第7話 クローズドゲーム





 準決勝の対局が終わり、メイクを直しに行くと言うリーゼに化粧室まで付き添ったあと、一度テラスで夜風を浴びた私が大広間に戻ると、もう広間には人集りが出来ていた。


 私はなんとかその人混みをすり抜けて中央に辿り着く。


 先ほどまで3つ並んでいたチェスボードは真ん中の1つを残して既に片付けられていて、決勝戦の相手はもうその前に座っていた。


「ん? 君が決勝の相手か? 私はデリック・ホークアイだ、よろしく頼む」


 私がチェスボードの向かいに立つと、男は椅子から立ち上がり笑顔で手を差し出してくる。


「……ごきげんよう、デリック様。クレア・コールマンですわ」


 握手をしながら男を見る。歳は二十代後半から三十歳くらいだろうか。少しだけ蒼みがかった黒髪と褐色の肌、頬の大きな刀傷が印象的な男だった。


 たしか、王国軍の幕僚を務める騎士団あがりの元老院議員。ホークアイ子爵。


 以前記事で見たことがある。帝国との外交問題に強硬姿勢をとる軍閥派の中では柔軟で対応力がある若手議員だとか。まあ、ものは言いようで、柔軟な対応力は日和見ひよりみや優柔不断とも言えるだろうし、結局どんな人なのかは分からないけど。


「ところで君にお願いがあるんだが、勝ちを譲ってくれないか?」


 笑顔を崩さずデリックがいきなりそう言い放つ。初対面から曲者臭が物凄いその男に、こちらも笑顔のままお返事する。


「あら、幕僚閣下ともあろうお方がチェスはお得意ではないのかしら?」


 貴族は、特に、軍関係の役職に就く貴族は、総じてチェスが強い。

 チェスは64マスの戦争の縮図とも言える。それを嗜むことは、軍事に関わる貴族にとって至極当たり前のことらしい。


「ははは。手厳しいお嬢さんだね。不得手では無いさ。自信だってある。だが、より確実に目的を達成する為に最善を尽くすのは、軍人として当たり前のことだろう?」


 私の皮肉に一切動揺も見せず笑顔でそう返してくるデリック。


 少しだけ、イヤな予感がした。


「……目的、ですって?」


「ああ。ゴーストだよ。私はどうしても奴に会いたい」


 ……やっぱり。


 私は内心で舌打ちを吐く。

 どうやら彼も暇つぶしに参加したわけでは無いらしい。

 笑顔のまま笑っていない瞳の奥で見つめ合い、私とデリックはお互いの心胆を探り合う。


「それは、奇遇ね」


「そうか、君もか。ならばしょうがない。手加減なしだ」


 彼が私の手をようやく離して着席する。


「ええ。そんなもの要らないわ」


 視線をデリックに向けたまま、私もゆっくりと椅子に座った。


 ……デリックは幕僚だ。元老院で言えばタカ派の中核を担う軍閥派の一員のはず。

 いわゆるハト派に属するルーデンス伯爵の夜会に来ていること自体少々疑問に思えるのだけれど、何か裏でもあるのだろうか。


 対局が始まるまでの僅かな間、私は彼の思惑を推し量ろうと頭を巡らせていた。


「--それ・・、口紅が落ちるんじゃないか?」


 真正面から訝しむような視線を送ってくるデリックの声で意識を引き戻す。いつの間にかオペラ・グローブを着けたまま、親指で唇をなぞっていた。


「……ええ、落ちるわね」


「そ、そうか。先に直しに行くかい?」


 虚を突かれたように少し眉を動かしたデリックが、困り顔でそう提案してくる。


「……結構よ。どうせすぐまた落ちるわ」


 これは考えごとをするときのクセだから、対局が始まればどうせまた無意識でやってしまう。


 ……オペラ・グローブが黒で良かった。リーゼのような白色だったら大惨事になっていた。


 私は彼の提案をお断りしてチェスボードを睨みつけた。


 大きく一つ深呼吸をする。周囲の喧騒が段々遠くに離れていく。


 --集中だ。集中、集中。この64マスの宇宙に深く潜るのだ。


 将棋の対局が始まる前のような、盤に吸い込まれていく感覚に襲われる。

 これは集中出来ている証拠。大丈夫、きっと勝てる。


「お願いします」


「あ、ああ。よろしく頼む」


 深々と頭を下げる。戸惑いながらデリックが私に合わせて頭を下げた。

 この世界ではチェスの対局前の挨拶で頭を下げたりはしない。これは前世の将棋のマナー。そんなことも分からなくなるほど、私は意識をチェスボードに集中させていた。


 2つの時計が合体したような形のチェスクロックのボタンを叩く。それに呼応してデリック側の時計が針を刻み出す。


 決勝戦も私は後手だった。この世界では後手は不利とされているらしいけれど、シシリアン・ディフェンスがある限り私に後手の不利は無い、はず。


 そう考えていた私は、デリックの初手に驚愕した。


 --初手、D4? ……やばい、これってたしか、クローズドゲームだったっけ。


 オープンゲームに対応して作られたシシリアン・ディフェンスなどの対抗形。その定跡の進化が行き詰まった先に生まれたクローズドゲームと呼ばれる先手戦法は、守るべきキングの目の前にあるポーンを前進させる奇抜な初手から始まる。


 ……シシリアン・ディフェンスが定跡化されてないクセに、クローズドゲームがあるって、どういうこと?


