物ノ怪奇譚

物語のハジマリ

煙々羅 (1)

 科学というものは日々急速に進歩を遂げているもので、人間にとってより生きやすい時代へと変化していっている。

 しかし、それはあくまでもの話に限る。

 そのむかし、それこそ科学なんて言葉がうまれるもっと前。

 疫病や厄災は全て、神様や妖怪の仕業であると考えられていた時代。

 その存在を信じ畏れられたが故に、彼らは個々としての意思を持ち始め、やがて実体を持つようになった。

 科学によって次々と解明されていくことは、その存在を否定される事。つまり、存在の消滅に繋がってしまう。

 このままでは世の物ノ怪全てが消滅してしまうかと思われたが、人というものは、ないものにこそロマンを感じるらしい。

 まだまだその存在を信じる人は絶えず、わずかながらにも、その存続を保っていた。

 そんな物ノ怪達は、現代人がどのようにすれば再び過去のように自分達を信じ、畏れてくれるのかを知るために、人間に紛れ込み、人間の振りをして生きている。

 しかし中には昔の畏れを取り戻さんと、人間を恨み、人間に害をなす物ノ怪が居ることもまた事実。

 そんな物ノ怪を退治する術者も時代と共に表舞台から姿を消したものの、今なお世に蔓延はびこる害ある物ノ怪を退治する家系があった。



 しんと静まり返った道場で黙想もくそうする青年がひとり。

 庭に生えた樹齢百年は越える桜の木から、はらりと花びらが揺れ落ちた。

 夜もすがら修行に明け暮れていた十左衛門じゅうざえもんは、白み始めた空を見上げてひとつ息を吐く。

 黙想前に行っていた木刀の素振りによって、身体は汗まみれである。

 きっちりと揃えられた重い前髪が、おでこに張り付いて不快に思う。

 学校へ行く前に湯浴みをするべく、十左衛門は立ち上がった。


 先祖代々続くはしばみ家は、呪術やお祓いといった類を専門とした、有名な物の怪退治の呪術家系である。

 その現当主、はしばみ宗次郎そうじろうの息子にあたる十左衛門も、次期当主として期待され、修行を積んでいるところだ。

 肉体、精神ともに鍛えられるように、父である宗次郎が考えた修行内容を、毎日そつなくこなしていく。

 天才だ、と誰かが十左衛門をたとえたことがある。まだ十代であるのに、これ程までに才を持って産まれ、なんと末恐ろしいことか。

 榛家の名を継ぐのはもう目の前だろうと言われていた。

 しかし、十左衛門はまだ未熟、と反対するものがひとり。

「十左衛門」

「⋯⋯あ、師匠」

 縁側に座り微笑えむ男に声をかけられ、十左衛門は立ち止まった。

 春とはいえ少し夜は冷える。肩に羽織を掛けた男、安倍晴明あべのせいめいは、ゆっくりと立ち上がり十左衛門の傍によった。

「湯浴みですか?」

「はい。そろそろ学校の支度をしなければ遅刻してしまうので」

「ああ、そういえば今日から新学期でしたね。十左衛門ももう高校三年生ですか、早いものです」

 安倍晴明とは本名ではないらしい。力のあるモノの名を借りることで、その力を自身にも影響させる事ができるのだと聞いた。

 ことに、安倍晴明はとてつもない才覚を持った術者である。

 代々、榛家の当主となる者は、この安倍晴明を師とする。年齢も、出身地も不詳のこの男は、今や十左衛門の師匠であった。

