」
「十分見たじゃねーか! これだけ待っても、運営からは何も通知がねえ。何かあったら通知があるはずだろうが」
言い合いは続く。よく見てみると、ここの人間は二つの集団に分かれているように感じた。
ひとつは金髪に同調するような集団。こちらはリュックを背負い、いまにもここから出発しそうな格好をしている。もうひとつは黒髪青年に同調する集団。運営からの指示を待つのがいいと、彼らを説得しているような状態だ。
「通知がないこと自体がおかしいだろ!」
「それが問題ねえって証拠だろうがよ」
「この状況見てまだそれ言ってんのか⁉」
雨宮いわく、どうやら黒髪の方は、彼らをここに止めておきたいらしい。だが、金髪たちの方はそれに従おうとしていない、といった具合だ。
ひとりは、彼らをここに留めようと、もうひとりはここから立ち去ろうと。両者は譲らない。口論がヒートアップしていく、口調がますます荒くなる。そしてとうとう、金髪の方が怒鳴った。
「お前こそ寝言言ってんじゃねーぞ! ここがゲームじゃないなら何なんだ? もしかしてあれか?」
「ここが本当に異世界だとか思ってんじゃねーだろうな?」
時が止まった。
黒髪の青年が、周りの動きが、一斉に止まった。
雨宮の身体が、びくりとはねた。
「…………」
「……おいおいおい、マジか図星かよ。本当にお花畑だなてめぇら」
あまりにも予想外すぎる反応だったのだろう、金髪は一瞬言葉を失い続いて心底バカにしたような表情を浮かべた。
「あー止めだ止めだ。こりゃあ話しても時間の無駄だわ」
「ッお前」
「いい加減話せよ痛えんだよ」
黒髪青年の手を乱暴に振り払い、金髪青年たちは後ろに下がる。人だかりが割れ、道ができる。
「そんじゃさいならー。基地は譲ってやるよ。そのかわり、レアアイテムは全部いただくぜ」
捨て台詞なのか、それとも軽蔑の言葉なのか、彼らはそう言って森の中に入っていった。その姿を、俺たちは黙って見送る。止めていた青年は、悔しそうに両手を強く握りしめていた。
「……おう、お前も目が覚めてたのか」
ひとつ息を吐き、振り帰って俺を見つけた青年が、少し悲しそうな笑みを浮かべる。
「晴香ちゃんとそこの少年は残ってくれ、話がある」
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