100万回生きた長門有希

100万回生きた猫という絵本をご存知だろうか。


 俺は子供の頃この本を読んでボロボロと泣いたという思い出があるのだが、しかしこの100万回という数字を落ち着いて考えてみるといささか盛りすぎではないか、とも思うのである。


 猫の平均寿命というのは大体10年前後であるらしい、端数が面倒なので仮に10年としてみよう。


 100万回生きた猫が果たしていつから生きていたのか、これは単純な掛け算でわかる話であるが、1000万年前である。


 1000万年前がどれくらい昔なのか、というと、これはとんでもない昔で、俺たちが中学校で教わったアウストラロピテクス発生ですら420万年前だという話なので、ヤツはとんでもない太古の昔から生きていたことになる。


 猫の歴史はどうだろうか、と思って調べて見たが、ネコ科の発生はおよそ1200万年前であるらしい。もしヤツが平均十二年生きていたとしたら、ネコ科の発生とともに生まれ、猫という種族の歴史そのものを体験しているわけで、これはとんでもないことだ。


 そう考えると、手塚治虫の火の鳥未来編のマサトと同じくらいの狂気と孤独に苛まれていてもおかしくないのではないか、と思うが、やはりマサトは周りに人間がおらず、かつ死ぬことができなかったからこそあそこまで追い詰められてしまったわけで、そう考えるとこの猫は恵まれているような気さえしてくるから不思議である。


 まあそんな創作の話はさておき長門が過ごしたあの終わらない夏休みは638年と110日に渡ったという話である。


 いくら同じことの繰り返しとはいえ、それだけの年数を経験すれば、仙人のような老成した風格を身につけそうなものだが、その点に関しては長門がそんなに変わらなくてよかった、と俺は胸をなでおろすばかりだった。


 さて、ここで638年という年数について思いを巡らせてみよう。

 およそ638年前といえば、日本は南北朝時代の真っ只中でありヨーロッパでは第199代ローマ教皇のインノケンティウス6世が亡くなった頃である。テレビもなければラジオもなく、それどころか、活版印刷や平賀源内のエレキテルすら存在しない時代だ。そんな時代から現代までに流れた時間と同じ時間、長門はあの夏で過ごしたのだ。


 638年間常夏の世界で暮らしていたということを考えると、長門はもっと南国かぶれになっててもいいはずだよな、などと考えながら、アロハシャツを着て右手にトロピカルドリンクを持ち、サングラス越しに本を読む長門をぼんやりと眺めるのだった。


 長門、サングラスはない方がいいぞ。ここは室内だしな。


「100万回生きた長門有希」完

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