 頭の中で悪態を吐く。玄人好みのその戦法に思わず頭を抱えたくなった。

 将棋なら全ての戦形と全ての序盤定跡は頭に入っている。だけど私は本来チェスをやらないし、そもそも子供の頃のお遊びでチェスの主流戦法を覚えているだけなのに。


 えーっと、たしか応手は……D5だったはず。


 蜘蛛の糸より細い記憶の糸を辿って駒を動かす。序盤は読みより定跡が重要で、考えるより時間を無駄に使わないことが求められる。

 それは定跡の範囲を超えた終盤戦で、読みの殴り合いに勝つための大切な時間を残す為である。


 私が駒を動かすと、すかさずデリックがC4にポーンを置く。


 --うわあ、間違いない。この人、クローズドゲームを知ってる。


 4手目にして私は早くも唇に親指をあてていた。


 ……知らない。この先の、枝分かれした複数の定跡を、私は知らない。


「クレア様、絶対お勝ちになってっ」


 盤面に集中する意識の中で、微かにリーゼの声が聞こえた。


 --そうだ。私はリーゼの思いも背負って戦っている。負けるわけにはいかない。絶対勝って、……ゴーストに会う。


 定跡を知らない序盤戦は、例えるなら地図の無い宝探しのようなもの。

 相手だけが宝の地図を持っていて、私はそれを見ずに戦わなければいけない。

 シシリアン・ディフェンスを使っていた今までと、まるで反対の立場に立たされた時、その恐ろしさを改めて実感した。









 対局終盤、盤面は力戦形になっていた。力戦とは序盤で定跡から外れた戦形のことをいうのだけれど、私が定跡を知らないのだから当然盤面はそうなる。


 形勢は一目互角、だと思う。定跡を知らない分、私の陣形のほうがバラついて纏まりが無い気がするけれど、なんとか表面上の均衡は保てている。


 あとは、どうやってこれを纏めていくか……。


 中央に厚みを持たせて攻めてくるデリックに対して、私の次の一手は勝負の行方を左右する重要な手になると思う。


 --中央を棄てて、相手のキングに直接迫るか。低く構え直してカウンターを狙うか。はたまた中央で正面からぶつかるか……。


 これが将棋なら駒得を活かしてカウンターを狙いたくなるところだけれど、チェスは奪った駒を使えない。

 将棋よりもカウンターの重みが軽い気がする。


 ……じゃあキングに直接迫るべき? いや、中央を棄てたら多分そのまま押し潰される。やっぱり、中央は譲れない。


 私は駒を動かして中央に寄せる。


 --正々堂々、正面突破だ。感覚は将棋の5筋位取り。駒がバラついている分、駒の利きは私のほうが良い。中央の厚みを主張してキングを端に早逃げさせる。


 中央で互角を保てればキングが遠い分だけ私のほうが有利になる、と思う。


 私が駒を動かすと、それに対応してデリックも中央に駒を寄せてくる。私は将棋とチェスの感覚のずれに注意しながらそれに対応した。


 --やっぱりチェスは将棋と違う。駒の損得は一旦忘れたほうが良いかも。取り合いになったあと、残った駒の利きが相手の急所に刺さっていることが一番重要な気がする。


 将棋で培った感性を信じて感覚で指す。第一感と呼ばれる感性の読み。中央の取り合い。駒の利きが集中しているD4へ、私は先に最強の駒であるクイーンを棄てた。


「……ほう。これは、そうか。なるほど」


 デリックが顎に手をやり唸る。私は無言で親指を口元にあて、唇をなぞりながら盤面を凝視していた。


 --えーっと、うん。瞬間的には不利になる。でも、12手先でポーンの昇格が約束されている。昇格させたポーンは、そのまま将棋で言う『詰めろ』の状態になる。そこから先は、……一手一手。大丈夫、多分読み切れてる。多分、勝った。


 デリックが駒を動かす。私は読み抜けが無いかを何度も何度も見直しながら、頭の中に描いた終局図に向けて盤面を動かしていく。


「チェック」


「……そうか、ふむ。そうか」


 チェックメイトまであと10手ほどになった時、デリックの肩から力が抜けたのが分かった。

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