 しかし十左衛門にとっては、この世でもっとも掴みどころがなく、そして一番苦手な人物であった。

 幼い頃から修行という名目で連れ出されては、荒れた海や森の奥底に一人置いてけぼりにされたり、わざと変な物ノ怪と戦わさせられたりと、酷く散々な目にあってきた。

 ニコニコと人のいい笑みを浮かべる表面とは違い、腹の中はそれはもう真っ黒く染まっていることだろう。

 物心付いた頃と変わらぬ姿かたちをしている安倍晴明は、まるで不老不死だ。老いというものを知らない。

 そもそも自分よりずっと前の、歴代の当主達をみてきたというのだから、ゆうに百歳は越えていることは確かだ。

 晴明こそが妖怪ではないか、と十左衛門は思う。

 いずれ当主を継いだあかつきには、その化けの皮を剥がし祓ってやる。そう密かに企んでいた。

「さあ、ほらほら、その汗臭い身体をはやく洗ってきなさい。鼻がひん曲がりそうだ」

 いちいち晴明のひとことが気に触るが、ここで反応すれば負けだ。彼はとにかく人をおちょくることが大好きなのだ。

 幾度となく十左衛門の師匠という大義名分にもといて、修行と称し十左衛門をいじめ抜いてきた鬼畜だ。

 ぐっと堪えて、十左衛門は晴明の横を通り過ぎた。しかし怒りを抑えきれておらず、乱暴に足を踏み鳴らしながら湯殿に向かっていく。

 そんな十左衛門の後ろ姿を見送りながら、晴明はくつくつと小さく肩を震わせて笑う。

「やはりまだまだですね、十左衛門」

 当主の座を継ぐのはまだ早いと反対するもの。

 それこそ、師である安倍晴明である。



「あはは、今日も晴明さんに変なこと言われたの?」

「俺の汗臭さは師匠の鼻をひん曲げるほど強いそうだ。あの人が俺を弱いというから、強くなるために修行を頑張っているというのに」

「晴明さんも厳しいなぁ」

 学校への道すがら、十左衛門の幼馴染であり、ご近所に住む梅谷うめたに蒼太そうたに今朝の事を話しながら歩く。

 梅谷自身、霊力が強く、幼い頃からみえたりきこえたり、時に触れたりすることが出来ていた。

 しかし彼には祓うということが出来ない。時折よからぬ物と関わってしまった時には、幼なじみのよしみで十左衛門や榛家の者が代わりに祓ってくれた。

 十左衛門が術者であることを知る、数少ないうちの一人だ。

「でも偉いよね、十左衛門。学校では生徒会長にまでなっちゃって、成績もいいし、ほんといつ休んでるのって思うよ」

「師匠にも休息は大事だと言われたのでな。きちんと睡眠は取っている」

 もともとは中学卒業と同時に榛家の後を継ぐつもりだった十左衛門だが、まだ早いと晴明に止められ、さらに父である宗次郎にも学業を疎かにしてはいけないと言われた為に、こうして高校に通っている次第である。

 完璧主義な性格のため、学校生活にも真面目に取り組んでいたお陰か、教師からの評判はすこぶるいい。

 生徒会長にも抜擢された十左衛門は、放課後に居残って生徒会の仕事をこなす事も少なくなかった。

 そんな話をしながら校門を通り、学校の下駄箱で靴を履き替え、教室に向かう。今日から学年が変わるために教室も新しくなる。学年ごとに階が上がるシステムのため、三年生は三階だ。

