猿神

 汐が榛家で過ごすようになり、はや数日。

 はじめこそ慣れない環境に戸惑いつつも、少しずつ順応してきていた。

 結界が張られているという通りに、数時間ほど外で過ごした汐に擦り寄ってきた大量の物怪達が(わざと煙々羅に追い払ってもらうのを辞めてもらって試して見たところ)屋敷の敷地内に一歩踏み込むと、たちまち蜘蛛の子を散らすように消え去った。

 さらに、榛家に関わる人達は、汐の特異体質を気にもせずに関わってくれる。

 煙々羅と堂々と話していても大丈夫だ。恐れずに接してくれる人達にありがたい気持ちを抱きながら、気がつけば数週間、居心地のいい日々を送っていた。

 もちろん、タダで居候させて貰うつもりもなく。家賃面での交渉もしてみたもののそれは却下されてしまったので、それならばと家事の手伝いを申し出た。榛家には住み込みの家政婦もたくさん居るのでそれすらも断られかけたが、しのびないのでせめてもとお願いすれば、しぶしぶと宗次郎から掃除と洗濯のお手伝いの許可を得た。

 十左衛門といえば、小豆洗いの一件からさらに修行に精を出しており、学校が終われば汐と共に下校し、さっさと奥の修行部屋へと閉じこもってしまうので、汐とはろくに会話も出来ずに一週間が経とうとしていた。

