逆上

ダリダ石川

第38話

車窓から、小さな太陽がいくつも見えた。かなとこ雲の西の空に、赤いビー玉が何枚かのスローモーションフォトとなって、柱時計の文字盤のように置かれている。50歳代も半ばを過ぎれば視力の衰えも仕方あるまい。こうして俺は時々、自虐的になってみることがある。窓枠に乗せてた左肘を膝に下ろして、視力のよい左目を解放させてやる。そうすることで、車窓から20歳のころと全く同じく、走る電車の勢いになびく背丈の高い夏草の風景、その夥しい一つ一つの悶える様が両目に飛び込んでくるのだ。いつだってあの20歳のころにショートカットできる自分がいる。気持はあのころから一歩も進んでいない。歳とともに年月だけが無為に積まれてしまった。青春のほろ苦くも甘い経験がすっぽり欠落したまま、ここまできた。なんてロスタイムだらけの人生だったのか。


彼女の名前、ナナさんだと?いや、まちがいなくあなたはアメノウズメさんでしょう。アジスキノタカヒコの、あれからあとの顛末がどうなったのかをあなたは知っているのでしょう。どちらにしても今日のうちに突き止めてやるから。もう一度片目をつぶって赤いビー玉を数えながら、俺は自分を奮い立たせる。


金山駅に着いた。名古屋駅とはひとつ手前の駅のところでキャバ嬢を復活していたとは驚いた。実家に帰った?よく言うよ。俺のことを初めて会ったお客だと言っていたが、平然と嘘をついているとしか思えない。まあ、天孫族たちのいた古代の雲の上で、新たなミッションを与えられて地上に舞い戻ってきたから、そう言ってるのかもしれんな。或いはその際に、これまでの俺との記憶をリセットされてしまったのかもしれん。


アメノウズメさん、いつだったか言ってたな。自分は天津神だということになっているが、実は出雲の巫女という、土着の出自なのだと告白してくれた。アマテラスオオミカミの、大人の事情のためにオモイカネによって天孫族にひきあげられた。だから恩というか、負い目のようなものが気持ちのどこかにあったのかもしれないな。そしてタケミカズチのいる天津神たちのために、国津神アジスキノタカヒコを裏切る結果になったと考えれば筋が通る。


待合ロビーの高い天井にまで広がる巨大なモザイク壁画を見上げる。このあたりで随一の高級ホテルの中の、その奥行きの広さと高さを物語っている。金山駅のランドマークとでもいうべきボストン美術館へ続く長いエスカレーター。それが吹き抜けの高い空中へとつながっていく。しかし昇っていく人の姿は先ほどから一人もいない。景気は多少持ち直したと世間では騒がれてるが、中間層からあぶれた者たちの財布のひもはいぜん固いのだ。ここの美術館、印象派をメインにイベントしてたから気に入ってたのにな。赤字続きでとうとう今年度いっぱいで閉館になるという。そのことをナナさんも残念がっていたな。


 待ち合わせを5分過ぎた。落ち着かない。初デートだから?そんな馬鹿な。すっぽかされたのかな。かもしれない。ナナさん、アメノウズメさんとは全然別の人なのかもしれない。


 「お待たせえっ!」

「おう・・」

まさか、ホテルの奥からやってきただなんて。振り返りざま、俺は落ち着きを失う。

「どこ行くう?」

「えっ?だって食事なんでしょ?」

「だから、どこのお店で食べるのか聞いてるのよ」

「ああそうか。・・わるい、ええと俺、あんまりこのへん知らんからなあ」

「わたしさぁ、きょうの授業でめいいっぱい疲れちゃったし、だから海鮮の料亭でもいい?」

「ああ、それでいいよ」

 気づいた時はもうだいぶ歩いてきていた。歩きながら会話してたのか。ロータリーの目の前の信号が青から点滅しだした。彼女のあとを追いかけてスクランブル交差点を走る。沙羅のような薄い黒のトップスに、白いミニと赤いパンプス。どこかで見たような光景。足のラインが信じられないくらいにきれい。鮮明なデジャブ。この歳にして、こんないい女と食事できるなんて、まるで夢でもみているよう・・・。ああ、この感じ、ナナさんも感じてないですか?パラレルな時空がいまここで交わって、それぞれのシンクロニシティーがスクランブル交差点で若々しく輝いて跳ねている。

