第6話 シシリアン・ディフェンス2






 暫くして、リーゼとの対局が始まった。

 一回戦と二回戦に続き、やはり私は後手番で、リーゼはやはりオープンゲームを選択した。

 私が二手目でC5にポーンを動かすと、彼女のこめかみがぴくりと動く。


 ……やっぱり、この世界ではシシリアン・ディフェンスが定跡化されていないんだ。


 リーゼの反応を見て私はそれを確信した。

 シシリアン・ディフェンスとは先手番のオープンゲームと呼ばれる王道定跡に対抗して作られた序盤定跡である。

 一回戦も二回戦も、私はこの作戦で割りと簡単に勝ち進むことが出来た。


 簡単に言ってしまえば、先手があまりにも優勢になるオープンゲームと呼ばれる作戦に対して、後手でそれに立ち向かえる数少ない対抗形。

 これを使えば後手が優勢になると言うわけではないけれど、その作戦を知らない相手がオープンゲームを仕掛けて来たなら、この変化をつけた定跡を知っている私はほぼ負けない。


 二手目で自分の知っている定跡の範囲から外れたリーゼは、眉間にシワを寄せて盤面を凝視していた。


 序盤で定跡から外れることは、上位者からすれば恐怖である。

 相手も上位者だと分かっている場合、それは自分の知らない新定跡を使われている可能性が高いからだ。


 何度も言うが、定跡とは途方も無い歳月を掛けて作られた最善手の集合体である。対局中の僅かな時間でその手の意味を全て読み解くことなど、出来るわけがない。


 チェスに人生を投資した桁外れの天才が、何十年も掛けて生み出した知と血の結晶が定跡だ。それを初見で理解するなど不可能なのである。


 つまり定跡とは、ある種チェスや将棋の答えに近い。『この手を指されたら、こう』それを知っているか知らないかで、対局の主導権が決まるのである。


 結局、わずか3手目にして持ち時間を大量に消費したリーゼがようやく指した応手は、悪手とは言えないものの、最善ではない一手だった。

 むしろ感心した。わずかな時間で、あらゆる可能性を考慮したと分かるその一手は、最悪からはかけ離れた良手と呼べる一手だったから。


 ……でも、足りない。


 10手以上先の、数百通り以上の有力筋を全て読めば、読み筋は数千通り以上になる。

 それを対局中に読み解いたリーゼの実力には驚いたけれど、定跡はその更に先も読んで構築された答えなのである。


 リーゼの指したその手には、20手ほど先で大駒を損する1つの変化が存在する。

 そんなもの、読めなくて当然だ。私だって読めるわけがない。ただ、私はその定跡を『知っている』だけ。


 この世界には無く、前の世界にだけ存在した定跡を、私がたまたま知っていただけ。


 それだけの違いで、勝負はほぼ決した。


 中盤でリーゼの駒が数を減らす。彼女はそれを無視して、全力で攻撃を仕掛けてきた。

 それも素晴らしい判断だと思う。戦力の均衡が崩れた以上、私は一旦戦況を落ち着かせてジリジリと確実にリーゼのキングを追い詰めて行くつもりだった。

 しかし彼女は、僅かでも勝てる可能性のある短期決戦を選択した。


 次々と駒を損しながら、それでもキングだけを一直線に狙ってくる特攻戦法。

 駒は次々に討ち取られるけれど、チェスは相手の駒を取るゲームでは無い。どれだけ駒を取られても、相手のキングさえ仕留めてしまえば勝ちなのだ。


 私は戦力をキングの周りに集中させて、リーゼの猛攻を必死に受けた。


 キングを守りながら、自分の駒がタダで取られないように気を配る。


 ……相討ちで良い。既に戦力はこちらが上回っている。


 リーゼの攻めをひたすら受け流し、駒同士の相討ちを続ける。……先に息が切れたのは当然彼女のほうだった。



「--チェックメイト」


 静かに駒を盤上に置く。


 殆んど駒が居なくなったさっぱりとした盤上で、角に追い詰められたリーゼのキングを、私の駒が囲んでいる。


 ……勝った。途中、かなり危なかったけど。


 予想以上の粘りを見せたリーゼの指し手には驚いた。


 対局が終わるとフル回転させた脳がオーバヒートしたように熱を持ち、ガンガンと脳を直接叩くような鈍い頭痛が懐かしくも煩わしく感じた。


 私は静かに息を吐き、戦いの終わった盤上をジッと見つめる。


 将棋と違ってチェスは相手にとどめを刺す。

 慣れないその感覚が妙に心苦しくて、ただただ静かに座っていることしか出来なかった。


「……なぜ、喜ばないのかしら」

 

 静寂の中、リーゼの震えた声色にはっとして顔を上げる。

 戸惑いながら彼女を見ると、目を真っ赤にして、膝の上で拳を握りしめる彼女がいた。その表情からは悔しさよりも強い憤りのようなものを感じる。


「わたくしは、クレア様が喜ぶにも値しない腕前だったのね?」


 リーゼが吐き捨てるようにそう呟く。


「ち、違うわ。とっても強かったわ、とっても……」


 その様子に私は慌てて反論する。

 本当にリーゼは強かった。きっと彼女はかなり自信があったのだろう。泣きそうになるほど思い入れが深いのも頷ける強さだった。序盤で優勢を築けなければ正直勝てたか分からないほどに。


「……ではなぜ喜ばないの?」


 この世界では勝てば喜ぶのが礼儀なのだろうか。言われてみれば、勝った人は皆、素直に喜んでいた気がする。


 --えー、なんか、嫌だな、それ。


 私は素直に喜べなかった。それは相手がリーゼだったからという理由だけではない。


 ……これはきっと、前世で幼い頃からお祖父ちゃんに教えられた将棋の精神が影響している。


『勝っても相手の前で喜んではいけないよ』


 それは日本人だけの美学なのだろうか。今なら理解出来るけれど、当時の私はその理由が分からずお祖父ちゃんに何度も質問した。その度に、お祖父ちゃんはこう言っていた。


『勝ったら嬉しいだろう? 相手が強ければ強いほど嬉しいだろう? 

 ……同じだけ、相手は悔しいんだよ。その気持ちを考えてあげられる者こそ、本当の勝者だよ』


 私はリーゼを真っ直ぐ見つめた。視線がぶつかった彼女の両目には、今にも溢れ落ちそうなほど涙が溜まっている。


「……リーゼ様。これでも私、本当はとっても嬉しいのよ? でも、私が嬉しいぶんだけ、リーゼ様は悔しいでしょ? 私も負けたらとっても悔しいもの。多分泣いてしまうくらい。それが分かるから、リーゼ様の前で喜べないわ」


 その複雑な心情を告げると、リーゼは潤んだ瞳をまん丸くして私を見つめていた。


「そう。そんなこと、考えたことなかったわ。……クレア様、貴女とってもお優しいのね」


「そんなことないわ。本当は今すぐ飛び跳ねたいくらい嬉しいんですもの」


「あら、もしかしてわたくしが居ないところでお喜びになる気?」


「もちろん。きっと飛び跳ねるわ。ドレスが脱げちゃうくらい」


 未だリーゼの瞳には涙が残っていたけれど、彼女はその目でくすりと微笑んだ。同時に目尻から溢れた一筋の涙と、彼女の笑顔が、とても美しく思えた。


 --あ、友達出来たかも。


 なんだかそんな気がした。


 ……それはとても嬉しいことだけれど、今はさておき、次はいよいよ決勝戦である。

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