第10話 振り出しに戻る
王都の中心。降り注ぐ陽光を反射して燦然と輝く真っ白な巨城。
ルクレツィア王国王城、白亜の城。
私は荒い呼吸を繰り返しながら眼前に聳え立つその巨城を見上げていた。
「はぁはぁ。間に、合った?」
ハンドバッグから懐中時計を取り出して時間を確認する。小さなガラス板の向こう側で精確に時を刻む2つの針は、あと5分ほどで真上を指そうとしている。
……ぎりぎり間に合った。
なんだか最近、やけに走る機会が増えたような気がする。
ドクドクと酸欠の身体に全力で血液を供給する心臓を労るように、そっと胸に手を当て呼吸を落ち着けながら足を踏み出す。正門を守る衛兵の横を恐々と通り過ぎ、城内に足を踏み入れた。
あと5分、封書の中身を確認するのが遅れていたら……。そう考えると冷や汗が伝った。
「結局それにはなんて書いてあるんだよ」
マリーの嫌がらせを受けた後、編集長にそう言われて確認した書面の内容。
『明日、正午までに私の所へ』
たったの一行。ただそれだけが書かれてあった。
ーー昨晩受け取った書面に書いてある『明日』なのだから、日付けは恐らく今日のことで間違いないと思うけれど。
……私? 私って誰だ。これは一体誰が書いた文章なんだろう。
一瞬の逡巡の後、私は一か八か駆け出した。当然考えはまだまとまっていなかったけど、そんなことより時間が無かった。封書を開いた時点で時刻は11時半を回っていたのだ。
差出人の正体は分からない。けれど、『その上に居る人間』は、奇しくもマリーのおかげで判明していた。
……リガルド法務卿閣下のところへ行こう。
直感でそう決めた。そうしては私はここに来た。
法務卿の職場は王城。ルクレツィア城、法務局法務卿執務室。
豪奢な内観と内壁に施された鮮やかな彫刻に圧倒されながら、足早に城内を歩く。
時間はなんとか間に合うだろう。服装はこんなので大丈夫だろうか。こんなことになると分かっていればスーツで出社したのに。
コツコツと足音を響かせながら、緊張を紛らわすようにそんな詮無いことを考える。
何の模様も刺繍もないシンプルな薄手の藍色のセーター。シルエットが出るタイトなハイネックのそれに、黒い膝丈のマーメイドスカート。
これにせめてフォーマルなジャケットでも着ていれば良かったのだけれど、あいにく今日は朝から日差しが暖かく、家を出るときに必要ないと判断した。
……あーもう、朝の自分に言ってやりたい。俄然必要あるから! むしろスーツ着たほうが良いから!
今更そんなことをいくら考えても後悔先に立たず。気付けば足はもうルクレツィア城内、法務局の前で止まっていた。
木製の一枚板で造られた大きな両開きの扉。端的に法務卿執務室とだけ書かれたプレートが飾られたその扉を、一つ深呼吸してからノックする。
時間はジャスト正午12時。服装はTPOを弁えていないけれど、そこまでラフというわけでもない。少しファンキーな奴だと思われるかも知れないが、遅刻してファンキー過ぎる奴だと思われるよりは断然マシだ。
「ーー入れ」
しばらくの静寂の後、執務室内から低く落ち着いた声がした。
「失礼致します。エルドア新聞のクレア・コールマンと申します」
張り詰めた緊張の中、扉を少しだけ開き、隙間に身体を滑り込ませる。
入室した私を睨むように大きな執務机から視線をあげた壮年の男性と視線が交錯した。
「……何用だ」
「はい。こちらの書類の件で伺いました」
あまり世間話や前置きが好きではない寡黙な男性。瞬時にそう判断して、端的に要件を告げる。
私をジッと図るように見つめた後、執務机に置いたその書類を手に取った男が、それをしばらく眺めてから再び私に視線を向けた。
「なんだ、これは」
……え? もしかしてやらかした?
