第39話
テレビの天気予報では高山方面は雨模様だといっていた。下呂を過ぎたところで飛騨一号の運転席のワイパーが動き出す。パラパラと窓にかかる水滴を拭い去る。電車は木曾川沿いの混みいった山の縁をへばりつくようにしてゆっくり進んでいる。。
「眠たいわ」
今朝会った、開口一番の挨拶がそれだった。それきり会話らしい会話はしてない。ナナさんはずっと車窓に寄りかかってうつ伏せに寝息をたてている。きっと昨日もあれから夜遅くまでキャバクラの仕事をしていたのだろう。長い髪が頭の左右の耳の上でそれぞれきれいな輪っかをつくっている。聖徳太子像で見たことのある、角髪(みずら)だ。栗色の巻き毛なのに違和感がない。着こなしといい、お洒落感といい、さりげなくも洗練されている。やっぱり、いい女だと思う。上高地はゆっくり泊っていきたいから、往復切符はあなただけでいいよ、と券売機の前でそう言ってたな。学生さんだからできる特典、うらやましい。
もうじき高山駅だ。車窓から遠く東の空を見つめる。北アルプスの峰々の上あたり。重く垂れこめた雲に遮られて何も見えない。あの見えない山嶺の向こう側にちょうど諏訪湖が位置する。飛行機の窓からアメノウズメさんが見下ろして、タケミナカタの諏訪湖がよく見えるわと言っていたのを思い出す。古事記の国譲りの段で、稲佐の浜においてタケミカズチに決闘を挑んで破れたタケミナカタが眠っているところ。やっぱり今回の旅も古事記と絡んでいる?いやあ、それはないでしょ。このいまは、間違いなく現実の世界だ。ナナさんとの初デート。こないだのように、異界に行くことはあるまい。
「上高地は雨かしらん、ねえ・・・」
おれはうらめしい思いで独りごちして、到着駅まで目をつぶる。
高山駅のホームに下り立つ。ここで路線バスに乗り換えて、平湯温泉経由で上高地まで直行だ。
「おお、さむっ!」
「そりゃそうだわ。そんな半そでTシャツ一枚じゃあ、風邪ひくぞ」
「だって毎日30度を超えてるじゃない。めっちゃ暑いし。だから、こっちでも大丈夫だと思った」
「山だぞ。上高地まで出たら、もっと寒くなると思うな。よかったら、俺の着てる上着、貸してもいいけど」
「いやだ、そんなダサいの」
「うるさいわ!」
思わず肩で肩を押す。笑ってふざける。この女性が、あの踏鞴踏みをみせた人と同一人物だなんて、とても思えない。
安房峠を下ってほどなくバスのアナウンスが大正池のバス停に近づいたことを知らせた。
「よし、ここで降りるぞ」
「えっ?終点の上高地バスターミナルで降りるんじゃないの?」
「いや、大正池から美しい周りの景色をみながらてくてくと、河童橋のある上高地バスターミナルまで歩くんだよ」
「あのねえ、明神池はそこからさらに上流に向かって歩くのよ。おなかがすいたし、ちゃんと食べられるところはすぐこのあたりにあるの?」
「うーんそうだなあ、歩いて10分くらいのところにあったと思うけどなあ」
たしか、地図で下見してきたときには、田代橋を渡らないとそれらしきレストランはなかったように記憶してる。だから食事にありつけるのは1時間近くも先になってしまうだろう。さて、この人、それが判明した暁にはどんな態度に出る?もしアメノウズメさんだったなら、何も言わずにやり過ごすのだろうけど。
「絶対に10分後だね!」
バスから降りるや否や、声がうしろから釘を刺してくる。「おう・・」と、わざと気のない声で返す。やっぱりこの人、アメノウズメさんじゃあない気がする。まあ、そうであっても、そうでなくても、上高地のデートだなんて夢のようなことだし、どちらにしても今の俺はうれしい。
バスを降りてリュックから上高地のウォーキングマップを取り出そうとチャックを開けた。書店で買っておいたピカピカのカラー印刷のガイドブックにはさまれてあったものだ。「これから歩くコースはね・・」と言いかけて、そこにはすでに彼女のいないことに気づいた。
見ると、脇に入った小径の階段をひとり、何かにとりつかれたように駆け下りていく。あれだけ朝、眠たいと言っていたのに、生まれ変わった子供のような勢いだ。うしろの太子結びが踊っている。その小径の木々の向こうに、焼岳の頭が見える。