 地下の階段を下りていった。アスファルトに溜まったままの真夏のほてりと、せわしくもかん高い夕刻の喧騒がいっしょにまとわりついて下りてくる。大きなのれんをくぐり、いかにも料亭といった檜の戸をナナさんが開けた。「いらっしゃいませ!」と威勢のよい声と冷風が奥から飛びかかってくる。まだ通勤者らの定時を過ぎてそれほど経ってないためなんだろう、客の姿はほとんどない。一番奥のふすまが開けられ、座敷になっていた。長いカウンタ-のうしろに並ぶいくつかのしきられた個室のひとつにふたりが通される。


 「私はシークワァーサー。それと・・」

 おしぼりを握った手で、広げたおしながきのいくつかを指さしながら手際よく注文している。「好きなもの頼んでもいい?」と聞いてきたから「おう、いいよ」と答えたばかりなのに、気づいたら彼女だけが先にどんどん進んでしまっている。しかも迷いつつ、それでもちゃんと吟味しながら海鮮の品をひとつひとつ選び出しているのだ。早い。慣れている。しかしそれだけではない。日々の彼女の勢いのようなものを感じさせる。年齢が若いからというのともちょっと違う。それと男に対する、へたな演技のにおいも感じさせない。この女性、これが自然体?だとしたらやばい。俺と言えば松坂の牛さしと、あさりの酒蒸しを言い添えたのがやっとではないか。


 「毎日、暑いな」

 とにかくこちらから、口火を切らなければ。

「そうよね。こんなの信じられないくらい。今年は異常気象だよ」

「・・・・大学生なんだ」

「うん。きょうの授業、めっちゃ疲れたし。でもこれからまだアルバイトが待ってるし、大丈夫かしらん」

「そうか、これからアルバイトなのか・・じゃあ、ここでしっかりと食べていかないとな」

「そうする。閉店が深夜の一時なのよ。もちろん、おうちまでは車で女の子たち、送ってもらうけどね」

「アルバイトって、キャバクラのこと?」

「うん。でももう3年生だし、まわりは就活の真っ最中だし、わたしもいい加減、キャバなんてやめなくちゃあと真剣に思ってはいるけどね。ただ、お店がどうしても辞めさせようとしてくれないし、だからついついとね。」

「就活、全然してないの?」

「うん。だけど教員試験を受けようと思ってるから、4年生からが本番なの」

「でもそれだったら、公務員試験というのがあるだろ?難しくて結構、狭き門だと聞くけど」

「もちろん、試験の勉強はやってるわ。これ見て。ちゃあんと1年の時から毎日カバンに入れているんだから」

 そう言って、セカンドバッグとは別の、くたびれた手提げビニールカバンの中を女の子はさばくった。テキストや帳面らしきものがぎっしりとつまっている。そこから1冊の本を取り出して見せた。表紙に教員試験問題集と印刷されている。

「電車の中とかでやっているけどね、最近なかなかすすまなくてねえ」

 パラパラページをめくっているところへ、シークワァーサーがふたつ運ばれてきた。

「じゃあ、乾杯」

「乾杯」

 一口飲んでから、こちらを見つめてきた。軽くほほ笑む。つられるように、こちらもほほ笑んで返す。笑顔、アメノウズメさんとそっくりだ。


 次からつぎへと運ばれてきた料理の皿はいつの間にか、テーブルを埋め尽くしていた。こうやって話をしながらも、ナナさんはさっさと食べている。それに比べて俺の方は自分の皿の中がちっとも減っていかない。会話をすると箸が止まってしまって、いっしょにふたつのことができないのだ。歳を重ねても相変わらず不器用な男。


 箸をとめたままの俺にむっかて、「あなたも食べるでしょ?」と言った。そして大皿にのったポテトサラダに自分の箸を反対側に持ち直し、手際よく小皿に分ける。「ありがとう」と言って受け取った小皿に俺は箸を動かす。動かしながらそっとナナさんをうかがう。箸をもとに持ち直したものの、箸の先からまん中くらいまでが、まだサラダのマヨネーズやポテトやらの粒がくっついたままだった。ふき取るものが何も見あたらない。一瞬ためらったあと、彼女はその箸を口の中へ含んだ。そしてまるで小さな子がアイスクリームをしゃぶるようにして、舐め取リ始めた。キャバ嬢のイメージとはあまりにかけ離れたしぐさだ。見るのは失礼だと思い、自分の皿の中に目を注いだ。しかしすこしも下品に思えてこない。不思議な女性だ。途切れた会話の隙間を縫って、「いらっしゃいませ!」という威勢のいい声が玄関の方から聞えてくる。いつのまにか、店内はお客さんたちの喧騒で賑わっている。