眉間にシワを寄せてこちらを見つめる男性の所作に焦りながら、私は正直に書面の経緯を説明した。
「こちらは昨晩ルーデンス伯爵に頂いたものです。『私のところへ』と書かれてありましたので、封蝋を確認したところ、リガルド法務卿閣下の部下の方と思しき紋章が刻印されておりました。その件でこちらへ伺った次第なのですけれど……」
余計な説明は省く。チェスがどうとか、マリーがなにとか。そんなことは今はどうでも良い。
「……そうか」
返事はそれだけ。男はそのまま口を閉ざし、ただ私を睨むように鋭い目つきで見つめてくる。
……これはなんの時間だろう。最高に気まずいのだけれど。
その視線の圧力に負けて思わず目を逸らしそうになったけれど、それは失礼にあたるかと思って必死に私は男を見つめ返した。
「…………」
「……私がリガルドだ」
うん、知ってる。
どれくらいの時間だろう。永遠に思える長い沈黙の後、男は静かにそう述べた。
そんなことは分かっている。ここは法務卿執務室で、貴方はその執務机に座っているのだから。
そう思ったが、言えるわけもない。
「では、こちらの書類は……?」
窺うような声色で、恐る恐る聞いてみる。
リガルドはその質問に再び黙り込み、室内には再び地獄のような静寂が訪れた。
「…………」
「…………」
……長い。いちいちタメが長い。突然、『ファイナルアンサー?』とか言ってきそうなくらい長く張り詰めた緊張感のある空気。
ーーファイナルアンサーだよ! ファイナルアンサーでいいよもう! 早くなんとか言ってよ! こうしてる間も精神がガリガリ削られてるんだよ!
締め付けられた心臓がキュウキュウと悲鳴を上げだしたころ、1秒が1時間にも感じられるその静寂をやぶって、リガルドがようやく、ようやく口を開いてくれた。
「まさか女が来るとはな。驚いた」
……良かった。反応からすると、どうやら正解だったらしい。マリーに感謝しなければ。
「では、法務卿閣下はゴーストをご存知なのでしょうか」
沈黙を嫌って単刀直入に切り込む。
もうあの静寂は嫌だ。さっさと話を終わらせたい。
「……ああ。知っている」
「どういったご関係ですか」
「……それは彼に直接聞いてくれ」
「ゴーストの目的とは、一体なんなのでしょう」
「それも直接聞いてくれ」
「……ではどうすればゴーストに会えるのですか」
「…………」
「……私は、ルーデンス伯爵にゴーストに会えると言われてこちらに伺ったのですが」
「……会いたいのか?」
「ええ、是非」
「会ってどうする」
「真相を、知りたいだけです」
一問一答の会話。その厳格とも尊大ともとれるリガルドの雰囲気に、なぜか私は前世のバイトの採用面接を思い出していた。
あれは大学一回生のときの、小洒落たカフェテリアの採用面接。今にして思えばたかがカフェ店員のバイト面接で、あの店長はなんであそこまで偉そうだったのだろう。
思い出したらなんだか無性に腹が立ってきた。
「……よかろう。君は私が用意した選考を勝ち抜いたのだろう? ならば彼に会う資格がある」
返答を待つ私の思考が明後日のほうに飛んで行き、視線を交えたまま見当はずれの回想に思いを馳せていると、尊大な態度が今も記憶に残るあのカフェの店長よりも厳かに、リガルドが面接結果を発表した。
こちらは尊大と言うより威厳があるという表現が相応しく感じる。これは法務卿に相応の能力と実力と地位があるからだろう。むしろ堂に
よくわからないけれど、今の一連のやり取りは本当に採用面接のようなものだったらしい。つまりあのチェス大会は一次選考会だったのだろうか。
……一体なにを選考していたんだろう。
まあ良い。まあ良いや。とりあえず合格だ。さっさとゴーストの居所を聞いて退散しよう。
「では、ゴーストに会うにはどうすればよろしいのでしょうか」