追いかけるようにして俺は小径を下る。期待通り、劇場的な勢いでぱーんと大正池が視界いっぱい広がった。湖面には2艘のボートが遊んでいる。そして真正面には、茶碗の中身をひっくり返したような焼岳がにょっきりふくらんでいる。でこぼこしてて、ほほえましい姿だ。しかし曇り空のせいか視界に映る色は、グラビアガイドブックに載ってたエメラルドの深い色彩はない。
グレーの景色。ピカピカとはいえない地味な色で覆われている。でも彼女はすでに湖畔の水打ち際のところまで行ってたたずみ、そこから焼岳を仰いでいる。彼女のところまで30メートルくらいあるだろう。でもこれ以上は距離を縮めない方がいい、そんな気がした。彼女に近づいたところで、歳の差は縮まらないことは今さら明らかにしたってどうしようもないから。
彼女はおもむろに濃いピンクのポシェットからデジカメを取り出して、焼岳に照準を合わせている。わざわざデジカメを持ってきていたとは驚きだ。ナナさんの思い出の1ページに今日のこの日が刻まれるのか。
山襞から立ち昇る霧の隅々までが目に沁みる。山深い気流の匂いが頬を伝わる。ゆっくりと湖面の彼女へ焦点を下げる。ナナさんのたたずむ濃いピンクと濃いオレンジの靴。微かに動く。
湿地帯の桟道を行き交う人はほとんどいなかい。静かだ。やわらかな木々の合間から白い霧のような流れが幾筋も遠くで動いて見える。このままどんどん梓川沿いを遡って歩いていけば、深い霧の中へ迷いこんでいってしまうのではないか。芥川龍之介の河童が頭をよぎる。
「もう20分以上経ってるわよ。食事できるとこ、まだなの?」
「おかしいなあ。あと5分も歩けばあると思うけどなあ」
「またそう言って騙すし」
「・・おっ、見て!猿だよ。あの木の枝のところ」
「あら、ほんと・・あーあ、大きい声出すから行っちゃったよ。せっかく写真を撮ろうと思ったのに」
「わるい、わるい。今度は河童を見つけてあげるからさ」
「もう、ふざけないでよ。絶対、見つけてよ!」
「おう、芥川龍之介もこのあたりで河童を見つけたことだし」
後ろで歩く彼女の応答がない。あれ?おかしいな。あなた、まさかアメノウズメさんなの?そしたらあなたにとってのここは異界の旅。2人の間を膨大な時空の隔たりという魔の手が差しているのか。後ろを振り向こうかどうしようか、俺は迷う。
「河童、読んだことあるの?」
長い沈黙を破って、やっと声がきこえた。ナナさんの声だ。とてつもない安堵が、身体の隅々に行き渡る。なんともいえない多幸感。めくるめく快感とはこのことをいうのだろうか。
「・・おう、中学校の時に一度な。だから本の内容なんか忘れちゃって覚えてないよ」
「ちょうど今の私たちと同じようなシーンから河童のストーリーは始まるわ。主人公は精神の病を患っている若者でね、リュックを背負って霧の立ち込めた梓川沿いをひとりで遡っていくの。そしたら一匹の河童を偶然見つけてね、それでその河童を追いかけていくうちに突然、河童たちの住む国へ落っこちてしまったの。どう?思い出したかしら?」
「そうだったけな?覚えてねえな。だけど俺たちは今、小説みたいに1人ではなくて、こうやって2人して歩いているよ。ということはさあ、やっぱり河童を見つけてあげることはできないだろうねえ」
「そんなの関係ないよ。あ、でもふたりだと、ちょっと関係あるのかも。・・だけど河童さんたちの世界、何もかもが人間たちの考えとは真逆の世界だったんだよね。芥川龍之介は多分、人間の目には見えない心の中の表と裏のメタファを描きたかったのかしらね」
心の表と裏のメタファか。古事記という神話の世界も、実際に起こった事実や逸話だけでなく、人の思いもストーリーに投影させたものなんだろう。そしたらアジスキノタカヒコはどうなのか。アメノワカヒコが矢に刺されて亡くなった葬儀にだけ忽然と姿を現わして消えた。アメノワカヒコに生き写しだと言って泣きすがる身内に向かって、死んだ者と一緒にするなと言って立腹し、十拳剣で喪屋を切り払って消えていった。それが根拠のない都合のよい作り話だったとしたなら、古事記はメタファにも何にもならない。ただ、時の編纂者たちのための誘導話としてしか意味をなさない。しかし、アジスキノタカヒコをその場面で出したというか、出さざるを得なかったという事情があったと仮定するなら、編纂者の意図しなかったメタファがそこに隠れている気がする。そう、玉鋼の炉に木炭を運んでたアジスキノタカヒコの背を見ながら俺は思ったものだった。土着の神として登場したアジスキノタカヒコが、実は天孫族である天津神のアメノワカヒコと同一人物なのではなかったのかと・・。