 梅谷と十左衛門は同じクラスになったため二人で階段を登っていると、慌てたようにかけ降りる少女とすれ違った。

 ぶつかりそうになり、ごめんなさい、と声を上げながら少女は降りていく。

 ふと、黒い靄のようななにかが横切ったように思えて、十左衛門は少女の方を振り返った。

 しかしその姿は既に居らず、十左衛門は眉を顰める。

「急いでたみたいだね、あの子。一年生かな? 上履きの色が青色だった……どうしたの?」

 じっと階下を見つめ、浮かない顔をする十左衛門に、梅谷は首を傾げる。

「今の⋯⋯物ノ怪と同様の気配がした」

「あぁ、確かにすこしもやがかかっていたけれど」

 十左衛門は暫く過ぎ去った後を見つめていたが、そろそろ始業のチャイムがなる頃だと梅谷に促され、自分たちの教室へと向かった。


 全校生徒三百人余りが集まる体育館で、高校の始業式がつつが無く進む。

 生徒会長として挨拶をする十左衛門は、舞台の袖で生徒を見渡しながら出番を待っていた。

 先程階段ですれ違った女生徒は一年生だったと梅谷が言っていた情報を元に、一年生が並ぶ列を探す。

 存外、その女生徒は直ぐに見つけられた。そこだけ黒い靄が漂っていたからだ。

 暑いのかして、遠目からでも顔が火照っている。確かに、これだけの人数が体育館に集まっていれば蒸し暑くも感じるだろう。

 あの黒い靄は、彼女から発せられたものだろうか。それとも、彼女にまとわりつく別のなにかだろうか。

 目を凝らして見つめていると、生徒会長、と呼ばれた。もう自分の番が来たようだ。十左衛門は身なりを整えると、舞台に向かって歩いた。

 真ん中の演台に立ち全校生徒を見渡す。やはり、黒い靄が見える十左衛門にとっては、彼女は別格目立っていた。

 十左衛門は予め用意していたスピーチをそつ無くこなし、再び舞台袖に戻る。スピーチの間、ずっと彼女を見つめていたが、結局一度も視線が合うことは無かった。



 始業式のみで教室での挨拶が終われば、今日は午前中で帰れる日である。梅谷が今日は予定があると言っていたので、十左衛門は一人で帰路についていた。

 帰る前に校内を一通り見て回ったが、あの少女はどうやら既に帰ってしまった後らしい。

 師匠に相談してみるか、と思案しながら歩いていると、物ノ怪の気配をすぐ近くで感じた。ぴたりと足を止めて気を張る。

 ゆっくりと気配の方へ足を運べば、あの黒い靄の彼女が前方を歩いていた。

 十左衛門は師匠からの教えを思い出す。


──"先ずは観察をしなさい。表面だけでは無い、相手のまことの姿をとらえるのです。"


 正体を知る前に先走っても、退治方法が分からなければ手の打ち方も分からないものだ。真の姿をとらえることができれば、自ずと解決方法も見えてくる。

 幼い頃から何度も何度も物ノ怪と対峙させられ、十左衛門はすっかり身に染みた教えを守るために、黒い靄の彼女を観察することに決めた。

 ふらふらと覚束無い足取りで進む彼女には、今朝よりも少し濃くなったような黒い靄がまとわりついている。

 あの黒い靄は一体なんだろうか。目を凝らせば、靄はゆらりと蠢いた。

 ⋯⋯煙だ。煙に似ている。靄というより、そう、黒煙だ。

 しかし何故、彼女は煙を纏っているのだろうか。後ろからでは表情が読み取れないが、酷くふらつき、今にも倒れそうな歩き方をしている。

 パタパタと手のひらで仰ぐ仕草をしたり、何度も何度も水分補給をしたり、どうしてだか彼女だけが真夏の中にいるような、そんな感じがした。

 あの黒煙は確実に物ノ怪だ。しかしなんの意図があり彼女に取り憑いてるのか、さっぱり分からなかった。

 彼女はやがて古びたアパートの階段をあがると、一番奥の扉の鍵を開けて入っていった。

 いつの間にか彼女の家まで追いかけてきてしまったようだ。これではまるでストーカーだ。

 慌てて十左衛門は元来た道を戻り、自分の屋敷へと帰る道を急いだ。



 畳張りの広い部屋で、安倍晴明と十左衛門は向き合っていた。

 帰宅して直ぐに晴明の部屋に向かった十左衛門は、学校での出来事、それから黒煙について晴明に話をする。

 晴明は「煙ですか」と右手を頬に添えて思案すると「もしかすると、煙々羅えんえんら、ですかね」と言葉をこぼした。

「煙々羅?」

「煙の物ノ怪です。とくに悪さをするような奴ではありませんが⋯⋯」

「えっ、そうなんですか」

「ええ」

 晴明は頷く。しかし、十左衛門はなにか腑に落ちない様子で黙り込んだ。

「気になりますか?」

「⋯⋯害のある物ノ怪じゃないのは分かったのですが、それよりももっと、なにか違った違和感を彼女に感じました」

 物ノ怪の気配とはまた別に、彼女自身になにか違和感の要因がある気がして、十左衛門はくすぶりを覚えていた。

「気になるならばとことんですよ、十左衛門。散々教えてきたでしょう、真をとらえなさい」

 普段はその穏やかな微笑みで薄く細められた瞳が、今は真っ直ぐ十左衛門を見つめている。十左衛門は深く頷き返事をすると、立ち上がり頭を下げ、襖を開けて晴明の部屋を後にした。

 明日からもう少し彼女を観察してみよう。十左衛門はそう決め、本日の修行をこなす為に自室へと着替えに向かった。

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