「……ああ。それはな、ーー」
・
「ーーと、言うわけでまたここに来ました」
ひんやりとした空気が立ち込めた薄暗い空間で、私は再び彼の前に立っている。
たらい回しにされたみたいでなんだか釈然としない不満が残ってはいるけれど、相変わらず封魔の鎖で
「……驚いたな。まさか本当に君が来るなんて」
数日前と同じ場所に、数日前と同じ姿勢で、数日前と同じ服を着て座っているジークの姿は、相変わらずこの薄暗い空間に後光が差しているのかと錯覚するほど美しかった。
「諦めるとでも思ったんですか?」
私を見つめて瞠目する彼に問い掛ける。少し自慢げに、少し不満げに。
初対面のときより随分自然に話しかけられるようになっている自分に驚いた。
「そうじゃない。そうじゃないんだが、法務卿が君を選んだことに、驚いてる。……優秀なんだね、……君は」
「クレアです」
きっと初めて会った日の彼にとって、私は路傍の石にも満たない存在だったのだろう。
名前すら出てこないその様子に正直落胆したけれど、これで少しは信頼関係が築けたように思う。
取材をするにあたって信頼関係は何より重要だ。こればかりはお金じゃ買えないし、ねだって得られるものでもない。
「……クレア。そうだ、クレアだ。クレア・コールマン。すまない、つい名前をど忘れしていたみたいだ」
視線を足元に向けて少し考え込むような仕草を見せた後、彼は私の目をしっかりと見つめて、私の名前を連呼した。
意外にも彼は私の名前を覚えていたようだ。そう知った瞬間、心臓を誰かにノックされたかのように、唐突に胸がドキドキと高鳴った。私はまた驚いた。今度はそんな些細な事実をとても嬉しく感じている自分に、とても驚いたのだ。
「そうです。クレア・コールマンですよ。ジーク・フリードリヒ・ルグランさん」
「ああ、合ってる。ジークでいい」
その変わらない返事に思わず笑みがもれそうになる。二度目の自己紹介がやけに可笑しく感じて、けれどそれを悟られるのが無性に恥ずかしくて、私は平静を装ったままにやけてしまわないように必死に努力した。
「ジークさん。今日は色々と質問がしたくて来たんです」
「ああ、分かってる。ここは、そうそう面会に来られる場所じゃない。リガルドが、法務卿が、君を認めて君を選んだ。きっとそうなんだろう?」
「ええ。そういう認識で結構です」
私はハンドバッグから取り出した一枚の書状を彼に見せる。
法務卿閣下リガルド侯爵の押印がなされたその書状には、バスティル大監獄所長に向けて、ジークと私の面会を許可するよう求める旨が綴られている。
太い鉄の格子を挟んでその書状を見つめるジークに、私は数日ぶりに再びこの問い掛けを繰り返す。
「……ジークさん。貴方は、ゴーストですか?」
格子を挟んで視線が交錯する。その美しい銀色の瞳に吸い込まれてゆくような錯覚を覚えた。
何かを伝えようと、ジークが薄い唇をゆっくりと動かす。その動きがやけに艶めかしくて、不本意ながら顔が熱くなる。
……なんか、なんかエロい! なんだこの色気は!
私を見つめるジークのその瞳が、僅かに微笑んでいるように感じた。
「……そうだよ。僕が、ゴーストだ」
あ、ヤバい。なんかぼーっとする。
少し掠れた、低くて甘い声。まるで脳みそを溶かすように、耳を突き抜けて頭に直接響く魔性の声。
その魅惑から必死に意識を振り払い、私は彼をしっかりと見つめる。
面会時間は僅か30分。地下牢の外では今日も看守さんが懐中時計を片手にその時を待っていることだろう。
……まるで時間が足りない。急がないと。
私は彼に、どうしても聞かなければならないことが、聞いておきたいことが、山のようにあるのだから。
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