第9話 エルドア新聞社の日常





 ありえない。あってはいけないことが起きている。


 私は真剣な眼差しで、それはもう震える小鹿のような瞳で、ふるふるしながらを見つめて問い直した。


「……もう一度言って頂けますか」


 あまりの事態に声まで震えている。焦ったときにも涙が出てくることを、私は産まれて初めて知った。


 そんな涙目で見つめる私を見ようともせず、デスクに置かれた大量の書類を読みながら、彼はまるで店先に置かれたマネキンのような無表情で冷酷に言い放つ。


「いや、だからドレスが経費で落ちるわけないだろ。馬鹿かお前」


 鬼、である。


 私と同じブラウンの髪色、ブラウンの瞳。無駄に整った彼の容姿に腹が立つ。


 経費とはもちろん昨晩の出費のことである。87万2800G。いや、あとから買い足したストールも入れると、ほぼ100万G。


「……自腹を、切れ、と?」


 読んで字の如く、切腹ものの出費である。


 絶対イヤだ。やだやだやだやだやだ!!

 何とかなるまで私はここを動かないっ。1人ストライキだ! 1人デモだ!


「当たり前だろ? ドレス買って夜会に潜入しろなんて言ってないわけだし」


 にべもない。彼、いや、編集長には情が無い。

 

「こんなに可愛い部下の頼みなのに?」


 精一杯可愛らしく涙を瞳に溜め、上目遣いで編集長を見つめてみた。


「……あー、……3点。て言うかお前一応フリーライターじゃん」


 ……今のは何点満点の評価なんだろう。編集長の表情を見る限り、3点満点じゃないことだけはわかったけど。


「……あーあ、折角ゴーストの極秘独占情報を入手してきたのに。他紙に売っちゃおっかなー。おっしゃる通り形式上はフリーだし? 来てくれって言われたこともあるし?」


 押してダメなら引いてみる。粘り強さはルポライターに必須のスキルだ。このぐらいじゃ諦めない。

 だって100万Gだよ、100万G。諦めてたまるかっつーの!


「……一応聞いてやる」


 よし、食い付いた。


これ・・、なんだと思います?」


 私は懐からまるで三つ葉葵の御紋が描かれた印籠のように一通の封書を取り出す。もちろん、昨晩ルーデンス伯爵から渡されたものだ。


「だからなんだよ。早く言え」


 面倒そうに机から視線をあげた編集長が、肩をぼりぼりと掻きながら鬱陶しそうに私を睨んだ。


 バレバレだ。面倒臭そうな演技を頑張っているけれど、爛々と輝いてる目の奥は誤魔化せない。……さては相当興味があるとみた。


「ルーデンス伯爵に頂いたゴーストの紹介状です」


「は? ……紹介状?」


「紹介状、みたいなものです」


 胡乱うろんげに見つめる編集長に勿体をつけながら封書の経緯を説明する。身振り手振りをつけながら、これを入手するまでの苦労を余すことなく朗々と語る。

 椅子に踏ん反り返って頬を掻いていた編集長の身体は、私の話が終わる頃には机に前のめりになっていた。


「ほー、なるほど。すげえな、確かに」


 編集長が珍しく素直に感嘆の声をあげた。私はその反応ににやりと笑って問い直す。


「ところで、経費の件はどうなります?」


「あー、……半分までなら出す」


 は? なんだ、半分って。経費ってそういうシステムじゃないだろうに。

 それってむしろ全額経費で落とすより難しくないか?