「ねっ、河童さん、出ておいでよ。そこらあたりでみつからないように隠れてるんでしょ。わたしにはちゃんとわかってるのよ。だからいますぐ、出てきてちょうだい」
「な、わけがないでしょ」
「河童さん、見てみたいなあ」
「それにしてもメタファだなんて・・さすがは学生さん、難しい言葉が出てきたね。なかなかの博識なんだね。ナナさんの高尚な話にはついていけないな。俺は思春期の真っただ中で河童を読んだものだからね、だから恥ずかしいけど、今でも覚えてるところは変てこな場面だけだよ。ひとつは、恋人をつくる行為というのが人間世界とは逆で、雌の河童の方がいやがる雄の河童を追いかけていって無理やり抱きつくというものだったところ。あともうひとつ覚えているのは・・まだ中学校の時だったからなあ、あの場面は衝撃的だったよな」
「もうひとつって、何?」
「ナナさんのまえでは、ちょっと恥ずかしくて言えねえな」
「性器に接吻するところじゃあないの?」
「はっきり言っちゃうんだね。当たりだよ」
「いい歳して何を恥ずかしがっているの?小説の世界だよ」
「まあ、そうなんだけど」
田代橋を渡ったところにリゾートホテルが二軒並んでいた。そのうちのひとつに入る。ロビーに続く広々としたレストランのテーブルすべてに、白と青のクロスが二枚重ねに敷かれている。シックな雰囲気。昼の時刻を過ぎていたせいか客がほとんどいない。静かだ。さっきまで交してたふたりの会話が遠のいていくよう。床から天井までの大きなガラス窓のすぐ外を、リュックを背負った登山者の姿がひとり、通り過ぎる。あの人も、これから河童の世界に迷い込むのだろうか。木立をはさんだ向こう側を梓川が流れている。穂高の山々の雪解け水なのか、あるいは上流で雨が降っているのか、川の流れは早い。鎮座する六百山が視界いっぱいに雄々しく迫ってくる。
窓際のテーブルに通され、椅子に腰掛けた。お互いの顔が今日、初めて向かい合う。空高くそびえる六百山が、煙る霧から顔を出し、すこしずつ動いているのを俺は背なかに感じる。すこしずつ、かつ急激にその景色は変容していく。その成り行きをナナさんが見ている。
「カリンッ!」
ワイングラスのあわせる音がせせらぎの音に響き渡る。なんて透明な響きなんだろう。運ばれたコース料理をゆっくり食べる。子供のころまで、河童がこの世にはほんとにいると信じていたことをナナさんは話す。河童の世界。真逆のせめぎ合いなんだけれど、俺の脳幹にうごめくものをやさしくナナさんの声が愛撫してくれてる。遠い異国の子守唄?微かなさざめきが旋律を奏でていくようだ。めくるめくバッハのフーガがテーブルの上でくるくると回ってる。
レストランを出る。ふたりして梓川を遡りながら散策道を歩く。さあ、これから目指すは明神池だったか、いやそのほとりに佇むという穂高神社とかいう名前の神社だったか。ふと、木立の隙間から河童橋がすぐそこに見えた。もうじきナナさんは、その橋を渡り、一生の思い出を刻むのだろうか。
「川へちょっと下りてみるわ」
そう言い放つと、突然川岸の瓦礫の勾配を軽々と下りていった。そして流れる川の中に小さな飛び石を見つけると、ぴょんとそこにひとり、飛び立ってみせる。
「ねえ、あの山をバックに、写真を撮って!」
彼女は振り向いて言ってくる。ポシェットから自分のデジカメを取り出してこちらに差し出す。慎重にそのデジカメを受け取る。もう一度霧にそびえ立つ六百山に向き直って、こちらに背を向ける。そして大きく深呼吸をした。細い両手をぴんと真横に伸ばし、からだを上空に反らしてポーズをつくる。
近すぎてファインダーの枠に山の景色と後ろ姿の全部がおさまらない。しゃがんでファインダーを縦に持ち直してみる。
「まだ?早くして」
「おう」
オレンジの靴の踵から、遠い山の景色までが全部入ってくれた。梓川の風が、穂高連峰の山襞の霧を次から次へと運んで頬を触ってくる。ファインダーの中のナナさんが全身でバッハのフーガを浴びている。この美しい瞬間がとまってほしい。俺はゆっくりとシャッターを押した。
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