俺は思いきって尋ねてみた。

「ねえ、オモイカネさんから、なんて言われたの?」

「えっ?いま何て言ったの?」

「おもいかねさん・・・」

 その言葉を耳にするや彼女は箸を皿に捨て置き、思わず片手で口を押さえ、天井を仰いだ。そしてこみ上げる笑いを解き放すかのように、からからと声をあげて笑った。そう、小学校の国語の時間で習った、あの「からから」という不思議な擬態語表現をぴったり見せて。沙羅のシースルーの遮光を通して、両の肩甲骨が揺れ続け、白いブラのラインが微かにうごめく。細くスラリとした首筋が、白無垢のようにいつまでも清々しい。 彼女は思い出したように箸を持ち直すと、活き造りのウニの身をつつきだした。

「うわっ!このウニ、美味しいわ。しゃべってばかりいないで、あなたもこれ食べてみなよ」

「うん・・おう、うまい。一番きれいな人と食べていると、一番美味しく感じるし」

「よく言うよ」

「よく言うし」 


 「で、さあ。忘れないうちに渡しておくね」

 そう言って俺は尻ポケットから財布を引っ張り出した。いち、に、と数えて一万円札を五枚、テーブル越しに彼女に渡す。じっと俺の顔を見ながら両手でそれを受け取る。

「ありがとう」

 そう言うと、今度は彼女がそれをいち、に、と数え直し、四枚を俺の顔に向けて渡そうとしてきた。

「えっ?」

「このお金でわたしを上高地まで連れてってくれない?いや?」


上高地?たしかに日本で一番風光明媚といってもいいところだ。かつて社会人なりたての頃に、会社の先輩の後をついて一度、いや二度行ったのを覚えている。一度目が槍ヶ岳登山で二度目が北穂高岳登山。どちらも上高地が出発点だった。この女性といっしょに上高地か、わるくないな。


「いやじゃないけど、だってデート代は5万円だと、こないだのキャバで約束されたから」

「だから今、ちゃんと受け取ったわ。わるいけど、1万円だけはきょう、お小遣いとしてもらっておく」

「おう」の返事をするや、取引条件のように「早く取って」と、4枚をこちらに押しつけるようにして握らせる。

「じゃあこれで決まりね。上高地、一度行ってみたかったの。そしたら明日、行きましょ。日曜日だし、会社はお休みなんでしょ?」

「おいおい、気が早いな」

「やったあ。きーまりっと。芥川の小説にも出てきた河童橋、一度でいいから渡ってみたかったんだ。ああ、梓川の上流から吹く風は、バッハのフーガだわ」

「バッハのフーガ、ですか。それよりもナナさんは、ブラームスのハンガリー舞曲の方が似合うと思いますが」

目の前のナナさんの顔に、真っ白のドウランに逆立つ緋色の隈取りを重ね合わせてみようとしたが、いまここでは難しそうだった。戦国末期の出雲の阿国、全身に筋肉の筋をたてる、ややこおどりの踏鞴踏み・・・。それよりもやっぱりナナさんは上高地の、荘厳で軽妙なバッハのフーガの方が似合いそうだ。


「わたし、ブラームスは子守唄しか知らないわ。その梓川をちょっとだけ上って明神橋を渡るとね、明神池という美しい池があるのよ。知ってる?」

「知らないなあ」

「池には鴨が泳いでいてね、ほとりに穂高神社があるの」

「へえ、初めて聞く神社だし。ナナさんって、毎日、上高地の地図でも眺めているのかねえ」

「ううん、穂高神社は先輩に教えてもらって知ったの」

「先輩って、オモイカネさんのこと?」

「えっ?重いお金?ねえ、もうお金の話は、なしにしましょ」

「おう、わかった」


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