 こんなやりとりなんて毎度のことだけれど、相変わらず目の前のこの男の裁量と権限が分からない。

 一介の編集長がなんでこんなにも経費を自由自在に操れるのだろう。


「ルークスさぁ〜ん。クレアちゃんとなにお話ししてるんですかぁ? マリーもルークスさんとお話ししたいですぅ」


 封書を手にした私が編集長に訝しむような視線を送っていると、背後から甘ったるい女の声が聞こえてきた。

 編集長を名前で呼ぶ女はここには1人しかいない。と、言うか女は私以外に1人しかいない。


「……ちょっと。今大事な話ししてるから後にしてくれる?」


 私は振り返ることもなく後ろの女を制した。

 私と同じフリーライターのマリー。一人称を自分の名前で呼ぶ女は大抵ムカつくやつが多い。この原理は日本でも異世界でも同じである。


「え〜、クレアちゃん怖〜い。そんなんだと一生彼氏出来ないよ?」


 綺麗な金色の巻髪をくるくると指で弄びながら、マリーがわざとらしく眉を寄せて心配そうな表情をする。


 なんだか良くわからないフリフリの服。ぶりぶりの声。うざうざな性格。

 年齢も近く、本来なら無二の親友になっていてもおかしくない立場の彼女ではあるけれど、私はこの女が生理的に受け付けない。


「ご忠告ありがとう。でも今まじで真剣な話だから、ね?」


 失せろ。言外にそう言って冷めた視線を送る。こっちは現在進行形で生活が掛かってるんだよ。瀬戸際なんだよ。


「……あれぇ? この封蝋ってたしか、あの人のお家の紋章だったっけ〜」


 そんな私の言葉をまるっきり無視して近づいてきたマリーが私の持っていた封書を掠め取ってそう言った。


「っ!? ちょ、ちょっと! ……えっ、封蝋?」


 取り返そうとした手が、彼女の発した言葉に反応して止まる。


 封書を閉じた朱色の蝋。そこに刻印された紋章はルーデンス伯爵家のものでは無かった。

 当然そんなことは既に私も気がついていたし、気になってもいたのだけれど、結局それがどこの貴族家のものかは分からずにいた。


「……どこの紋章なの?」


 思わず問い掛けた私の質問に、マリーはその瞳をいやらしく光らせた。


「クレアちゃん、教えて欲しいの?」


 困ったように小首を傾げる仕草がいちいちわざとらしい。


「うん。教えて」


「別にいいけどぉ、でも代わりにお願いしてもい〜い?」


「……なによ」


「クレアちゃん、こないだのお食事会でお会いした騎士様からなにか言われてるよね?」


 ……お食事会? ああ、何日か前の合コンのことか。確かに、あの『ハズレ会』で会った騎士の男性にデートに誘われた気がする。

 酔っ払っていてよく覚えていないけど。


 あの日はたしか、私の友達がセッティングしたお食事会だったけど、女性が1人足りないとかでたまたま側にいたマリーが行きたい行きたいとうるさかったから、しぶしぶ連れて行ったんだっけ。

 ……それがなんだと言うんだろう。


「うん、なんか言われた気もするけど、なに?」


「それ断って?」


 ああ、なんだ。そういうことか。

 確かにあの騎士様は、将来性は感じられないけど顔だけはそこそこ良かった。特にあのメンバーの中だったら断トツで。

 性格も悪くなさそうだったし、結婚では無く軽く付き合うくらいなら最高の相手に思える。


「わかった。断るから教えて?」


 でも私が探しているのは彼氏じゃなくて将来の夫である。恋活じゃなくて婚活。21歳独身、寄り道している暇はないのだ。

 一瞬でそう判断した私は、マリーのお願いに即答で応じる。


 ……それにしても、彼女があの騎士様を狙っていたとは意外だ。マリーもこんなぶりっ子はしているけど歳は私と同じはず。

 寄り道している暇なんてあるのだろうか。


 ……いや、不粋なことを考えるのはやめよう。私にとっての寄り道が必ずしもマリーにとっても寄り道とは限らないし、あんまり言うと当の騎士様に失礼になる。

 ごめんなさい名前も忘れた騎士様。ごめんなさいマリー。


 脳内とは言え失礼なことを考えた非礼を心の中で謝罪する。

 よし、2人の末長い幸せを祈ろう。

 短い時間で思案を巡らせ、そう決意した私にマリーが言う。


「え〜、ありがとぉ。なんか奪っちゃったみたいで、ごめんね?」


 ……あ、全然違った。これはただ私に意地悪したいだけのやつだ。


 返せ、私のごめんなさいを返せ。


「あー、……いや、全然大丈夫。気にしないで」


 返事をしながら視線を斜め下に逸らす。実際意地悪になっていないしどうでもいい。


「うん、じゃあ気にしないねっ。じゃあマリー用事あるから〜。あ、その封蝋はねぇ、……『法務卿』の部下の人のお家だよ。名前は、忘れちゃったっ。じゃあねっ、ばいば〜い」


 私の仕草を落ち込んでいると勘違いしたのか、満足そうににっこり笑ったマリーが矢継ぎ早にまくし立てて去って行く。


 ……意地悪しに来ただけかい。て言うか、結局名前知らんのかい。


 呆れ顔でその背中を見送りながら、それでも重要な情報をくれた彼女に内心感謝した。


 ルクレツィア王国法務卿、リガルド侯爵。その部下の封蝋。

 それはつまり、この一連のゴースト事件に法務卿が絡んでいるということなのだろうか。


 予想を超えた大物の登場に、私は思わず虚空を睨み、唇を親指でなぞる。


 少し、情報を整理する必要がありそうだ。思った以上に大ごとになりそうな予感がした。



「ーーおい。どうでもいいけど経費の件、どうするんだ」


「あ、半額だけでもお願いします!」

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