 もっと強くなりたいのだと頭を下げて晴明に頼み込んだのだという。

 ぱん、とふんどしの皺を伸ばし、物干し竿に一枚ずつ掛けていく。はためきながら真白く輝くこの褌が十左衛門のものだと、家政婦の一人が教えてくれた。

 十左衛門らしいなと納得する。

 籠からもう一枚の立派な褌を手に取ると「ああ、それは晴明様の」と言うので、今度は驚いて思わず声をあげた。あの美青年の着物の下は褌だったんですか。



わたくしの可愛い贄


貴女を毎日見ています

最近は以前と違い 贅沢な日々を送っているのでしょう

美味しそうな四肢がふっくらと肉付き 我慢ならぬ程のよい匂いが私の鼻をくすぐってたまらないのです


可愛い贄 贄なる汐


もうすぐ 貴女を迎えに行きます』


 がばり、と飛び起きた汐は、全身が栗立ち、嫌な汗が額を伝った。

 なんとも気味の悪い夢だ。時計を確認すると、まだ六時にもなっていなかった。襖から漏れる薄明かりは、早朝の空気をより冷たく感じさせた。

 そっと隣へ目をやると、いびきをかきながら煙々羅が熟睡している。煙なのに、鼻ちょうちんが大きく膨らんでいた。

 二度寝するべきか、今の夢を晴明や十左衛門に伝えるべきか、汐はしばらく悩み、それからそっと起き上がった。

 サンダルを履き中庭に出れば、薄ら白む空を鳥が飛んでいる。二度寝するには微妙な時間、かと言って晴明達を起こすには早すぎる時間。

 汐は結局、皆が起きる頃まで時間を潰すことにした。

 ざりざりと砂利の絡まる音がよく響く。大きくて立派な松の木や、美しい模様の鯉が優雅に泳ぐ池、それから石灯篭、これぞ日本庭園だと汐は思う。

 お手伝いさんとは別に、庭師も雇っているというのだから、榛家の財力は計り知れない。

 池のそばでしゃがんで鯉を眺める。汐にはさっぱりだったが、この模様の差異で価値がゼロにもヒャクにもなるというのだから驚きだ。

 榛家の鯉ならば、きっと高いのだろうと予想はつく。

 ざり、と、汐のものでは無い足音が後ろに近付いた。

「早いな、八月一日」

 振り返ると、袴姿の十左衛門が立っていた。

「あ、おはようございます。十左衛門さんも早いんですね」

 榛さんと呼べば、他の榛も振り返る。汐は、十左衛門のことを名前で呼び始めた。

「俺は修行があるからな。毎日五時には起床し、黙想と素振りをしている」

 十左衛門は汐の隣に並ぶと、同じようにして鯉を覗き見る。

 ゆっくりと十左衛門と話す機会は久々で、汐はなんだか嬉しくなる。

 鯉を見ながら修行の話などを聞いていたが、ふと夢のことを思い出した。丁度いい、と十左衛門に声かける。

「あの、十左衛門さん」

「なんだ」

「実は、変な夢を見たんです」

「……夢?」

 ぴくりと楕円形の形をした眉毛が動く。汐は頷くと、先程見た奇妙な夢のことを十左衛門に話した。

 黙って聞き終えた十左衛門は、しばらく考え込んだ後に「師匠にも相談しに行くぞ」と立ち上がった。

「え、でもまだ寝てるんじゃ」

「関係ない。行くぞ」

 さっさと進む十左衛門の背を慌てて追いかける。サンダルを脱いで、そのまま廊下を突き進めば、晴明の部屋の襖が見えた。

「師匠、おはようございます」

 十左衛門が襖の奥へと声をかける。

「おはようございます。入っても大丈夫ですよ」

 襖を開けると、すっかり身なりの整った晴明がそこに座っていた。

 どうやら晴明も早起きらしい。

「お話があります」

 十左衛門に視線で促され、先程の説明と同じものを晴明に伝えると、晴明はなるほどと頷いた。

「贄を求める物ノ怪とは多いものです。それだけでは確定できませんが……とりあえず、汐さんの守備を強化しましょう」

 そういうと、晴明は汐に微笑みかける。

「十左衛門もいる事ですし、安心してくださいね」



 これまで通り梅谷や十左衛門と登下校を共にする。

 話を聞いた梅谷はひどく心配する様子で汐を気遣い、煙々羅は「爆睡しとってすまん」と両手を合わせた。

 そうして何事もなく数日が経った頃。

 帰宅途中、突然足を止めた十左衛門は、ぐっと遠くの方を睨んだ。物ノ怪の気配だ。

 汐もつられてそちらを見る。どどど、と、何かが聞こえた。

 目を凝らし、そして音の正体が近付いた時、汐は思わず「お猿さん!?」と叫んでしまった。

 ゆうに百は越えそうな数の猿が集まり、こちらに向かって走ってきているではないか。

「走るぞ!」

 十左衛門に手を取られ、榛の屋敷へと急ぐ。

 煙々羅が後ろを振り返りながら「なんやぁ、アレ」と情けない声を上げた。

「知らん。野生の猿が山から降りてきたのだろう」

 言いながら、十左衛門は違和感を拭いきれなかった。確かに物ノ怪の気配がしたが、この猿達は、本当にただの猿に思える。

 ただの猿だとしても、あきらかにこちらに狙いを定め追いかけてくる猿の軍団。

 流石に普通の猿に呪符や攻撃をする訳にも行かないので、結局こうして逃げるほか手段はない。

 野生の猿はすばしっこく、何度も追いつかれたが、その度に『縛』だけをかけ、動きを止めた。

 そうやって走り続け、榛家の屋敷の門が見えてくる頃には、追いかけてきた猿の数も半数に減っていた。

 なんとか屋敷の中に入り、振り返る。

 途端に、先程までの剣幕は何処へやら、急に踵を返してすごすごと元の道を戻り始めた。

「なんだったんでしょうか……」

 ぜえぜえと肩で息をしながら汐が首を傾げる。

「嬢ちゃんの見た夢と関係あるんかいな」

「分からんが、とにかく師匠に報告だな」

 息を整えた後、二人は晴明のもとへ報告に向かった。

 既に報告を受けていたらしい晴明は、二人からも話を聞くと、ぽんと手を叩いた。

「お猿さんに、生贄、もしや猿神でしょうか」

「猿神?」

「ええ。その昔、ぴちぴちのうら若き乙女達が大好物で、毎年生贄を求めたど変態なお猿さんの物ノ怪です。おおかた、そのお猿さん軍団を使って汐さんを連れ去ろうとでもしたのでしょう」

