第40話
とげとげしい岩石が橋の両側に積まれてあった。明治の時代、山から切り出したままの花崗岩だ。こうやって積むことできっと、吊り橋のワイヤーを引っ張るアンカーの役目をしているのではないだろうか。その間を二人は歩く。丸太で組み立てられた鳥居のようなものが異様な高さで、ぎごちなくも掘っ建てられている。吊り下げた橋をこの鳥居のような柱で、両岸から引っ張り上げているのだ。向こう岸にも、こちら岸にも掘っ建てられている。いつかどこかの図書館で、見覚えある昔の河童橋。まさに手製の吊り橋。空中で横たわる鳥居の桁柱(けたばしら)。それを支える両脇の丸太が高くなるにつれて内側に傾き、今にも倒れてきそう。あの戦国末期に見た、出雲の阿国さんの踏鞴踏み天秤ふいごを連想させる。じっとそれを見上げたあと、ナナさんは掛かる橋の板目へと視線を落とす。オレンジ靴のつま先を踏み入れる。
節くれだって黒ずんだ木の角材を横向きにぎっしり並べた橋の表面には、いわゆる欄干というものがなかった。一本の角材だけが縦桁となって橋の両端を締め、向こう岸にまで何本かでつながっているだけだった。まさに木皮を剥ぎとっただけの、丸裸の吊り橋だ。その左右のワイヤーは、頭上からおそろしいほどの急な弓なりをつくって橋のまん中へと垂れさがっていく。芥川龍之介は素朴なつくりの中にも理屈の通った、このワイヤー線の不思議な造形美を見て、何と思ったのだろうか。
人の姿はない。あるのは梓川を流れる水の音と、向こう岸に佇む明治か大正時代の、宿舎のような2階建ての小さな宿泊小屋だ。昔のことだからこのような山深いところに訪れる登山家は、日に数人程度がせいぜいだったんだろう。先を歩くナナさんが橋のまん中の、垂れ下がった上弦の一番くぼんだところで足をとめた。眺望できるはずの穂高連峰を見遣る。小雨混じりの雲や霧に遮られて、景色は何ひとつ見えてこない。梓川の色は垂れこめた雲のせいで、つまらない薄墨の鈍色(にびいろ)だ。風が吹き過ぎ、両肩のうえでみずら結びがそよぐ。夥しい小石を洗っては流れる、幾多もの律動だけがすぐ耳元で、鮮やかな音を沁みつける。
「おおい!」
梓川の上流に向かってナナさんは呼んだ。昭和初期の吊り橋の上で、白のミニスカートから伸びる長い脚線がいっそうソフィスティケイトされている。時代と不釣り合いなはずなのに、なぜ違和感を覚えない?
「はいよん」
俺はナナさんの後ろから、おふざけの返事をしてみせる。
「ねえ、かっぱさん、わたしのこえが、きこえてる?」
はあ?河童さんと呼ぶ声に、俺は返す言葉が見つからない。
「もしきこえてたら、これからわたしといっしょに、みょうじんいけ、という、かがみのようなうつくしいところへ、いきましょ」
俺ではない、別の誰かを誘ってるのか。川の中で隠れてる河童?架空の生き物なのだが、ちょっと妬ける。ナナさん、河童がほんとにいると子供の頃は信じてたと言ってたよな。ということは上高地を逍遥しながら、まだ芥川の河童の世界を夢想しては楽しんでいるのだ。
「あなた、しってるわよ。すわこへ、いきたいのでしょ。おにいさんのタケミナカタさんに、あおうとして、だからはるばるここまでサルタヒコさんについてきたんでしょ?」
川の底からは何の応答もない。タケミナカタ?サルタヒコ?またしても古事記の登場人物の名前が出てきたではないか。まいったなあ、ナナさん。あなたやっぱり俺をだましてるよね。まぎれもなくあなたはアメノウズメさんですよね!ほんとのところを教えてください!
「でもね、このあずさがわ、どこをどう、たどっていっても、しおじりとうげをこえることはできないのよ」
俺は隣で繰り広げるナナさんの独り舞台を黙って見守ることにした。なんだって?塩尻峠?たしか、太平洋側と日本海側との分水嶺と言われている峠だよな。
槍ヶ岳から始まる梓川は穂高連峰の脇を流れ、小さな明神池をつくってここ、河童橋の下を流れ、焼岳の大正池をつくって複雑怪奇に曲がりくねり続けながら松本盆地の犀川へと合流し、さらに長野市で千曲川となり、最後は新潟で信濃川となって日本海に注ぐのだ。日本で一番長い川。
「かわのながれ、これだけはどうしようもないの。あなたがこれから、どれだけがんばっておよいだとしても、どうしようもないことなの」
そう、川の水は上から下に流れる。これを逆流させるなんていう術は、限りなく不可能に近い。昔から中山道のなかでも難儀と言われた塩尻の峠越え。そしてそこは日本列島の分水嶺。たとえこの川を泳ぎまくって、いかなる支流をさかのぼっていったとしても、峠を乗り越える川はありえないだろう。そこに峠越えの、何らかの伝説がない限りは。塩尻峠の向こう側か・・。たしかに諏訪盆地が広がり、諏訪大社の下社、そして諏訪湖をまたいで同じく諏訪大社の上社が鎮座してる。ナナさんが言うように、ここに住む河童はタケミナカタのいる諏訪湖に行きたがっているのかしらん。なぜだ?
「かっぱさん、ごめんなさい、あなたをだますつもりじゃなかったの。つみほろぼしというのではないけれど、このうつくしい、かみのおりたつとち、かみこうちのいけのなかで、あなたとわたし、ずっといっしょに、おとなのあそびをたのしみましょ」
俺は全身から血の気が引くのを覚えた。というよりも強烈パンチをくらって我を失ったと言った方が正しいかもしれない。ナナさん、いや、アメノウズメさんなのかも!今からわたしと大人の遊びをしましょうだなんて、となりでじっと佇んで聞いてる身にもなってよ。中年男の立場がないじゃないか。
・・わかりました、ナナさん。芥川の小説そっくりに、そうやっていつも異性に求愛してるのですね。そのあとは恥ずかしがらずに相手の性器に接吻するのですか。まいったなあ、ナナさん、見えないところでは積極的でラディカル。そうだとも、ここはナナさん念願の、河童橋なんだしね。それも多分、芥川が訪れた昭和初期の場面設定。だからなんですよね、ここぞとばかりに、さっき会話で話してた「河童」と同じことを、しっかり言葉に出して実現しようと企んでいるのですかね。もしそうであるならナナさん、あなたは見た目の凛とした女性の清々しさとは真逆の、心の中ではとんでもなく性欲旺盛な肉食ハンターだったのですね。
そうでしたか、よくわかりましたよ。くそぉ、それにしても河童のやつめ、見たことないけど、そんなにいい男なのか・・・。
その時だった。ふたりしかいないはずの吊り橋がずんずんと揺れた。誰かが橋を渡ってくる。力強い足取り。揺れが間近にまで迫る。そして通り過ぎていく。
「なんだ?なんだ?」
しかし、この二人以外に、橋の上は猫の子一匹いない。梓川を見てたナナさんの横顔に笑みが走る。
「さてっと。河童橋を渡ったら、次は明神橋よ。がんばって歩くわよ」
さっそうと歩き始めるナナさんのあとを、いつものように足をバタバタもつらせて、俺は追う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます