ジョン・レノン対長門有希

「お、長門だけか」

 部室のドアを開けるとそこには窓辺で本を読む長門がいるばかりであった。

「そう」

 長門はわずかに頷くような仕草とともに、そう答える。このわずかな角度の変化を感知できるのは、世界広しといえど俺くらいのものだろう。ふと、長門読んでいる本が気にかかった。

「なにを読んでるんだ?」

 長門はわずかに首をかしげるような仕草をする。このわずかな角度の変化を感知できるのも、やはり世界広しといえど、俺くらいのものだろう。少なくとも陸上では俺だけだという自負がある。俺が潜水できる海の深さより先の深海にいるかどうかは、確認できないので考えないこととする。

 暫くして長門は俺の言ったことを理解したように、本の背をこちら側に向けて示した。長門はめちゃくちゃ頭もいいし回転も速いはずなのに、基本的に普段の挙動がスローなんだよな、などと関係ないことを考えながらもその本のタイトルに目を走らせる。

 そこには『ジョン・レノン対火星人』というタイトルと、うまいんだかへたなんだかよくわからない絵が載っていた。

「高橋源一郎という人の小説…」

 長門は−30dbで小さく付け加えた。

「面白いのか?」

 長門は0.7mmほど顎を引いて困ったようにコンマ数ピコメートル眉をあげたかと思うと、2mmほど口を開いて「面白い」、と答えた。

 この仕草の示すサインはこれから小一時間怒涛のオタク語りが始まるがそれを聞きたいのか聞きたくないのか?という確認の意味を含んだジェスチャーである。

「2分37秒41ほどで簡潔に頼む」

 と俺が言うと、長門は

「3分5秒61より簡潔に話すと意思疎通に齟齬が発生すると思われる」と答えた。

「2分47秒29くらいでなんとかならんか」

 と俺は粘ってみる。

「高橋源一郎の他の作品を読んだことは?」

「存在すら知らん」

 長門は眉根を2ミリほど寄せ、やや困ったような表情を作る。

 眉根が2ミリは『やれやれ、あなたの無知無教養ぶりにはうんざりする、幼稚園からやり直して欲しい』という主張を婉曲に俺に伝えようとする時に決まって長門が発するサインである。

実際のところ俺はかなり頻繁に長門にこれをやられる。

「間でまったく息継ぎをしなければ2分56秒57までは短縮できるがそれ以上は発話に齟齬が発生することになる」

 長門の瞳が28μmほど揺らぐ、これはまだ押しても大丈夫なとき、申告した情報に余裕をもたせているときの長門の癖のようなものである。

「2分52秒20ならどうだ…?」

「2分53秒81」

「よし」

 この辺が限界だろうと見切りをつけ、俺はポケットからストップウォッチを取り出し、カウントの準備をして長門にゴーサインを出す。


「ジョン・レノン対火星人というのは作中冒頭に出てくる刑務所の野球チームの三塁コーチャーが出す『左のきんたまを2度、右のきんたまを一度握る』というサインの発する指示に由来するその三塁コーチャーが自殺してしまったためその『ジョン・レノン対火星人』というサインが意味するものはわからないままだったがその辺はとりあえず置いておいて物語は基本的にポルノグラフィ作家の主人公「わたし」同棲相手のパパゲーノ友人のヘーゲルの大倫理学ホステスのテータムオニールそしてきちがいの素晴らしい日本の戦争の5人を中心に物語が進んでいく様々な死体を幻視するきのちがってしまった素晴らしい日本の戦争を治療するためにセックスさせたり試行錯誤をするが、最終的に素晴らしい日本の戦争はきちがいのふりをしていただけだったことがわかるそれでも彼はきがちがっていないだけで様々な手法で殺された惨殺死体を幻視し続けてしまうということは自体は事実だったので結局耐えられずに死んでしまうそして素晴らしい日本の戦争を治療しようとしていた「わたし」たちは街をゆく人々をみな死体として幻視することになるこの作品の何が面白いのかというと作品自体に使われているあまりにも日常的な文体で理路整然とした文章という形態であまりにも異常な情景が描かれ続けることで私たちの日常が本当に正常であると言い切れるのだろうかという猜疑心を芽生えさせるところにあるひょっとしたら私たちの日常は非日常なのではないかそもそも日常などというものが存在するのかそれはそうとこの本を読んでいたということはこの小説はまだ読み終わってない状態であるということで読み終わってない小説をなぜわたしがここまで克明にオチまで説明できるのかということは深く触れないで欲しい」


 2分53秒81

 ぴったりである。さすがは長門だ。長門は目を150nmほど細め、眼球表面の水分量を0.7dℓほど貯めてこちらを見た。これは俺に反応を求める時のサインだ。

 俺は眉を2度2ミリほど上下させ長門をじっと見つめる。これは『なるほど、さっぱりわからん』のサインである。

 長門は目により多くの水分を貯めた(およそ7décilitreほど)、どうやら先ほどの俺のサインが3μsほど動作が遅れて『おまえの話は全然わからんし熱心に話してるその姿がキモい、死ね』のサインになってしまったようだ。ショックを受け目から涙を秒間五粒のペースでボロボロとこぼす長門は俺に背を向けると窓を開けて飛び降りようとした。

「おい、なにやってるんだ長門!ここは一階だぞ!」

 なんとか組みついて静止させることに成功したが長門の内包するパワーは2000万馬力はゆうに超え、瞬発的(秒数にして30μsほど)に腕から発せられる力は80億kgfにも達する。

 俺は四肢から血を1700mlほど吹き出し内臓は八割ほどやられてしまった。治療費に換算すれば200万はくだるまい。(昭和40年の200万は現在の2000万)

「…情報の伝達に齟齬が発生したかもしれない」

 長門はそういうと少し落ち着いた様子を取り戻し、左のきんたまを2度、右のきんたまを1度握った。

 これは『ジョン・レノン対火星人』のサインだ。


「…待て、長門。おまえにはきんたまはないはずだよな?」


「ジョン・レノン対長門有希」完

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