 ぴちぴちだとか、ど変態だとか、お猿さんだとか。晴明から飛び出す単語に驚きつつも、汐はなるほどと納得した。

 夢で聞いた『迎えに行く』とは、この事を指していたのだろう。



 『縛』によって動けなくなった猿達は、従者達が回収にまわったそうだ。

 ついでにどこから人里に降りてきたのかを調べた結果、汐達の通う学校裏手にある、箕浦みのうら山からでは無いかと結論が出た。

 あとは、早々に退治するだけ。

 ――だったのだが。

「……で? 話を聞きましょうか、十左衛門」

 目の前で頭を下げる、引っかき傷だらけの十左衛門を見つめ、晴明は自分の頬に手を添えた。

「申し訳ありません」

「謝罪ではなく、説明を」

 土下座の姿勢で頭を垂れ、十左衛門はひどく顔を歪め、悔しさを滲ませながら話し始める。

「猿が、再び追いかけてきました」

 昨日やってきた猿の軍団が、また追いかけてきた。

 同じように、十左衛門が『縛』で動きをとめながら走って逃げていたのだが、今回は少しばかり違った。

 何匹も束になり、逃げる汐――ではなく、なんと十左衛門に襲いかかって来たのだ。

 数十という猿の数に覆いかぶさられ、視界を塞がれる。汐から手を離してしまった一瞬の隙に、連れ去られてしまうという自体に陥っていた。

 視界に入った対象にしか『縛』が効かないという部分を狙った、計画的なものだった。

 あのまま諦める訳ないと思ってはいたが、こうもあっさり攫われてしまうとは。

 晴明は、いまだ額を床につける十左衛門に顔をあげるように命じる。

「――まあ、無事だったから良かったです」

 そう、汐は、傷ひとつなく無事に十左衛門が連れ戻して来たのだ。

 ほっとため息をつく晴明とは反対に、悔しそうに唇をかみ締め、床を睨みつける十左衛門。

 汐は無事だった。猿神も退治し、無事に連れ戻した。

 ――だが。

「俺ではありません」

「はい?」

「猿神を倒したのは、俺ではありません」

 その言葉に、晴明はほんの少しだけ目を開いた。



 襲いかかってきた猿共を『縛』で全匹止めたあと、慌てて連れ去られた汐を追いかけ箕浦山へ走った。

 途中、猿に足止めを食らうも、難なく動きをとめながらたどり着いた先には、これ迄の猿とは比べ物にならない程の巨体な猿が待ち構えていた。

 物ノ怪特有の気配はなく、この猿もただの猿だと分かる。なにを食べればこんなにデカくなるのだと驚いたが、十左衛門はこれも動きを止めるだけに留め、山頂へと急ぐ。

 後ろから榛家の物が着いて来ていることに気が付いていたので、後は何とかしてくれる事だろうと踏んでのことだった。

 そうしてたどり着いた先、そこには確かに猿神がいた。

 ……ただし、既に事切れた状態で。

 首を境に真っ二つになった猿神を、ぎいぎいと怯えながら遠巻きに猿が唸る。

 十左衛門は息を飲んだ。猿神が流した血溜まりの真ん中に、男が一人立っていた。

 紺の着物を着崩し、白髪混じりの無精髭をたくわえた男の手には、ぐったりとした汐が抱えられている。

「八月一日!」

 呪符を投げつけながら、十左衛門が叫んで男の元へ駆ける。凄まじい妖気だった。

 男はニヤリと笑うと、飛んできた呪符をあっさりと躱し、そのまま十左衛門のすぐ目の前に迫った。

 一瞬の事だった。

 次の呪符を取り出さんとする十左衛門の両手を掴み、ぐっと引っ張ると、そこに男が抱えていた汐を乗せた。

 ぽかんとする十左衛門を余所に、男は「じゃ、よろしく」とひと言告げると、さっさと姿を眩ませてしまった。

 猿神の死体と、ボスを喪い狼狽える猿達。その真ん中で、十左衛門は呆然と立ちすくんだ。

 何が起きたのか全く分からなかったが、腕の中の汐は眠っているだけのようで、とりあえずこうして榛の屋敷へと戻った。


「……では、その男が猿神をやっつけちゃってたと」

「はい。ただ、男からも物ノ怪の気配が感じられました」

「なるほど」

 男の正体は謎だが、状況を聞くに汐を助けてくれたように感じる。

 十左衛門の攻撃すら避け、反撃もせずに立ち去った謎の男。

 晴明は従者を呼び付けると、猿神の後始末と、ついでに男の事も調べるように命じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る